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2018年6月2日土曜日

ニーチェの悪臭

いやあ、シツレイ! でも「<きみ>は臭いよ」で記したことは、きみやきみたちことじゃないよ、まったくね、一般論さ。「誰かに見られたいヒト族」で記したことも、つまり、人はみな「愛されたいという要求」をもっているということを前提にすれば、その様は、場合によってはひどく臭いよ。

そしてその根にはニーチェがいるんだ、ボクの場合は、いつも戻ってくる根は、ニーチェなんだな(それにプルーストと、すこしだけリルケ)。フロイトやラカンやらじゃないんだ。

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

で、「<きみ>は臭いよ」で最後に引用したプルーストとニーチェを並べてながめてみる。

人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。(プルースト「囚われの女」)

すると、ニーチェは自分の悪臭に敏感すぎたから、他人の《魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚し》てしまうんじゃないか、という疑念が生じる。

ボクのこのところの思考はここにあるんだな、

というわけで、スのまま、--つまり本来はもっと和らげて書き直さなくちゃいけないんだが、--の記述を掲げておくよ。

⋯⋯⋯⋯

ニーチェの《魂の最奥のもの》とは何か?

わたしに最も深く敵対するものを、すなわち、本能の言うに言われぬほどの卑俗さを、求めてみるならば、わたしはいつも、わが母と妹を見出す、―こんな悪辣な輩と親族であると信ずることは、わたしの神性に対する冒瀆であろう。わたしが、いまのこの瞬間にいたるまで、母と妹から受けてきた仕打ちを考えると、ぞっとしてしまう。彼女らは完璧な時限爆弾をあやつっている。それも、いつだったらわたしを血まみれにできるか、そのときを決してはずすことがないのだ―つまり、わたしの最高の瞬間を狙ってin meinen höchsten Augenblicken くるのだ…。そ のときには、毒虫に対して自己防御する余力がないからである…。生理上の連続性が、こうした 予定不調和 disharmonia praestabilita を可能ならしめている…。しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ。― (ニーチェ『この人を見よ』--妹エリザベートによる差し替え前の版 Friedrich Wilhelm Nietzsche: Ecce homo - Kapitel 3 

この母なる女主人への固着を「教育の上塗りによって」隠蔽したものが生の肯定としての「永遠回帰」である。《小さなリフレイン petite rengaine、リトルネロ ritournelleとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。》(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980ーー「ララング(=母の言葉)定義集」)

母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への隷属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ニーチェの恐ろしい女主人とは、母なる女主人のことに他ならない。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)

もちろんアリアドネも。

わたしのほかに誰が知ろう、アリアドネが何であるかを!……これらすべての謎は、いままでだれ一人解いた者がなかった。そこに謎があることに気がついた者さえいるかどうか疑わしい。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

・迷宮は永遠回帰を示す le labyrinthe désigne l'éternel retour (Deleuze, Nietzsche et la philosophie,1962)

・リトルネロは永遠回帰である ritournelle est éternel retour(Deleuze, Différence et répétition,1968)

・リトルネロとしてのララング(=母の言葉 la dire maternelle)lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)

「アリアドネ」とディオニュソスが言った。「おまえが迷宮だ。」

Ariadne, sagte Dionysos, du bist ein Labyrinth: (ニーチェ遺稿、1887年)

女主人、あるいはアリアドネとは、 《偉大な母なる神 große Muttergotthei》(フロイト『モーセと一神教』、すなわち母なる全能の大他者のことに相違ないのである。

全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)

晩年のラカンが、《症状は、現実界について書かれる事を止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel 》(ラカン、三人目の女 La Troisième、1974)と記したときの症状とは、反復強迫=永遠回帰であり、そして症状(原症状)とは女である。

ひとりの女はサントーム(原症状)である une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976ーー「ひとりの女は暗闇のなかに異者として蔓延る」)

そして人間にとっての原「ひとりの女」は、母なる大他者以外のなにものでもない。それは出産以前、母胎のなかにいるときからそうである。

少し前からわかっているように、人間は、胎児の時に母語--文字どおり母の言葉である--の抑揚、間、拍子などを羊水をとおして刻印され、生後はその流れを喃語(赤ちゃんの語るむにゃむにゃ言葉である)というひとり遊びの中で音声にして発声器官を動かし、口腔と口唇の感覚に馴れてゆく。一歳までにだいたい母語の音素は赤ちゃんのものになる。大人と交わす幼児語は赤ちゃんの言語生活のごく一部なのである。赤ちゃんは大人の会話を聴いて物の名を溜めてゆく。「名を与える」ということのほうが大事である。単に物の名を覚えるだけではない。赤ちゃんはわれわれが思うよりもずっと大人の話を理解している。なるほど大人同士の理解とは違うかもしれない。もっと危機感や喜悦感の振幅が大きく、外延的な事情は省略されるか誤解されているだろう。その過程で、母語としておかしな感じを示すかすかな兆候を察知するアンテナが敏感になってゆく。(中井久夫「詩を訳すまで」『アリアドネからの糸』所収)

われわれは母胎内にいるときから、すでに母の欲望の対象である。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

