2016年4月23日土曜日

睡眠=母胎内への回帰(エロス)

誕生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、すなわち睡眠欲動が生じたと主張することは正当であろう。睡眠は、このような母胎内への回帰である。(フロイト、精神分析概説、1938)

フロイトは永遠の睡眠が間近に迫っていることを悟っていたこともあって、最晩年になって母胎内への回帰=睡眠を記したのではないか、--などとわたくしは穿った見方をしたくない。

フロイトは八十三歳まで生きて、最後の十六年は上顎癌の手術につぐ手術で、それでも死の一か月前まで仕事をして、友人に「もういいよ」とささやいて、かねて約束の致死量のモルヒネを打ってもらって死んでいった。それはそれで首尾一貫した生き死にだけれども、彼のもっぱら親しんだのがギリシャ悲劇であるのは、タナトスの血なまぐささと無関係でないような気がする。 (中井久夫「きのこの匂いについて」より『家族の深淵』所収)

ーー睡眠欲動には、タナトスの血なまぐさはない。睡眠欲動とは、フロイトの死の直前の言葉とは関係なしに、母胎内への回帰欲動だろう(もちろん、ここでは疲労等による睡眠「欲求」の話はしていない)。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance ](S.XVII)。

あるいは《人生は、自己流儀の死への廻り道であり、大抵の場合、人生は、急いで目標に到達するものではない。》(同セミネールⅩⅦ)

ーーと、ラカンが享楽と死とを結びつけているからといって、享楽は死の欲動にかかわるなどと単純に思い込んではならない。究極のエロス=享楽(死)への回り道が、タナトス=剰余享楽である。

享楽の原初の(不)可能性は、元々「享楽の存在 l'être de jouissance」としての生きた身体に位置したのだが、享楽の可能性そして同時にその失敗の必要性は、今では母へ投影される。社会の共謀によって、子どもは母へと固着させられる。彼女は絶対の享楽と禁止の選ばれた座席になる。

そのときの問題は、原初の享楽の残余は何かということだ。ふたたびラカンは曖昧な表現で答える、「剰余享楽 le plus-de-jouir」と。仏語では、これを二つの仕方で理解され得る、「もはや享楽しないnot enjoying any more」と「もっと享楽をmore of the enjoyment」である。防御的なエラボレーションの後に、主体にとって残っている享楽は、原初の形式未満の異なったものであり、決して十分に満足を与えない。(PAUL VERHAEGHE,New studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009

《……注意しておこう、フロイトにとって、「肯定」はエロスと融合の側にあり、「否定」はタナトスの側にあることを。死の欲動の特質、それは分離と分解へと向かう傾向をもつ(フロイト『否定』)。》(ポール・ヴェルハーゲ 、Sexuality in the Formation of the Subject、2005、原文ーー「ゼロと縫合」)

《結合の代用としての肯定はエロスに続し、排除の継承である否定は破壊欲動に属している》(フロイト『否定』旧訳)--[Die Bejahung – als Ersatz der Vereinigung – gehört dem Eros an, die Verneinung – Nachfolge der Ausstoßung – dem Destruktionstrieb.](Freud: Die Verneinung,1925)

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos 闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能、エロスと破壊と同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

エロスとは、《現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め》るものだ。とすれば、究極的に統合されてしまえば、個体の死がある。たとえば、《ヨーロッパ共同体が統合に向えば向かうほど、分離や独立のナショナリズムの衝動が芽生える》(ポール・ヴェルハーゲ、1998)。

タナトスとは、その融合から逃れようとする衝動である。それを破壊欲動とも呼ぶ。ここに中井久夫のいうような「血なまぐさ」の起源がある。

と、いささか断定的に記したが、わたくしはエロス/タナトスについて、ヴェルハーゲの解釈を最近ますます信頼している。多くの解釈者のエロス/タナトスはほとんど寝言ではないか、とさえ疑っている(参照:フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって)。

エロスとタナトスの二つの欲動は、全く反対の目的を目指す。一方で、融合することが、フロイトがエロスと呼んだものであり、分離することがタナトスである。そしてそれぞれ独自の快を持っている。この観点から、我々はなぜ「とことんまでall the way」行かないのかという我々の問いへの答えを示唆しうる。

