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2018年6月2日土曜日

誰かに見られたいヒト族

人間の生物学的要因とは、幼児がながいあいだもちつづける無力さ Hilflosigkeit と依存性Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

この「愛されたいという要求」は、のちに「承認されたい欲望 désir de faire reconnaître son désir」(ラカン、E151)へと移行する。ひとは誰かに承認されたい、すくなくとも誰かに見られたいのである。

ここで、ラカンの「四つの言説」(=四つの「愛の結びつき Liebesbeziehungen」:ミレール)を持ち出すこともできるが、今はクンデラを引こう。

誰もが、誰かに見られていることを求める。どのようなタイプの視線の下で生きていたいかによって、われわれは四つのカテゴリーに区分される。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)

【第一のカテゴリー】
第一のカテゴリーは限りなく多数の無名の目による視線、すなわち別のことばでいえば、大衆の視線に憧れる。

《これはドイツの歌手、アメリカの女優、それにまた、大きなあごをした編集者のケースである》と。もちろん、ここには「政治家」も含まれるだろう。

ゴダールはこの「第一のカテゴリー」に属するであろう人々を奇形と呼んだ、《スターというのがしばしばきわめて興味深いものであるのは、スターが、癌と同様、一種の奇形だからです。スターが誕生するということは、ある人間のきわめて単純な人格が急に増殖しはじめ、ばかでかいものになるということなのです。》(ツイッター、ゴダールbot)


【第二のカテゴリー】
第二のカテゴリーは、生きるために数多くの知人の目という視線を必要とする人びとから成る。この人たちはカクテル・パーティや、夕食会を疲れを知らずに開催する。

《この人たちは大衆を失ったとき、彼らの人生の広間から火が消えたような気持ちになる第一のカテゴリーの人たちより幸福である。このことは第一のカテゴリーの人たちのほとんどすべてに遅かれ早かれ一度はおこる。それに反して第二のカテゴリーの人はそのような視線をいつでも見つけ出す》

ドゥルーズはこの第二のカテゴリーにあてまはるだろうあり方を《ひとが失うところの時=社交のシーニュ》と呼んだ(参照)。


【第三のカテゴリー】
次に愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリーがある。この人たちの状況は第一のカテゴリーの人の状況のように危険である。愛している人の目が、あるとき閉ざされると、広間は闇となる。


【第四のカテゴリー】
そしてもう一つ、そこにいない人びとの想像上の視線の下に生きる人たちという、もっとも珍しい第四のカテゴリーがある。これは夢見る人たちである。

第三と第四のカテゴリーについては、小説の主要登場人物の名が挙げられているが、ここでは割愛。

【第三のカテゴリー】はよく分かるだろう。だが【第四のカテゴリー】はどんなタイプか。まず、神へ語りかける人がそうだろう。象徴的大他者に語りかける人。死者に向けて語る人。理念に向けて語る人・・・

ひょっとしたら、《徹底した観客無視》で、《むなしい「恋文」めいたことをまくしたてた》という蓮實重彦も(額面通りにとれば)そうかもしれない。

私は、まだ撮ったことのない映画を撮るようにして、作家と向かい合っていたのではないかと思います。要するに、徹底した観客無視です。見る者を代表するかたちで、一般観客向けに、この作品はこう理解すべきだといったことはいっさい口にしてない。おそらく、そんな批評は、これまであまりなかったのかも知れません。自分ではそうは思わないのですが、初期の私の映画批評がしばしば難解だといわれたのは、おそらくそのことと関係しています。澤井さんもいわれるように、私の批評は、見る人のことなどまったく考えず、もっぱら撮る人のことばかり考えて書かれたむなしい「恋文」のようなものだったのかも知れません。日本語を読むことのない外国の監督たちに触れている場合もそうした姿勢を貫いてきたので、翻訳で私の書いたものを読んで、それを介して親しくなる監督の数も増えてきました。考えて見ると、私は、外国の映画研究者よりも、外国の映画作家たちとずっと話が合うのです。

そうしたことが、教師としての私の姿勢にも現れていたのでしょう。この作品はこう読めといったことはいっさい無視し、勝手に映画作家たちへの「恋文」めいたことをまくしたてていた私の授業を聞いておられた若い人たちを、映画を語る方向ではなく、多少なりとも映画を撮る方向に向かわせることができたのは、そうしたことと無縁ではないのでしょう。(蓮實重彦インタビュー「作り手たちへの恋文」)

ところで次のように記すロラン・バルトはどうだろう。

人はけっして他人のために書くのではないこと、何を書こうとも、そのことでいとしい人に自分を愛させることにはならぬのだということ、エクリチュールはなにひとつ補償せず、昇華もせぬこと、エクリチュールはまさしくあなたのいないところにあるのだということ、そうしたことを知ることこそが、エクリチュールのはじまりである。

Savoir qu'on n'écrit pas pour l'autre, savoir que ces choses que je vais écrire ne me feront jamais aimer de qui j'aime, savoir que l'écriture ne compense rien, ne sublime rien, qu'elle est précisément là où tu n'es pas - c'est le commencement de l'écriture. (ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「書く」1977年)

この文は(今のわたくしには)額面通りには取りづらい。エクリチュールとは、小文字の他人のために書くことではない。そうであっても、人はやはり「他」に向けて書くのだ。

・一人で書いてるといったって、目に見えない読者を前にしてるわけでね。その意味では舞台 に立つのと変わりないところもあるんです。もっとも、観客の見えないスタジオで熱演することもあるだろうから、その辺のむずかしさはよく心得ているのではありませんか。

・本当に一人だったら、表現なんかできません。意味がない(笑)。(古井由吉、又吉直樹対談「新潮」 2017 年6 月号)

もっとも古井由吉の云う《目に見えない読者》を「私のなかの他者」と取れば、バルトの「エクリチュール」を活かしうるかもしれない。

「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル観念のエロス』)

ここでニーチェも引いておこう。

どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』)

もしクンデラ区分を全面的に受け入れば、今のわたくしの観点では、作家とは本来、第四のカテゴリーではないか、というものである。

とはいえ、クンデラのいう【第四のカテゴリー】のなかに、「言語に向けて語る人」も含めてしまえば、彼曰くの《もっとも珍しい第四のカテゴリー》は、逆に最も基本的なカテゴリーとなる、《主体の生活の真のパートナーは、実際は、人物ではなく言語自体である》(Jean-Louis Gault)。--とすれば、もうひとつ別のカテゴリーが必要なのか?

ヴァレリーが次のように書くときの「他者」は、訳者の恒川邦夫氏によれば、「言語」である。

人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。

かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。

自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。(ポール・ヴァレリー『カイエ』23・790 - 9-、恒川邦夫訳、「現代詩手帖」9、1979年)

ラカン派観点においては、《言語は父の名であり、言語は超自我である C'est le langage qui est le Nom-du-Père et même c'est le langage qui est le surmoi.》(ジャック=アラン・ミレール、MILLER Jacques-Alain et Éric Laurent, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthiques, séminaire 96/97)