⋯⋯⋯⋯

ニーチェの愛人、リルケの愛人、後年フロイトの弟子になったルー・アンドレアス・サロメは、次のように記している。

私にとって忘れ難いのは、ニーチェが彼の秘密を初めて打ち明けたあの時間だ。あの思想を真理の確証の何ものかとすること…それは彼を口にいえないほど陰鬱にさせるものだった。彼は低い声で、最も深い恐怖をありありと見せながら、その秘密を語った。実際、ニーチェは深く生に悩んでおり、生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい何ものかを意味したに違いない。永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面 unheimliche Maske であることを暗示している。(ルー・サロメ、Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894)

不気味な仮面、すなわち永遠回帰の根には不気味なものがある。フロイトの「欲動の根Triebwurzel」(=原固着Urfixierung)と呼んだものが。

心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919)

フロイトは『不気味なもの』の翌年に上梓された『快原理の彼岸』(1920)にて、ニーチェの 《同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen》を《反復強迫 Wiederholungszwang》としての《運命強迫 Schicksalszwang》 とも呼んでいる(参照)。

真に自己自身の所有に属しているものは、その所有者である自己自身にたいして、深くかくされている。地下に埋まっている宝のあり場所のうち自分自身の宝のあり場所は発掘されることがもっともおそい。――それは重さの霊がそうさせるのである。(……)

まことに、人間が真に自分のものとしてもっているものにも、担うのに重いものが少なくない。人間の内面にあるものの多くは、牡蠣の身に似ている。つまり嘔気をもよおさせ、ぬらぬらしていて、しっかりとつかむことがむずかしいのだーー。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)

最もすぐれたニーチェ読みピエール・クロソウスキー、--ハイデガーやフーコーなどは「寝言」しか言っていないーーも、すでに永遠回帰≒至高の欲動と言っている。

・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprême のことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

いささか断言的に記してしまったが、ニーチェの永遠回帰とは、(フロイト・ラカンをいくらか読んできた現在のわたくしにとって)こう考えるよりほかにない。

ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。

Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden." (フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 1908年 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung)
ニーチェについていえば、彼の予見と洞察とは、精神分析が骨を折って得た成果と驚くほどよく合致する人であるが、いわばそれだからこそ、それまで、長い間避けていたのだった。(フロイト『自己を語る』1925年)

⋯⋯⋯⋯

最後に名高い永遠回帰の叙述と運命愛の叙述を掲げる。

現に生き、既に生きてきたこの生をもう一度、また無数回におよんで、生きなければならないだろう。そこには何も新しいものはなく、あらゆる苦痛、あらゆる愉悦、あらゆる想念と嘆息、お前の生の名状しがたく小なるものと大なるもののすべてが回帰 wiederkommenするにちがいない。しかもすべてが同じ順序で―この蜘蛛、樹々のあいだのこの月光も同様であり、この瞬間と私自身も同様である。存在の永遠の砂時計はくりかえしくりかえし回転させられる。―そしてこの砂時計とともに、砂塵のなかの小さな砂塵にすぎないお前も!」

ー―お前は倒れ伏し、歯ぎしりして、そう語ったデーモンを呪わないだろうか? それともお前は、このデーモンにたいして、「お前は神だ、私はこれより神的なことを聞いたことは、けっしてない!」と答えるようなとほうもない瞬間を以前経験したことがあるのか。

もしあの思想がお前を支配するようになれば、現在のお前は変化し、おそらくは粉砕されるであろう。万事につけて「お前はこのことをもう一度、または無数回におよんで、意欲するか?」と問う問いは、最大の重しとなって、お前の行為のうえにかかってくるだろう! あるいは、この最後の永遠の確認と封印以上のなにものも要求しないためには、お前はお前自身と生とにどれほど好意をよせなければならないことだろう?(ニーチェ『悦ばしき知識 Die fröhliche Wissenschaft』341番)
「然り」〔Ja〕への私の新しい道。--私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭うべき側面をみずからすすんで探求することである。(……)「精神が、いかに多くの真理に耐えうるか、いかに多くの真理を敢行するか?」--これが私には本来の価値尺度となった。(……)この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲するーーあるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまでーー(……)このことにあたえた私の定式が運命愛〔amor fati〕である。(ニーチェ『力への意志』)

ニーチェの永遠回帰や運命愛の内実。それは探すのではなく、ただ耳に聞かねばならない。《人は探すのではなく、耳に聞くのである Man hört, man sucht nicht》。

人は、クロソフスキー、ーー彼の母はリルケの愛人だった。すなわち扇のカナメにいるルー・アンドレアス・サロメの影響下にあったーー、のような耳がなければ、精神分析にたよる他ない。巷間のニーチェ学者たちが、すくなくとも永遠回帰について、いまだゼロなのは、耳にも精神分析にも関与していないせいである。


(Rainer Maria Rilke, Balthus, Baladine Klossowska)

