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2018年8月5日日曜日

羊水をとおしての刻印

最も肝要なのは羊水である。あれこそ原対象a、つまり原初に喪われた対象(モノ)である。《(フロイトによる)モノ、それは母である。das Ding, qui est la mère》( S7 1959)であり、モノは無物とのみ書きうる  la  chose ne puisse s'écrire que « l'achose »》(ラカン、S18、 1971)。

すなわちモノが母なる引力としての無=ブラックホール(参照)だというのは羊水の引力という意味であり、ラカンによる「享楽の空胞 vacuole de la jouissance」とはこの文脈で捉えなければならない(参照)。

そもそも作家や詩人たちによって語られる海とは、おそらく多くの方々がすくなくとも無意識的には気づいているように、母なる羊水の隠喩にほかならない。

僕は海にむかって歩いている。僕自身の中の海にむかって歩いている。(中上健次『海へ』)
海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。(三好達治「郷愁」)
私は女の肉体をだきしめてゐるのでなしに、女の肉体の形をした水をだきしめてゐるやうな気持になることがあつた。(坂口安吾『私は海をだきしめてゐたい』)

もちろん「海」は安吾のいうように「水」でもよい。これも初期中上がすでに書いている。

水は人の心を広く安らかにするものらしい。水は寛大で又豊かで、全ての憧れや全ての疲れや、果しない彷徨に蒼ざめて航路を見失ふた心の帰る処であるのだらうか。水は一つの故里であるかも知れない。水は悠々として永遠に流れ、永遠に帰り――その渺々たる水面に静かな陰を落すであらう漂泊の雲と共に、我々に永遠を感じさせる貴重な一つであるかも知れない。その果にもはや国は無いやうな心細さの湧いてくるとき、周囲には無限の無のみ感ぜられて身に触れる何の固体も想像を許さぬ絶望のとき、併し水はそれ本来の性質として常に温い愛情を人に与へ、他の何物に由つても医し難い冷酷な孤独を慰めて呉れるであらう。人はその苦しみの日に、洋々たる水を、又潺湲(せんかん)たる流れを眺めることに由つて和やかな休止にひたり得るであらう・(中上健次『竹藪の家』)

いまからフロイト曰くの「我々の存在の核 Kern unseres Wesen」あるいは「真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perle」にかかわる羊水の重要性をいくらか理論的に示そう。

⋯⋯⋯⋯

言語発達は、胎児期に母語の拍子、音調、間合いを学び取ることにはじまり、胎児期に学び取ったものを生後一年の間に喃語によって学習することによって発声関連筋肉および粘膜感覚を母語の音素と関連づける。要するに、満一歳までにおおよその音素の習得は終わっており、単語の記憶も始まっている。単語の記憶というものがf記憶的(フラシュバック記憶的)なのであろう。そして一歳以後に言語使用が始まる。しかし、言語と記憶映像の結び付きは成人型ではない。(中井久夫「記憶について」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)

フラシュバック記憶的とは、中井久夫の語彙ではトラウマ的という意味である。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

母胎内において、人は母の言葉のトラウマ的刻印を受けている。

少し前からわかっているように、人間は、胎児の時に母語--文字どおり母の言葉である--の抑揚、間、拍子などを羊水をとおして刻印され、生後はその流れを喃語(赤ちゃんの語るむにゃむにゃ言葉である)というひとり遊びの中で音声にして発声器官を動かし、口腔と口唇の感覚に馴れてゆく。一歳までにだいたい母語の音素は赤ちゃんのものになる。大人と交わす幼児語は赤ちゃんの言語生活のごく一部なのである。赤ちゃんは大人の会話を聴いて物の名を溜めてゆく。「名を与える」ということのほうが大事である。単に物の名を覚えるだけではない。赤ちゃんはわれわれが思うよりもずっと大人の話を理解している。なるほど大人同士の理解とは違うかもしれない。もっと危機感や喜悦感の振幅が大きく、外延的な事情は省略されるか誤解されているだろう。その過程で、母語としておかしな感じを示すかすかな兆候を察知するアンテナが敏感になってゆく。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)

