2018年7月21日土曜日

書いた私と書かれた私



言葉に愛想を尽かして と
こういうことも言葉で書くしかなくて
紙の上に並んだ文字を見ている
からだが身じろぎする と
次の行を続けるがそれが真実かどうか

これを読んでいるのは書いた私だ
いや書かれた私と書くべきか
私は私という代名詞にしか宿っていない
のではないかと不安になるが
脈拍は取りあえず正常だ

朝の光に棚の埃が浮いて見える
私の「おはよう」に無言の微笑が返ってきて
それが生身のあなたであることに驚く
一日を始める前に言葉は詩に向かったが
それは魂のささやかな楽しみの一部だ


ーー谷川俊太郎『詩に就いて』所収(2015年)



とってもいい詩だ。啓蒙的な、ね。ほんとは3連目が肝心なんだろうけど、ここでは2連目までに絞る。

そして20世紀後半の「現代思想」における「言表行為の主体 sujet de l'enonciation」と「言表内容の主体 sujet de l'énoncé」 とのあいだの常なる裂け目のたぐいのことは言わないで、もっと古典にさかのぼろう。

私が、私は私だというとき、主体(自己)と客体(自己)とは、切り離されるべきものの本質が損なわれることなしには切り離しが行われえないように統一されているのではない。逆に、自己は、自己からのこの切り離しを通してのみ可能なのである。私はいかにして自己意識なしに、「私!」と言いうるのか?(ヘルダーリン「存在・判断・可能性」)
一方で、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、という条件の下にある。われわれは服従する者としては、強迫、強制、圧迫、抵抗Zwingens, Draengens, Drueckens, Widerstehens などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。

しかし他方でまた、われわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「意志するということ Willens」に関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』第19番)


で、ちょっとだけラカン。

主人の言説 le discours du Maîtreは主体の支配 prédominance du sujet とともに始まる。なぜなら、主人の言説は…それ自身のシニフィアン自体に同一化すること (d'être identique à son propre signifiant. [ $ ≡ S1 ] )によってのみ支えられる傾向があるから。(ラカン、S17, 18 Février 1970 )

$ ≡ S1とあるけど、$は言語によって身体と分割された主体。そしてS1(主人のシニフィアン)の最も典型的なものは、一人称単数代名詞「私」(S1, le « Je » du Maître.[S17])。

ここで谷川俊太郎が、《私は私という代名詞にしか宿っていない/のではないかと不安になるが/脈拍は取りあえず正常だ》と言っているのを思い出しておこう。そしてラカン曰く、《「私」=S1 という主人シニフィアンは、我々に「私は私自身の主人だ」と思い込ませてくれる“maître/m'être à moi-même”》(S17)

私は支配者 (m'etre)だ、私は支配 (m'etrise)の道のりを歩む、私は自己 (moi)の支配者(m'etre)だ、…これが S1 に支配されたマヌケ con-vaincu のことである(ラカン、S20、13 Février 1973)

でも安心したらいいさ、

私は相対的にはタワケ débile mental だよ…言わせてもらえば、全世界の連中と同様にタワケだな。というのは、たぶん私は、いささか啓蒙されている une petite lumière からな。(ラカン、S.24,17 Mai 1977)

ただ21世紀という「知的退行の世紀」(中井久夫)では、自覚症状がまったくない連中ばかりになっちまったからな、ネットに書き込む習慣がうまれた影響大だね、たとえばマガオで日々の出来事を「真摯に」公開して、一人称代名詞=主体だと思い込んでるのがモロわかりの記述してる「相対的には教育のありそうな」連中が跳梁跋扈してんだから。それだけはやめとかないとな。フィクションにすぎないよ、すべては。すくなくとも言表内容ではなく言表行為の主体でしかない。そもそも 《この「私」に何の価値があるのでしょう?  》(フローベール

私は、「私」という語を口にするたびにイマジネールなもののうちにいることになる。(ロラン・バルト『声の肌理』)
「自己Self」とは、主体性の実体的中核のフェティッシュ化された錯覚であり、実際は何もない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

で、ボードレールのいう《同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す》ユーモアが是非とも必要だね、自分を笑いとばすチカラがね、この世紀にはことさら。

われわれは時々、自分自身から逃れて息ぬきをしなければならない、――自分というものを見下ろし、芸術的な距離をおいて遠くから、自分の姿について笑ったり泣いたりすることによって、われわれは、認識の情熱のうちに姿をひそめている主役と同時に道化をあばかねばならない。自分の知恵に対するたのしみを持ちつづけられるように、自分の愚かさを時々槍玉にあげて楽しまねばならぬのだ!

そして、われわれは、究極のところ、重苦しい、生真面目な人間であり、人間というよりか、むしろ重さそのものなのだから、まさにそのためにこそ、道化の鈴つき帽子ほど、われわれに役立つものはない。(ニーチェ『悦ばしき知』107番 )

ーー《日記というものは嘘を書くものね。私なんぞ気分次第でお天気まで変えて書きます。》(円地文子

アッタリマエだろ?