言説とは何か? それは、言語の存在によって生み出されうるものの配置のなかに、社会的結びつき lien social の機能を作り上げるものである。
Le discours c'est quoi? C'est ce qui, dans l'ordre ... dans l'ordonnance de ce qui peut se produire par l'existence du langage, fait fonction de lien social. (Lacan, ミラノ講演、1972)
上の文から分かるように、ラカン理論の華のひとつ、四つの言説の「言説」は、一般に流通するフーコーの「言説」とはまったく異なる意味をもっている。
ところでジャック=アラン・ミレールは次のように言っている。
ラカンが四つの言説と呼んだものの各々は、変動する愛がある。それは、諸言説のダイナミズムにおけるエージェントの変動のように機能している。そして、ラカン以後、われわれが「社会的結びつき lien social」と呼ぶものは、フロイトが『集団心理学と自我の分析』にて教示した「エロス的結びつき或は愛の結びつき erotic or amorous link」のことである。(A New Kind of Love Jacques-Alain Miller)
フロイトの『集団心理学と自我の分析』から拾おう。
第四章にはこうある。
われわれは愛の結びつき Liebesbeziehungen(あたりさわりのない言い方をすれば、感情的結びつき Gefühlsbindungen)が集団精神の本質をなしているという前提に立って始める。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
第八章ーーラカン派による引用・準拠が最も多い「惚れ込みと催眠」の章ーーには、次の文がある。
同一化と、極度に発展した惚れ込み Verliebtheit の形式ーー魅了とか愛の虜(エロスの虜 verliebte Hörigkeit)とか呼ばれるものーーの相違 ⋯⋯(『集団心理学と自我の分析』1921年)
ミレールが「愛の結びつき」というときには、このどちらかの文に依拠している筈である。わたくしの手許の英訳では、前者の"beziehungen" は"bond"、後者の"Verliebtheit"は、"bondage"となっている。"bondage"、すなわち「緊縛Verliebtheit」「愛の緊縛 verliebte Hörigkeit」。
ミレールのこの論文「A New Kind of Love」の冒頭に荒木経惟の緊縛写真が貼付されているのは、これゆえかもしれない。
前者の「愛の結びつき Liebesbeziehungen」における "beziehungen" の使用例をもうひとつ掲げよう。「母拘束 Mutterbindung」をめぐる箇所に次のようにある。
前エディプス präödipal 期と名づけられることのできる、もっぱら母への結びつき(母拘束 Mutterbindung)時期はしたがって、女性の場合には男性の場合に相応するのよりはるかに大きな意味を与えられる。
これは手近な退行 Regression の一例だと思えば、容易に理解される。母との関係 Mutterbeziehung のほうがより根源的であり、そのうえに父への結びつき Vaterbindung がきずきあげられていたのだが(⋯⋯)この抑圧されていた根源的なものが現われてくるのである。母対象から父対象へ vom Mutter- auf das Vaterobjekt の情動的結びつき affektiver Bindungen の振り替え Überschreibungこそは、女らしさ Weibtum に導く発達の主要な内容をなしていたのである。(フロイト『女性の性愛』1931年)
フロイトは"bindung"と"beziehung"をほとんど等価なものとして使用しているように見える。「愛の結びつき」とは、「愛の関係」ともできるだろう。表題の「愛の縛り」とは、敢えて誇張的に記したものである。
「愛の虜 verliebte Hörigkeit」における"Hörigkeit"のフロイトによる使用例も、最晩年の著作からもう一つ挙げよう。
母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への隷属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年、私訳)
ラカンの「社会的結びつき lien social 」とは、わたくしは「社会的つながり」と訳してきたが、一般には「社会的紐帯」とも訳されてきた言葉である。すなわち、紐と帯で縛られるのが四つの言説である。
以上、ラカンの四つの言説(四つのディスクール)とは、「エロス的紐帯」、「エロス的結びつき(縛り Hörigkeit)」にかかわる理論とすることができる。あるいはフロイトの『集団心理学』における「感情的結びつき Gefühlsbindungen」、『女性の性愛』における「情動的結びつき affektiver Bindungen」にかかわる理論としておこう。
だが「情動」とは何だろうか。フロイト自身は「情動」という語を明瞭な定義をもって使っているわけではない。だがラカン派においては、なによりもまず「身体がシニフィアン(表象)に媒介されずに現実界にアフェクトされること」である。
仏女流ラカン臨床家の第一人者コレット・ソレールの比較的新しい情動論においては次の通り。
情動とは、傷ついた享楽の地位に「応答」するものである。情動は、現実界の場にポジションを取る主体の倫理にたずさわる。L'affect « répond » au statut d'une jouissance blessée, il engage donc l'éthique du sujet qui prend position à l'endroit du réel.(コレット・ソレール、2011,pdf)
ここで四つの言説の基盤となる構造図の種々あるヴァリエーションから次の図を掲げておこう。
上段が象徴界、下段が現実界である。ソレールのいう「傷ついた享楽」とは、剰余享楽 plus de jouirとしておそらく捉えうる。
※なお四つの言説のそれぞれの基本については、「四つの言説 quatre discours」を参照。