要するに中井久夫の思考においては、羊水をとおして刻印される身体の出来事がある。これは言われてみれば当然である。

身体の出来事とは、ラカン派においては原症状(サントーム)のことである。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ーーこの「症状 symptôme」は、「サントーム sinthome」のことである。《サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps》 (miller,  2011)

ラカンはこの原症状(サントーム)を、「他の身体の症状 symptôme d'un autre corps」、「ひとりの女 Une femme」とも表現している。

ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)

現在のラカン派において母の言葉との遭遇は、次のように表現される。

身体における、ララング(母の言葉)とその享楽の効果との純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps(ミレール、2012、Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP par JACQUES-ALAIN MILLER)

とはいえ現代ラカン派はこの点において中井久夫に遅れをとっているように思える。わたくしの知るかぎり、出産後しか考えていないのだから。

ララング langage は、幼児を音声・リズム・沈黙の蝕 éclipse 等々で包む。ララング langage が、母の言葉 la dire maternelle と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、以後の愛の全人生の要と考えた。(コレット・ソレールColette Soler、2011, Les affects lacaniens)

ララング(母の言葉)がトラウマ的なものなのは、中井久夫の思考と同様である。

・ララングは享楽を情動化する。…ララング Lalangue は象徴界的 symbolique なものではなく、現実界的 réel なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外 hors chaîne のものであり、したがって意味外 hors-sens にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne )。そしてララングは享楽と謎の混淆をする。…ララングは意味のなかの穴であり、トラウマ的である。…ラカンは、ララングのトラウマをフロイトの性のトラウマに付け加えた。

・現実界の症状、それは意味から切断されているが、言語からは切断されていない。現実界の症状は、「言葉の物質性 motérialité」と享楽との混淆であり、享楽される言葉あるいは言葉に移転された享楽にかかわる。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )

死のしづけさのにほひ」で「羊水カクテル」の提案をしたが、あれは冗談ではないのである。人は羊水についてもっと思考をめぐらさねばならない。もっとも羊水風呂はあるらしいし、バキュームキューブ、バキュームベッドなるSMの装置は、ひょとして羊水システムの代理装置かもしれない。

もうすこし穏やかな装置としてはアルコーヴがある。

(精神病棟の設計に参与するにあたって)、設備課の若い課員から、人間がいちばん休まるのはどういうものかという質問があった。私は、アルコーヴではないかと答えた。これは、壁の中に等身大の凹みを作って、そこに寝そべるのである。ブリティッシュ・コロンビア大学の学生会館のラウンジには、いくつかのアルコーヴを作ってあって、そこには学生が必ずはいっていた。(中井久夫「精神病棟の設計に参与する」)

そもそもラカンの名高いラメラ神話--原初に喪われた対象(原対象a)としてのラメラは、あれは羊膜である。ボクの趣味は羊水のほうというだけで、ま、羊膜でもいいさ。

新生児になろうとしている胎児を包んでいる卵の膜が破れるたびごとに、何かがそこから飛び散る。卵の場合も人間の場合も、つまりオムレットhommelette、ラメラlamelleの場合も、これを想像することができる。

⋯⋯対象 a について挙げることのできるすべての形態 formes は、ラメラの代理表象である(ラカン、S11、20 Mai 1964)

探し物は夢の中にあると陽水は歌っていたが、そうではなく愛の全人生のかなめの探し物(おとし物)は羊水の中にあるのではなかろうか? これが蚊居肢散人の根源的問いである。

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

ーーかなしみ  谷川俊太郎




もっとも人は、陽水の「夢の中へ」とは、「羊水の中へ」と容易に翻訳しうる。

誕生とともに、放棄された子宮内生活 Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、すなわち睡眠欲動 Schlaftrieb が生じたと主張することは正当であろう。睡眠は、このような母胎内 Mutterleib への回帰である。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940)

「人間の思考はその人間の母語によって決定される」という「サピア・ウォーフの仮説」があるが、ここではこの母語は文字通りにとらなければならない。すなわち母の言葉、羊水をとおして刻印されたララング(母の言葉)として。

