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2018年8月1日水曜日

私は痴である

いやあ、じつにすばらしい、塩田明彦の『月光の囀り』は。彼のこの作品をめぐっての三連投になっちまった。




とはいえボクの基本は、《愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』1970)だからな

ようするにシャンゼリゼの雪なんだ。 《私がそれを「経験した」日にシャン=ゼリゼをつつんでいた雪は、はらいのけられてはいなくて、私にはいつもその雪が目に見える。》(プルースト「見出されたとき」ーーパンセと石鹸の広告) 

とはいえシャンゼリゼの雪を超えた何ものかがシカとある。彼は蓮實チルドレンのひとりらしいが、自転車シーンのみごとさとはひょっとしてそれにかかわるのかも。たとえばひとは、あまりにも名高い小津「晩春」の自転車シーンと同じにおいをかがねばならない。

しかも、ああ、つぎの極度にテンポをおとしたアンダンティーノを見よ!




ここには「自体性愛的享楽」(自ら享楽する身体)の芸術家ヤン・ファーブル Jan Fabreーー「私は血である Je Suis Sang」の舞台演出家ファーブルーーまでいる。




現在、ヤン・ファーブル への愛を、塩田明彦に乗り換えようか否か、と検討中である。