ーーまんなかにいるのは、ピエールではなく、弟のバルテュスである。

実際、インスピレーションに打たれたとき、自分は圧倒的に強い威力の単なる化身、単なる口舌、単なる媒体にすぎないのだという考えを、ほとんど払いのけることはできまい。啓示という言葉があるが、突然、名状しがたい確かさと精妙さで、人を心の奥底から揺り動かし、それに衝撃を与える或るものが、見えてくる、きこえてくる。…人は探すのではなく、ただ耳に聞くのである。誰が与えてくれるのかを問わず、ただ受けとるのである。稲妻のように、ひとつの思想がひらめく、必然の力をもって、ためらいのない形式で。ーーそのときわたしは、一度として選択したことがない。それは一つの恍惚状態 entzücken である。その凄まじい緊張はときに解けて涙の流れとなり、それに襲われれば足の運びは、思わず、あるいは急激になり、あるいはゆるやかになる。完全な忘我 vollkommnes Ausser-sich-sein の中にありながら、爪先にまで行きわたる無数の微妙なおののきが明確に意識されている。その幸福の深みにあっては、最大の苦痛も暗い思いも、さまたげとならず、その反対に、その幸福の前提として、それを引き立たせるべく呼び出されたものとして、またこのように充ち溢れた光明のなかで《なくてはならない》一つの色どりとしての働きをするのである。それはリズミカルな性格をもつ一つの本能であって、それが広い形相の世界をおおい包むのであるーーその持続性、大きくひろがるリズムに対する欲求が、ほとんどインスピレーションの力をはかる尺度であり、その圧力と緊張とに対抗する一種の調節となるのである。(ニーチェ『この人を見よ』)

もっとも学者たちがニーチェの思想の核心にいまだチンプンカンプンなのはやむえないことである。

学者というものは、精神上の中流階級 geistigen Mittelstande に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』373番、1882年)

これが学者共同体棲息者の宿命である。

ひとがものを書く場合、分かってもらいたいというだけでなく、また同様に確かに、分かってもらいたくないのである。およそ誰かが或る書物を難解だと言っても、それは全然非難にならぬ。おそらくそれが著者の意図だったのだーー著者は「猫にも杓子にも」分かってもらいたくなかったのだ。

すべての高貴な精神が自己を伝えようという時には、その聞き手をも選ぶものだ。それを選ぶと同時に、「縁なき衆生」には障壁をめぐらすのである。文体のすべての精緻な法則はそこ起源をもつ。それは同時に遠ざけ距離をつくるのである。(ニーチェ『悦ばしき知識』381番)

精神の上流階級、あるいは貴族階級であるか否かは、一言の言葉遣いを聞いただけで判明してしまう。

・人々をたがいに近づけるものは、意見の共通性ではなく精神の血縁である。(プルースト 「花咲く乙女たちのかげにⅠ」)

・人間は自分の精神が属する階級の人たちの言葉遣をするのであって、自分の出生の身分〔カスト〕に属する人たちの言葉遣をするのではない、という法則……(プルースト「ゲルマントのほうⅠ」) 

ひとは、その資質上、高貴な精神ではありえないと悟ったら、精神の下層階級を目指すべきである(わたくしのように)。最悪なのは、中流階級に憩うことである。これが、小林秀雄=菊池寛が《世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿》と言っている内実である。

さらにはこう引用してもよい。

悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる。(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」)

そう、たとえばマルキ・ド・サド。わたくしのように精神の下層階級に属しているものは、悪魔たちの言葉が芋蔓式に浮かんでくるのである。

そもそも女というものは、自然がわれわれ男の必要と快楽を満足させるために与えた家畜ではないかね? われわれの家畜飼育場の牝鶏より以上に、彼女たちがわれわれの尊敬を受けねばならぬという、どんな権利があるのだね? この二つのあいだに見られる唯一の違いは、家畜というものが従順なおとなしい性格によって、なんらかの意味でわれわれの寛容なあしらいを受けるに値するのに対し、女は許術、悪意、裏切り、不実といった永遠に根治しない性質によって、過酷と乱暴なあしらいしか受けるに値しない、ということではないかね?(サド『悪徳の栄え』)

こういった奈落の底から、真の高貴さ、あの恐ろしき女主人、あのアリアドネに遭遇しうるのである。

これ以上はっきり申し上げられるでしょうか、マダム? 私の胸の裡をこれ以上はっきりお聞かせできるでしょうか? どうかお願いですから、私のおかれた状態を少しは憐れんでください! 恐ろしい状態なのです。そう申し上げることで私があなたを勝利者にしてしまうことくらい承知しています。しかしもうそんなことはかまいません。私はあまりにも不運なやりかたであなたのお心の平安を乱してしまったがために、マダム、私の犠牲であなたに勝利をご提供致すはめになったことを悔やむ気にすらなれないのです。あなたはご自分の力を尽くして、ひとりの人間が蒙りうる最高度の辱めと、絶望と、不幸とに私が見舞われるのをご覧になろうとしたわけですから、どうぞご享楽ください、マダム、さあどうぞ、なぜならあなたは目標を達せられたのですから。私はあえて申しますが、人生を私ほど重荷に感じている存在はこの世にひとりたりともおりません。 (サド「1783 年 9 月 2 日付モントルイユ夫人宛書簡」)