私は詩人ではない、だが私は詩である。je ne suis pas un poète, mais un poème.(ラカン、AE572、17 mai 1976)
いやあ、『月光の囀り』の最後のシーンであるが、実に美しい。ああ、なんという「性関係はない」「性的非関係」の至高の表現、イマージュであることか!
これこそ、前期ラカンの、男性の愛の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女性の愛の《被愛妄想形式 la forme érotomaniaque》(E733)を超えた「マヌケ男とキチガイ女の出会い」の途轍もなくすぐれた表象である。
「アンコール」のラカンは、性カップルについて語るなか、「間抜け idiot 男」と「気狂い folle 女」の不可能な出会いという点に焦準化する。言い換えれば、一方で、去勢された「ファルス享楽」、他方で、場なき謎の「他の享楽」である。 (コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )
とはいえ、ここで誤解のないように断っておかねばならない。『月光の囀り』をめぐる三連投目で「私は痴である」と明瞭に示しているように、わたくしはキ印の側にあることを。わたくしはマヌケ男ではないのである。 蚊居肢子はつねに夏の光を背負っている。
扉があいて、先の女が夏の光を負って立った。縁の広い白い帽子を目深にかぶっているのが、気の振れたしるしと見えた。(古井由吉『山躁賦』杉を訪ねて)
ああ、なんという美しく夏の光を背負った「場なき」キチガイ女と「去勢された」マヌケ男であることか。かれらはああやって幸福の扉の閾をわずかばかり踏みくぼめたのである。だが・・・
幸福とはまぢかい迫りつつある損失の性急な先触れにすぎないのだ……
たとえば閾。愛しあう二人は、昔からある扉口の閾をかれら以前の多くの人、またかれらの後にくる未来の人々と同様にすこしばかり踏みくぼめるが、それは二人にとって通常の閾だろうか……、いな、かろやかに越える閾なのだ、(リルケ『ドゥイノの悲歌「第九の悲歌」)