ここに書かれているいっさいは、小説の一登場人物――というより、むしろ複数の登場人物たち――によって語られているものと見なされるべきである。(『彼自身によるロラン・バルト』)
日記というものは嘘を書くものね。私なんぞ気分次第でお天気まで変えて書きます。(円地文子ーー江藤淳による『女坂』解説からの孫引き)
日記も、読まれることを予想して書かれることがしばしばある。永井荷風の『断腸亭日乗』やジッドの『日記』は明らかにそうであろう。精神医学史家エランベルジェは、日記を熱心に書きつづける人には独立した「日記人格」が生まれてくると言っている。日記をつける人も読む人も、このことは念頭に置くほうがよいだろう。(中井久夫「伝記の読み方、愉しみ方」『日時計の影』所収)
とはいえ(?)ドガのこのデッサンはとってもいいな。ヴィスコンティ『イノセント』のラウラ・アントネッリ Laura Antonelli と同じくらい。
それにしても、アルベルチーヌのなかで生きていたのは、私にとっては、一日のおわりの海だけではなかった、それはまた、ときには、月夜の砂浜にまどろんでいる海だった。(プルースト『囚われの女』)
なんでこんなにいいんだろ?
愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime(ドゥルーズ、プルーストとシーニュ)
あの女が書き込まれているせいかな・・・