大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ). (ラカン、S24, 08 Mars 1977)
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である …« Lⱥ femme 斜線を引かれた女»は S(Ⱥ) と関係がある。…彼女は« 非全体 pas toute »なのである。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)
象徴界 le symbolique は穴 trou である(ラカン、S22、18 Février 1975)
これらは、三つとも(ほぼ)同じ意味である(参照:大他者なき大他者)。
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次に柄谷行人の三つの文を並べる。
最初の文にある《自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系あるいは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない》。
これがまず、ラカン派における穴Ⱥの意味である(あるいはȺのシニフィアンS(Ⱥ))。
ラカンにとって、大他者の大他者はない Il n’y a pas d’Autre de l’Autre とは、まずなによりも「メタランゲージはない il n'y a pas de métalangage」という意味なのだから。
そして柄谷行人の文の最も簡潔な要約として、ラカンの次の文を引用することができる。
冒頭の三文のひとつを再掲しよう。
Ⱥとは、 《大他者のなかの穴 trou dans l'Autre》(ミレール、2007)という意味である。そのシニフィアンがS(Ⱥ) =「大他者は存在しない」のシニフィアンである。
そして柄谷が《ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある》と言うとき、これは(穴ではなく)「欠如」にかかわる。
次に二番目の文における柄谷による固有名の定義。これはララングにかかわる。《ララングは固有名の核である 》(Bernard Nomine、Three of four things about the Father and the knot)
柄谷文を再掲しよう。コレット・ソレールとほとんど同じことを言っている。
※よりくわしくは「ララング定義集」を見よ。そして「言葉の物質性 motérialité」については、「中井久夫のララング論」を見よ。
柄谷は「言語の社会性」と言っているが、これが《無根拠であり非対称的な交換関係》である。
この「非対称的な交換関係」が、ラカンの穴であり、非全体、非関係である。
もちろん臨床的観点からは別の議論があるが(とくに「原初に喪われた対象」の議論:参照「三種類の原抑圧」)、言語論・表象論としてのラカンは、柄谷行人のなかにほぼ十全にある(ラカンも柄谷も大きな準拠はマルクスの価値形態論にあるので当然といえば当然だが)。
たとえばジュパンチッチの次の文は、上に引用した柄谷行人の「言語・数・ 貨幣」の文の翻訳としてさえ読める。
言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式 体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系あるいは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あ るいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年)
固有名は、言語の一部であり、言語の内部にある。しかし、それは言語にとって外部的である…それは一つの差異体系(ラング)に吸収されないのである…言語における固有名の外部性は、言語がある閉じられた規則体系(共同体)に還元しえないこと、すなわち言語の「社会性」を意味する。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)
マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978年)
最初の文にある《自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系あるいは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない》。
これがまず、ラカン派における穴Ⱥの意味である(あるいはȺのシニフィアンS(Ⱥ))。
ラカンにとって、大他者の大他者はない Il n’y a pas d’Autre de l’Autre とは、まずなによりも「メタランゲージはない il n'y a pas de métalangage」という意味なのだから。
そして柄谷行人の文の最も簡潔な要約として、ラカンの次の文を引用することができる。
すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)
冒頭の三文のひとつを再掲しよう。
大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ). (ラカン、S24, 08 Mars 1977)
Ⱥとは、 《大他者のなかの穴 trou dans l'Autre》(ミレール、2007)という意味である。そのシニフィアンがS(Ⱥ) =「大他者は存在しない」のシニフィアンである。
Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる comporte un manque、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)
そして柄谷が《ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある》と言うとき、これは(穴ではなく)「欠如」にかかわる。
穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンの教えを以前のラカンとを異なったものにする。
この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。
欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権限 instance である。
ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。
穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, 6 juin 2001)
次に二番目の文における柄谷による固有名の定義。これはララングにかかわる。《ララングは固有名の核である 》(Bernard Nomine、Three of four things about the Father and the knot)
三界(象徴界・想像界・現実界)の基礎は、フレーゲが固有名と呼ぶもの que FREGE appelle noms propres である。 (ラカン、S24. 16 Novembre 1976)
・ララングは享楽を情動化する。…ララング Lalangue は象徴界的 symbolique なものではなく、現実界的 réel なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外 hors chaîne のものであり、したがって意味外 hors-sens にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる
le signifiant devient réel quand il est hors chaîne )。そしてララングは享楽と謎の混淆をする。…ララングは意味のなかの穴であり、トラウマ的である。…ラカンは、ララングのトラウマをフロイトの性のトラウマに付け加えた。
・現実界の症状、それは意味から切断されているが、言語からは切断されていない。現実界の症状は、「言葉の物質性 motérialité」と享楽との混淆であり、享楽される言葉あるいは言葉に移転された享楽にかかわる。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )
柄谷文を再掲しよう。コレット・ソレールとほとんど同じことを言っている。
固有名は、言語の一部であり、言語の内部にある。しかし、それは言語にとって外部的である…それは一つの差異体系(ラング)に吸収されないのである…言語における固有名の外部性は、言語がある閉じられた規則体系(共同体)に還元しえないこと、すなわち言語の「社会性」を意味する。(柄谷行人『探求Ⅱ』)
※よりくわしくは「ララング定義集」を見よ。そして「言葉の物質性 motérialité」については、「中井久夫のララング論」を見よ。
柄谷は「言語の社会性」と言っているが、これが《無根拠であり非対称的な交換関係》である。
マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978年)
この「非対称的な交換関係」が、ラカンの穴であり、非全体、非関係である。
真理は女である。真理は常に、女のように非全体である。la vérité est femme déjà de n'être pas toute(ラカン,Télévision, 1973, AE540)
穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(S22, 17 Décembre 1974)
もちろん臨床的観点からは別の議論があるが(とくに「原初に喪われた対象」の議論:参照「三種類の原抑圧」)、言語論・表象論としてのラカンは、柄谷行人のなかにほぼ十全にある(ラカンも柄谷も大きな準拠はマルクスの価値形態論にあるので当然といえば当然だが)。
たとえばジュパンチッチの次の文は、上に引用した柄谷行人の「言語・数・ 貨幣」の文の翻訳としてさえ読める。
表象は、「過剰なものへの無限の滞留 infinite tarrying with the excess」である。それは、表象された対象、あるいは表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に内在的な「裂目」、非一貫性(非全体 pastout)から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ2004 “Alenka Zupancic、The Fifth Condition”, 2004)
「言語」を「表象」に置き換えて読んでみれば、相同性がよく分かるだろう。、
言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式 体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系あるいは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あ るいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年)
他にも、たとえば柄谷がすべての人間の行為は経済的なものだというとき、これはラカンの「言説」を示している。
広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。(……)その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)
言説 Le discoursとは何か? それは、言語の存在によって生み出されうるものの配置のなかに、社会的つながり lien social(≒社会的交換) の機能を作り上げるものである。 (Lacan, ミラノ講演、1972)
※ここでの現実界の捉え方ーーとくにジュパンチッチの《現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない》ーー、これとは別の現実界についての観点は、「二つの穴と二つの現実界」を見よ。