ラカンはセミネールⅪで「二つの欠如」ということを言っている。これは後期ラカン用語からすれば「二つの穴」である(参照)。
事実、セミネールⅩⅩⅢにおいて二つの穴 trou が示されている。
この前提でまずセミネールⅩⅠにおける「二つの欠如」をめぐる発言をいくらか見てみよう。
ラカンはそこで、《二つの欠如が重なり合う Deux manques, ici se recouvrent》と言っている。
一方の欠如は、《主体の誕生 l'avènement du sujet 》によるもの。つまりシニフィアンの世界に入場することによる象徴的去勢にかかわる欠如である。そして、《この欠如は別の欠如を覆うようになる ce manque vient à recouvrir,…un autre manque 》。
この別の欠如とは、《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》であり、《生存在の誕生 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産 la reproduction sexuée》において齎された《己れ自身の部分として喪失した欠如 Ce manque c'est ce que le vivant perd de sa part de vivant 》と言っている。
この「現実界的欠如 le manque réel」(実際は穴)は出産外傷に近似したものによる欠如である。
例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を象徴する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. (ラカン、S11, 20 Mai 1964)
ラカンはこの欠如を後年、穴と表現している。
・夢の臍 l'ombilic du rêve…それは欲動の現実界 le réel pulsionnel である。
・欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。
・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。
・人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。
・臍とは聖痕である。l'ombilic est un stigmate
・臍とは身体の結び目 nœud corporelである。この結び目…注目すべき期間ーー九ヶ月のあいだーー生の伝達に奉仕し、その後(永遠に)閉じられる。
これが結び目と空洞とのあいだのアナロジー analogie entre ce nœud et l'orifice である。こうして洞は仕上げられる。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
ようするに「象徴界 le symbolique は穴 trou 」(S22、1975)とラカンが言うときの穴と、出産外傷的な穴、この二つの穴が最低限ある。おそらくそれ以外にもあるが、説明が煩雑になるのでここでは割愛。
⋯⋯⋯⋯
※付記挿入(参照「三種類の原抑圧」)。
わたくしの考えでは次の図のそれぞれの横棒線の段階において喪われた対象(モノ)が生じる。
すなわちラカンの思考においては、実際上は、最低限、三つの穴があると考えているが、ここでは詳細ははぶく。
⋯⋯⋯⋯
象徴界は穴というときの言語の世界に入場したことによって生じる穴は、セミネールⅩⅦの次の文に鮮明に表れている。
ようするに穴とは対象a(喪われた対象)である(フロイトの「モノdas Ding」[参照])。その穴が最低限ふたつある。
現在ラカン派では現実界の定義において紛糾がある。
臨床的ラカン派は二つの現実界を強調するようになっている。’
ポール・バーハウは「性的生」、コレット・ソレールは「生存在」という語を使っていることに注意しよう。これは上に引用したセミネールⅩⅠにおける「生存在」のことである。 すなわち《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》《生存在の誕生 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産 la reproduction sexuée》において齎された《生存在が、己れ自身の部分として喪失した欠如 Ce manque c'est ce que le vivant perd de sa part de vivant 》という文脈のなかにある「生存在」である。
さらにソレールの文のなかに、「形式化の行き詰まり」「書かれぬことをやめぬもの」との出会いとあるが、これが中期までのラカンの現実界だった。
「書かれぬことをやめぬ ne cesse pas de ne pas s'écrire」現実界が、偶然の出会いによって「書かれぬことをやめる cesse de ne pas s'écrire 」、これがアンコールまでのラカンの現実界だった。
だが、翌年ラカンは「書かれることをやめぬ ne cesse pas de s’écrire」という現実界があると言明することになる(参照:「書かれぬ事を止める」から「書かれる事を止めぬ」へ)。
この現実界が現在の臨床的ラカン派の核心である。
他方、哲学的ラカン派は、表象の裂け目、形式化の行き詰まりによる現実界のみを考える傾向にある。
今、ジュパンチッチのバディウ論を引用するが、すなわちジュパンチッチだけではなくバディウもおそらくひとつの現実界しか考えていない。
ジジェクも同様である。
穴、あるいは原初に喪われた対象の問いとは、「強制された運動の機械」としてあるわれわれの生の起源はどこにあるのかという問いである。
わたくしの考えでは、ドゥルーズ=プルーストの「三つの機械 Les trois machines」とは「三つの穴」にかかわる。
象徴界は穴というときの言語の世界に入場したことによって生じる穴は、セミネールⅩⅦの次の文に鮮明に表れている。
S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって既に構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a [l'objet(a)] 」である。…
この喪われた対象 objet perdu の機能、それは、話す存在 être parlant においての反復として、フロイトによって特定化された意味である。(ラカン、S17 26 Novembre 1969 )
ようするに穴とは対象a(喪われた対象)である(フロイトの「モノdas Ding」[参照])。その穴が最低限ふたつある。
ラカンの昇華の諸対象 objets de la sublimation。それらは付け加えたれた対象 objets qui s'ajoutent であり、正確に、ラカンによって導入された剰余享楽 plus-de-jouir の価値である。言い換えれば、このカテゴリーにおいて、我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体と身体にとって喪われたものからくる諸対象 objets qui viennent du corps et qui sont perdus pour le corps を持っているだけではない。我々はまた原初の諸対象 premiers objets を反映する諸対象 objets を種々の形式で持っている。問いは、これらの新しい諸対象 objets nouveaux は、原対象a (objets a primordiaux )の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre May 2013)
