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2018年8月5日日曜日

男というものは存在しない

文句言ってくる女性の方がいるけど、「男というものは存在しない」としたらご機嫌ガオナオリニナルデショウカ?

女というものは存在しない。同様に、男というものも存在しない。The Woman does not exist, neither does The Man. (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、1995年)
ラカンの「女というものは存在しない la Femme n'existe pas」という命題を受け入れるなら、スラヴォイ・ジジェクが言うように、男というものの定義は次のようなものになる――男は「自分が存在すると信じている女である」。( アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』2000年)

※《if woman does not exist, man is perhaps simply a woman who thinks that she does exist.》 (ZIZEK, THE SUBLIME OBJECT OF IDEOLOGY, 1989)

男というものも女というものもたんにシニフィアンである。つまり見せかけのこと。

見せかけ、それはシニフィアン自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (Lacan,S18, 13 Janvier 1971)

見せかけとは無を覆う機能で、フェティッシュと等価。

我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶNous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien(Miller 1997、Des semblants dans la relation entre les sexes、1997)

だから言語自体がフェティッシュだよ。

…言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(クリスティヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)

これは初期ニーチェがすでに言っていることの変奏、《言語はレトリックである Sprache ist Rhetorik》(講義録 WS 1871/72 – WS 1874/75)。

後年にはさらに、《「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である》(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)と言うようになる。仮象とは見せかけ semblant のこと。事実、ラカンの”Semblant” は 独訳では”Schein” と訳されている。

ただし、「人はみな妄想する」(参照)。

そして男は「自分が存在する」と「妄想しうる」ファルスというシニフィアン(表象)がある。他方、女は自分が存在すると妄想しうるシニフィアンがない。ファルスマイナスしかない。

男性性は存在するが、女性性は存在しない gibt es zwar ein männlich, aber kein weiblich。(⋯⋯)

両性にとって、ひとつの性器、すなわち男性性器 Genitale, das männliche のみが考慮される。したがってここに現れているのは、性器の優位 Genitalprimat ではなく、ファルスの優位 Primat des Phallus である。(フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)

フロイトがここで言ってるのは、解剖学的なオチンチンのことではなく、機能としての・目印としてのオチンチン=ファルスの有無がカンジンだということ。

ファルスのゲシュタルトは、その徴がなされているか、徴がなされていないかとしての両性を差異化する機能を果たすシニフィアンを人間社会に提供する。(Safouan , Lacaniana、2001)

そもそも赤ちゃんが生まれたとき、何に注目するのかを少しでも想起するなら、人はみなファルス主義者だよ。

ジジェクは、1990年前後からラカンの論理を使って、「自然は存在しない」と言い放っているし、最近は「動物は存在しない」とさえ言っている。

ラカン派がヘンだというのなら、ニーチェだってヘンだよ。ラカン派は、たんに言葉の使用の仕方がいくらか挑発的なだけさ。

ニーチェは「人は妄想する」から論理学や数学があるのであって、そうでなかったら「論理学は存在しない」、「数学は存在しない」と言ってる。

論理学は、現実の世界にはなにも対応するものがないような前提、たとえば同等な物があるとか、一つの物はちがった時点においても同一であるというような前提にもとづいている。…数学についても同じことがいえる。もしひとがはじめから厳密には直線も円も絶対的な量もないことを知っていたら、数学は存在しなかっただろう。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』1-11)

以上。