とはいえ人はここで、あの羊水の喪失は、愛の全人生のかなめであるのとは逆に、トラウマ的全人生のかなめではないだろうか、とも疑わねばならない。

私、アントナン・アルトー、1896年9月4日、マルセイユ、植物園通り四番地にどうしようもない、またどうしようもなかった子宮から生まれ出たのです。なぜなら、9カ月の間粘膜で、ウパニシャードがいっているように歯もないのに貪り食う、輝く粘膜で交接され、マスターベーションされるなどというのは、生まれたなどといえるものではありません。だが私は私自身の力で生まれたのであり、母親から生まれたのではありません。だが母は私を捉えようと望んでいたのです。(アルトー『タマユラマ』)

いずれにせよ、あの羊水の記憶・刻印は、冒頭近くに引用した中井久夫曰くの「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」であるに相違ない。

⋯⋯無時間的なものの起源は、胎内で共有した時間、母子が呼応しあった一〇カ月であろう。生物的にみて、動く自由度の低いものほど、化学的その他の物質的コミュニケーション手段が発達しているということがある。植物や動物でもサンゴなどである。胎児もその中に入らないだろうか。生まれた後でさえ、私たちの意識はわずかに味覚・嗅覚をキャッチしているにすぎないけれども、無意識的にはさまざまなフェロモンが働いている。特にフェロモンの強い「リーダー」による同宿女性の月経周期の同期化は有名である。その人の汗を鼻の下にぬるだけでよい。これは万葉集東歌に残る「歌垣」の集団的な性の饗宴などのために必要な条件だっただろう。多くの動物には性周期の同期化のほうがふつうである。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年初出『時のしずく』所収)

・・・というわけで、昨日8月4日は、1932-1982の生をもったアンリエット蚊居肢の誕生日であり、羊水についての思考をめぐらしたのである。

⋯⋯⋯⋯

※付記

こういったことを記すと、まさか、という人がいるかもしれないが、頭では覚えていなくても身体で覚えているということは充分にありうる。

聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」 『時のしずく』所収)
私は私の身体で話している。自分では知らないままそうしてる。だからいつも私が知っていること以上のことを私は言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン、S20. 15 Mai 1973 )

そしてまた別の観点からの核心は フロイトの「遡及性 Nachträglichkeit」概念である。ここでは簡潔なラカンおよびラカン派の言葉を列挙しておこう。

原初 primaire は…最初ではない pas le premier。(ラカン、S20、13 Février 1973)

人は、原対象a(原初に喪われた対象)を、言語記憶としては覚えているわけはない。

原初に把握されなかった何ものかは、ただ事後的にのみ把握される。quelque chose qui n'a pas été à l'origine appréhendable, qui ne l'est qu'après coup (ラカン、S7、23 Décembre 1959)
人は常に次のことを把握しなければならない。すなわち、各々の段階の間にある時、外側からの介入によって、以前の段階にて輪郭を描かれたものを遡及的rétroactivementに再構成するということを。il s'agit toujours de saisir ce qui, intervenant du dehors à chaque étape, remanie rétroactivement ce qui a été amorcé dans l'étape précédente (ラカン、S4、13 Mars 1957)

ーー事後的 après coup 、遡及的 rétroactivementとあるが、同じ意味である。

とはいえこれはどういうことか?

哲学的ラカン派の最も簡潔な言い方なら、

潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ現勢化されうる。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness, 2007)

臨床家的に言えば、

原対象aから身体へ、自我へ、主体へ、そしてジェンダーへ、しかし後向きの配列で。すなわち、「以前」は遡及的に存在するようになる。「次」ーーそのなかに「以前」が外立ex-sistする、「次」から始めて。

「原初」要素は、「二次」要素によって、遡及的に輪郭を描かれる。この「二次」要素のなかには「原初」が含まれている、「異物」としてだが。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001)

※異物 Fremdkörperについては、 「侵入・刻印・異物」を参照。