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2018年8月4日土曜日

あなたは時々オニになる

生きていく   谷川俊太郎

鏡に映っているのは今日のわたし
昨日のわたしとかくれんぼしている
冷蔵庫の扉にはメモがいっぱい
捨てられないのがどれかは秘密
溜まったビールの空き缶出して
駅までの坂の途中で不意に
迷っていた案件の解決が浮かび
小さな満足を自分に許す
あなたは時々オニになると
幼馴染に言われたことが忘れられない
わたしはわたしと開き直ると
余計自分がわからなくなる
生きていく 花屋の店先の薔薇のように
生きていく 父の記憶を更新しながら
生きていく 謎めいた香りの明日に向かって
生きていく ひとりで

2018年7月20日


いい詩だな、もうすぐ87才になる詩人が書いたと思うと余計にそう感じてしまう。

《あなたは時々オニになると/幼馴染に言われたことが忘れられない》という詩のなかの言葉をマにうける不粋をおかすなら、この幼なじみは1954-1955年に妻だった岸田衿子さんじゃないかな、たぶん。《僕は四月に女と別れられなかつた》(「二つの四月」『絵本』1956 所収)

どうも私は生まれつき詩人なのではないか、これは自惚れではなく自戒である。詩というものの、不人情につながりかねない「非人情」(『草枕』における漱石の言葉)に、私は苦しめられているからだ。(谷川俊太郎『真っ白でいるよりも』「あとかぎ」、1995年)

谷川の「非人情」は、漱石の云う「非人情」とともに、安吾の「アモラル」を想い出すね。谷川俊太郎は、日本でほとんど唯一の「職業としての詩人」だから読者サービスの詩もたくさんあるけど、根にあるのはアモラルだろうな。1990年の前半に『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』(1975年)を偶然に手に入れて、谷川の詩集のなかでは最も好きな二冊のうちのひとつなんだけど、つくづくそう思ったな。

シャルヽ・ペローの童話に「赤頭巾」といふ名高い話があります。既に御存知とは思ひますが、荒筋を申上げますと、赤い頭巾をかぶつてゐるので赤頭巾と呼ばれてゐた可愛い少女が、いつものやうに森のお婆さんを訪ねて行くと、狼がお婆さんに化けてゐて、赤頭巾をムシャ〳〵食べてしまつた、といふ話であります。まつたく、たゞ、それだけの話であります。 

童話といふものには大概教訓、モラル、といふものが有るものですが、この童話には、それが全く欠けてをります。それで、その意味から、アモラルであるといふことで、仏蘭西では甚だ有名な童話であり、さういふ引例の場合に、屡々引合ひに出されるので知られてをります。
⋯⋯⋯愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さといふものが何もない可憐な少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行つて、お婆さんに化けて寝てゐる狼にムシャ〳〵食べられてしまふ。 

私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違つたやうな感じで戸惑ひしながら、然し、思はず目を打たれて、プツンとちよん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでせうか。
⋯⋯⋯そこで私はかう思はずにはゐられぬのです。つまり、モラルがない、とか、突き放す、といふこと、それは文学として成立たないやうに思はれるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのやうでなければならぬ崖があつて、そこでは、モラルがない、といふこと自体がモラルなのだ、と。
⋯⋯⋯生存の孤独とか、我々のふるさとゝいふものは、このやうにむごたらしく、救ひのないものでありませうか。私は、いかにも、そのやうに、むごたらしく、救ひのないものだと思ひます。この暗黒の孤独には、どうしても救ひがない。我々の現身は、道に迷へば、救ひの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷ふだけで、救ひの家を予期すらもできない。さうして、最後に、むごたらしいこと、救ひがないといふこと、それだけが、唯一の救ひなのであります。モラルがないといふこと自体がモラルであると同じやうに、救ひがないといふこと自体が救ひであります。

私は文学のふるさと、或ひは人間のふるさとを、こゝに見ます。文学はこゝから始まる――私は、さうも思ひます。(坂口安吾『文学のふるさと』1941年)

ラカンの「非関係 non-rapport」というのも、結局このアモラルなんだ、ボクの偏ったアタマでは。

穴(=構造的トラウマ trou-matisme)、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(S22, 17 Décembre 1974)

で、美はこのーー快原理の彼岸、つまり象徴界外・言語外にある現実界のなかのーー穴に対する最後の防衛ということになる。

美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

これ自体、ジュネ=ジャコメッティの言ってることだ。

美には傷 blessure 以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)