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2018年8月6日月曜日

詩はコトバの落し物か?


この世には詩しかないというおそろしいことにぼくは気づいた。この世のありとあらゆることはすべて詩だ、言葉というものが生まれた瞬間からそれは動かすことのできぬ事実だった。詩から逃れようとしてみんなどんなにじたばたしたことか。だがそれは無理な相談だった。なんて残酷な話だろう。(谷川俊太郎「小母さん日記」1980年)

もちろん詩人が詩のなかで書いている話である。そのまま信じることはないし、ラブレー曰くの「魂の墓場 ruine de l'âme」であるおバカな科学精神のするだろうように笑ってもならない。とはいえ人間にとって世界は何で出来上がっているんだろう? やっぱりコトバかな、「初めに言葉ありき」。

で、コトバを使用する不幸というものはある。

ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これが、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

⋯⋯⋯⋯

これを読んでいるのは書いた私だ
いや書かれた私と書くべきか
私は私という代名詞にしか宿っていない
のではないかと不安になるが
脈拍は取りあえず正常だ

ーー朝 谷川俊太郎 2015


人は私というたびに、落し物(象徴的去勢)がある。落し物はなによりもまず身体である。

私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、常に私が知っていること以上のことを言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン, S20. 15 Mai 1973)

ーー常に、《「一」と身体がある Il y a le Un et le corps(Hélène Bonnaud、Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse、2013)

常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)  (ラカン、S20、16 Janvier 1973)

私という一人称単数代名詞は、S1とも記される。

S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって既に構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a [l'objet(a)] 」である。…

この喪われた対象 objet perdu の機能、それは、話す存在 être parlant においての反復として、フロイトによって特定化された意味である。(ラカン、S17 26 Novembre 1969 )

だがS1というシニフィアンだけではない。すべてのシニフィアン(表象)を提示するたびに落し物がある。表象にはイマージュも含まれる。


Godaard & Miéville, Liberté et patrie, 2002

すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)

これが、ラカン派でしばしば語られる「表象は非全体 pastout」 (シニフィアンはすべてではない)というときの最も基本的意味合いである。そしてシニフィアンとは見せかけ(仮象)である。

見せかけ、それはシニフィアン自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (Lacan,S18, 13 Janvier 1971)

シニフィアンによって生ずる落し物は、空虚 vide あるいは穴 trou とも呼ばれる(ときに無 rien とも)。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

落し物は言語によるものだけではない。徴(シンボル)のあるところ、出来事の記憶のあるところには常に落し物がある。原初の落し物は、母である(母子融合の喪失)。

人間の最初の不安体験は、出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を象徴する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. (ラカン、S11, 20 Mai 1964)

こっちのほうの去勢は、象徴的去勢というよりも原去勢(現実界的去勢)と呼ぶべきだろう。そして母の去勢だけではなく、乳幼児は去勢されて生まれて来る。

シンボル le symbole は、「モノの殺害 meurtre de la chose」として現れる。そしてこの死は、主体の欲望の終りなき永続性 éterrusation de son désir を生む。(ラカン、E319, 1953)
(フロイトによる)モノ、それは母である。das Ding, qui est la mère,(ラカン、 S7 16 Décembre 1959)

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

ーーかなしみ  谷川俊太郎

現実界の中心にある空虚の存在 existence de ce vide au centre de ce réel をモノ la Choseと呼ぶ。この空虚は…無 rienである。(ラカン、S7、27 Janvier 1960)
モノは無物とのみ書きうる la chose ne puisse s'écrire que « l'achose »(ラカン、S18、10 Mars 1971)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976ーー「モノと対象a」)

象徴的去勢、原去勢の両方の落し物は、彷徨える過剰と呼んでもよい。

彷徨える過剰は存在の現実界である。L’excès errant est le réel de l’être.(バディウ Cours d’Alain Badiou) [ 1987-1988 ])

で、「煮ても焼いても食えない」彷徨える過剰が詩なんだろうか?


二人 谷川俊太郎

世界を詩でしか考えない人は苦手
なんだか楽しそうに女は言う
手には濃いめのハイボール
背後の本棚には詩集が目白押し

株価だけで考える人生も悪くないかも
詩を書いている男が言いかけて
こんなやりとりは三文小説みたいだ
と心の中で思っている

この二人は若いころ夫婦だった
女にとっては詩はもう思い出でしかない
男にとってそれは余生そのもの
猫が迷わずに女の膝に乗る

詩集は捨てないの?女が訊く
捨てるくらいなら焚書にすると男
煮ても焼いても食えないものが残る
それが詩だと言いたいのね

ーー『詩に就いて』所収、2015年