現在ラカン派では現実界の定義において紛糾がある。
臨床的ラカン派は二つの現実界を強調するようになっている。’
ラカンは常に「喪失」を語っている。最も明瞭な定式化はセミネールXIに見出される。性的存在としての個人の生誕は永遠の生の喪失を意味する、と(セミネールXIにおけるラメラ lamella 神話を見よ)。…
しかしセミネールXVIIにおいて、享楽の喪失をもたらすシニフィアンの導入がある。これは一見、ラカンの以前のポジションの逆転のようにみえる。
だが私の読解では、これは正しくない。シニフィアンによってもたらされる喪失は、性的生の導入によってもたらされる喪失の上に来る。シニフィアンによる喪失は、原初の喪失の別の反復というだけではなく、この原喪失への答えを定式化する試みである。
この試みは構造的理由で失敗する。したがって必然的に「アンコール Encore(もっとふたたび)」、すなわちフロイトの反復強迫がある。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, 2006、Enjoyment and Impossibility)
現実界は外立する。外部における外立。この外立は、象徴的形式化の限界に偶然に遭遇することとは大きく異なる。書かれぬことをやめぬものとの偶然の出会いとは大きく異なる。
象徴的形式化の限界との遭遇あるいは書かれぬことをやめぬものとの偶然の出会いとは、ラカンの表現によれは、象徴界のなかの「現実界の機能」である。そしてこれは象徴界外部の現実界と区別されなければならない。象徴界外部の現実界とは、(主体ではなく)生存在の側にある。この生きる存在について、私たちはどんな観念もなく、想像しえないものである。象徴界はそれについて何も知らない。(コレット・ソレール Colette Soler, 2009、L'inconscient Réinventé)
ポール・バーハウは「性的生」、コレット・ソレールは「生存在」という語を使っていることに注意しよう。これは上に引用したセミネールⅩⅠにおける「生存在」のことである。 すなわち《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》《生存在の誕生 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産 la reproduction sexuée》において齎された《生存在が、己れ自身の部分として喪失した欠如 Ce manque c'est ce que le vivant perd de sa part de vivant 》という文脈のなかにある「生存在」である。
さらにソレールの文のなかに、「形式化の行き詰まり」「書かれぬことをやめぬもの」との出会いとあるが、これが中期までのラカンの現実界だった。
現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)
「書かれぬことをやめぬ ne cesse pas de ne pas s'écrire」現実界が、偶然の出会いによって「書かれぬことをやめる cesse de ne pas s'écrire 」、これがアンコールまでのラカンの現実界だった。
偶然性 la contingence を、わたしは、書かれぬ事をを止める cesse de ne pas s'écrire で示した。というのも、そこにはまさに出会い rencontre があるからである。(Lacan, S20、26 Juin 1973)
だが、翌年ラカンは「書かれることをやめぬ ne cesse pas de s’écrire」という現実界があると言明することになる(参照:「書かれぬ事を止める」から「書かれる事を止めぬ」へ)。
症状は、現実界について書かれる事を止めぬ le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
この現実界が現在の臨床的ラカン派の核心である。
他方、哲学的ラカン派は、表象の裂け目、形式化の行き詰まりによる現実界のみを考える傾向にある。
今、ジュパンチッチのバディウ論を引用するが、すなわちジュパンチッチだけではなくバディウもおそらくひとつの現実界しか考えていない。
表象は、「過剰なものへの無限の滞留 infinite tarrying with the excess」である。それは、表象された対象、あるいは表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に内在的な「裂目」、非一貫性(非全体 pastout)から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ2004 “Alenka Zupancic、The Fifth Condition”, 2004)
ジジェクも同様である。
現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に内在的なものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体 pastout である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。
存在(現実) [being (reality)] があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の袋小路だから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界 the Real は形式化の袋小路以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)
穴、あるいは原初に喪われた対象の問いとは、「強制された運動の機械」としてあるわれわれの生の起源はどこにあるのかという問いである。
祖母の思い出の中に、何が起こったのか。ひとつの強制された運動が、ひとつの反響(共鳴)とかみ合うのである。死の観念を持った拡がりが、共鳴する瞬間を除去してしまった。しかし、見出された時と、失われた時とのあいだの、あれほど激しい矛盾は、両者のそれぞれを、その生産の系列と関連させている限り、解決される。
『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)である。
このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。
それが失われた時のばあいには、部分対象 objets partiels の断片化により、見出された時のばあいには共鳴 résonance による。失われた時のばあいには、別の仕方で、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この喪失は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」第二版 1970年)
わたくしの考えでは、ドゥルーズ=プルーストの「三つの機械 Les trois machines」とは「三つの穴」にかかわる。