人間には「主人」が必要である。……我々は「主人なき自由な個人」として生活すればするほど、実質的には、既存の枠組に囚われて、いっそう不自由になる。我々は「主人」によって、自由のなかに押し込まれ/動かされなければならない。(ジジェク、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? 2016)
ーージジェク の云う「主人」とは、「第三者」あるいは「父の機能」「権威」である。
三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。
これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」『徴候・記憶・外傷』所収)
ラカン理論における「父の機能」とは、第三者が、二者-想像的段階において特有の「選択の欠如」に終止符を打つ機能である。第三者の導入によって可能となるこの移行は、母から離れて父へ向かうというよりも、二者関係から三者関係への移行である。この移行以降、主体性と選択が可能になる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)
《権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する。》(ハンナ・アーレント『権威とは何か』)
重要なことは、権力 power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(ポール・バーハウ『社会的つながりと権威 Social bond and authority』1999)
極論をいえば、権威なき平等社会とは、最も不自由な社会なのである。そして、現在の新自由主義時代とは、「権威なき」時代・「父なき」時代・「二者関係的」時代である。
今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009)
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《人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.》(ラカン, S23, 13 Avril 1976)
共和制なき王はない。そして王なき共和制はない。…daß kein König ohne Republik und keine Republik ohne König bestehn könne (ノヴァーリス『信仰と愛 Glauben und Liebe』1798年)
もっとも真の王(権威)となるのは、ひどく困難な仕事ではある。《あなた(王)が他者の夢の罠に嵌ったら、墓穴を掘るだろう Si vous êtes pris dans le rêve de l’autre; vous êtez foutus》(ドゥルーズ『創造行為とは何か』1987)