まず最初に二つの相克する方向のせいであり、第二にどの方向も主体にとって堪え難い最終的な代償があるせいである。

タナトス欲動は理解するのに簡単だろう。それは解放とゼロテンションにむけて励む。それは最終段階としての死、そして死に向かった強烈な踏み台としてのオーガズムである。フロイトにとって、タナトスの目標とは分離であり、より大きな統一体からより小さな断片への絶え間ない分裂である。主体の水準において、これが意味するのは、他者からの分離であり、強化された個人的特性ーー私はここにいる、独立した人間として存在する、である。

エロスの目標は全く反対だ。それは融合であり、異なった要素を統合して、より大きな全体とすることである。そこでは個々の要素は、その個人的特性を失う傾向にある。生は、絶えず増大する緊張の集合体であり、それは純粋な享楽である。もっとも個人にとってはそうではない。個人は集合体へと消滅してしまう。個人はこの消滅をきわめて怖れることになる。

単独でタナトス欲動に従えば、我々は孤立して最終的には死ぬ。もっぱらエロス欲動に従えば、同様に我々は消滅する。今度はより大きな統合に飲み込まれるのだ。どちらもそれぞれ固有の享楽がある。どの人間も彼(女)自身の道の地図を作らねばならない。フロイトは、標準的な環境においては、二つの欲動は混ぜ合わされ(欲動融合Triebmischung)、各個人の人生において絶え間なく変化するカクテルだと言う。

ラカンはこのフロイトの論拠を引き継ぐ。享楽と死はきわめて近いものだ。享楽への道は、死への道である(Lacan, [1969-70], p. 18)。享楽それ自体、生きている主体には不可能である。というのはそれは自身の死を意味するのだから。唯一残された可能性は遠回りの道筋を取ることだ。目的地への到達を可能なかぎり遠くに延期してその道筋を行ったり来たりすることである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009)

中井久夫自身、次のように記している。

「死の本能」は戦争が生み出したものであって、平時の強迫神経症はむしろ、理論の一般化のための追加である。裁判でフロイトは戦争神経症を診ていないではないかと非難され、傷ついたであろう。これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。しかし、私は、「死の本能」を仮定するよりも、夢作業が全力を尽くしても消化力が足りないと考える。このほうが簡単である。そもそも目覚めてもしばらくは記憶している夢は夢作用が消化しつくせなかった残りかすではないか。夢の分りにくさと、その問題性とは、夢作業の不消化物だからではないかと私は思う。(「トラウマについての断想」『日時計の影』所収 53頁)

「夢作業の不消化物」が「死の本能」の実態ではないか、とある。わたくしは、これを究極の享楽=睡眠(エロス)の残滓が、剰余享楽=タナトス欲動だという風に読みたい。

もちろん、エロス/タナトス概念はほとんどどの論者は曖昧なままであり、中井久夫の次の文もそうだ。

……実際、背の下にふかぶかと腐葉土の積み重なるのを感じながら、かすかに漂う菌臭をかぎつつ往生するのをよしとし、大病院の無菌室で死を迎えるのを一種の拷問のように感じるのは、人類の歴史で野ざらしが死の原型であるからかもしれない。野ざらしの死を迎える時、まさに腐葉土はふかぶかと背の下にあっただろうし、菌臭のただよってきたこともまず間違いない。

もっとも、それは過去の歴史の記憶だけだろうか。菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。公園に森があって彼らのために備えているのも、そのためかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」より『家族の深淵』所収ーー「トラウマを飼い馴らす音楽」より)

このように、一般には、フロイトのTriebmischung(エロスとタナトスの欲動融合)概念を言うのが無難ではあるが、わたくしは母胎内回帰とは、タナトスではなく、究極のエロスとしたい。

……ここに描かれている三人の女たちは、生む女、性的対象としての女、破壊者としての女であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係なのだ。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ愛人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『小箱選びのモティーフ』,1913)

この母なる大地に回帰することが、ヴェルハーゲ解釈では究極のエロスであり、冒頭に掲げたフロイトの「母胎内への回帰」である。

ところで、ドゥルーズ自身、このフロイトの三人の女をめぐって次ぎのように言っている。

マゾッホによる三人の女性は、母性的なるものの基本的イメージに符号している。すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。―――それから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。―――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母親である。(……)滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧する……。彼女は最終的な勝利者となる。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)

口唇的な母親、ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母親に回帰することが、エロスでなくてなんだというのか。

より詳しくは、「融合と分離、愛と闘争、 Zoë とBios(永遠の生と個人の生)」を見よ。

…………

※附記

全ての欲動は、潜在的に〔実質的に)死の欲動である〔…toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.〕(Lacan Ecrit 848)とラカンはいってはいる。

だが、ラカンは「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」(セミネールⅩⅩ)として欲動を解釈している。

剰余享楽 plus-de-jouir を「享楽の欠片 les lichettes de la jouissance」(セミネールⅩⅦ)ともしている。もちろん、剰余享楽とは、死の欲動(タナトス)にかかわる。

半永久的な反復運動としての死の欲動は、喪われた享楽 jouissance perdue =究極のエロスの周囲を永遠に旋回する、としてよいのではないか。

まさに享楽の喪失が、その自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生み出す。というのは享楽は、いつも常に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

この理由で、欲動に駆り立てられるセクシャリティは、fascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の反復運動となる。なぜなら、エロスが真に実現してしまえば、それは主体の死となるのだから。

どの「標準的な」男も、否応なしに女へと駆り立てられる。焼けつくような燈火へ向かう蛾のように、男は欲動に駆り立てられる。それは、萩原朔太郎の「青猫」序文にあるごとく。


燈火の周圍にむらがる蛾のやうに
ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ
そが見えざる實在の本質に觸れようとして
むなしくかすてらの脆い翼をばたばたさせる
私はあはれな空想兒
かなしい蛾蟲の運命である。

…………

最後にラカンによるラメラの「神話」を掲げておこう。

新生児になろうとしている胎児を包んでいる卵の膜が破れるたびごとに、何かがそこから飛び散る、とちょっと想像してみてください。卵の場合も人間、つまりオムレットhommelette)、ラメラ(薄片)の場合も、これを想像することはできます。

ラメラ、それは何か特別に薄いもので、アメーバのように移動します。ただしアメーバよりはもう少し複雑です。しかしそれはどこにでも入っていきます。そしてそれは性的な生物がその性において失ってしまったものと関係がある何物かです。それがなぜかは後ですぐお話しましょう。それはアメーバが性的な生物に比べてそうであるように不死のものです。なぜなら、それはどんな分裂においても生き残り、いかなる分裂増殖的な出来事があっても存続するからです。そしてそれは走り回ります。

ところでこれは危険がないものではありません。あなたが静かに眠っている間にこいつがやって来て顔を覆うと想像してみてください。

こんな性質をもったものと、われわれがどうしたら戦わないですむのかよく解りませんが、もし戦うようなことになったら、それはおそらく尋常な戦いではないでしょう。
このラメラ、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーー、それはリビドーです。

これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。

それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象aについて挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。(ラカン『セミネールⅩⅠ』)

Cette lamelle, cet organe qui a pour caractéristique de ne pas exister, mais qui n'en est pas moins un organe - et je pourrai vous donner plus de développement sur sa place zoologique - je vous l'ai déjà indiqué, c'est la libido.

La libido, je vous ai dit, en tant que pur instinct de vie, c'est-à-dire dans ce qui est retiré de vie, de vie immortelle, de vie irrépressible, de vie qui n'a besoin, elle, d'aucun organe, de vie simplifiée et indestructible, de ce qui est justement soustrait à l'être vivant, d'être soumis au cycle de la reproduction sexuée.

C'est de cela que représente l'équivalent, les équivalents possibles, toutes les formes que l'on peut énumérer, de l'objet(a). Ils ne sont que représentants, figures.


ーー性的存在としての個人の誕生は、不死の生 vie immortelle の喪失を意味する、と読んでいいだろう。