「撮る」「撮られる」「見る」の三つの視線が写真にはあるはずだったのに、親密な関係を写す写真には「撮る」「撮られる」の二つの視線しか想定されていない。では、「見る」ものはどのように見たらいいのか。写真の鑑賞者は、「撮られる」ように「見る」、もしくは「撮る」ように「見る」ことを迫られるのである。つまりは、写真家とモデルの立場に自身を投入することになる。(秦野真衣「私的な視線によるエロティシズム――荒木経惟の作品を中心とした写真に関する考察――」2002年)
ーーすばらしいな、この秦野真衣さんの記述は(参照:「アタシは荒木経惟の写真に震えたの」。
ボクは荒木経惟のいくつかの作品を見て、「ゆらめく閃光」に打たれることがある。
・それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光 un éclair qui flotte なのである。
・ある何ものかが一閃して quelque chose a fait tilt、私の心に小さな震動を、悟りを、無の通過を生ぜしめたのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
あるいは「プンクトゥム 」にね、ーー《バルトのストゥディウムとプンクトゥムは、ラカンのオートマンとテュケーへの応答である。Les Studium et punctum de Barthes répondent à automaton et tuché》(ミレール2011, jacques-alain miller 2011,L'être et l'un)
※ラカン=アリストテレスのαύτόματον [ automaton ]/τύχη [ tuché ]とは、「シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants」/「現実界との出会い rencontre du réel」
プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さなシミ petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことであり――しかもまた骰子の一振り coup de dés のことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然 hasard なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
アラーキーは、「オマンコを撮り続けたら、顔が一番卑猥に見えてくる」と要約できること(後引用)を言っているように、彼の作品は顔を熟視しなくちゃダメだめなんだな、わかるかい?そうするとボクの場合、秦野さんの言うように撮られる側に「自身を投入」してることがわかるんだ。けっして撮る側じゃない。
そして自分のなかの女の幼虫 embryonが、暗闇のなかでザワザワと蠢くんだ。
……倒錯者 inverti たちは、女性に属していないというだけのことで、じつは自分のなかに、自分が使えない女性の胚珠 embryon をもっている。(プルースト「ソドムとゴモラ」井上究一郎訳)
フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。
あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明することさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme,。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン、S23 Le Sinthome、1977)
で「標準的なみなさん」のことを何と呼ぶのかと言えば、
最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち「倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版」と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール2009、Lacan, L'inconscient Réinventéーー「人はみな穴埋めする」)
ーーというわけで、「標準的なみなさんには、わからないのかもな」と先ほど書いたことを言い直せば、「父の版の倒錯者には、わからないかもな」となる。
だからエディプス的男たち、いやそれだけでなくエディプス的女たちが、アラーキーの作品を嫌うのはーーラカン理論的にもーーよくわかるよ。そもそもフェミニストってのは、かつてニーチェやデリダが言ったように、おおむね「エディプス的女」だからな。
他方、ボクは「母の版の倒錯者」でね。
倒錯 perversion とは…大他者の享楽の道具 instrument de la jouissance de l'Autre になることである。(ラカン、E823)
人にとっての最初の大他者とは、「母なる大他者」だ。
倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存dépendance de son amour,、すなわち母の欲望への子供の欲望 le désir de son désir によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 l'objet imaginaire(想像的ファルス)と同一化することである。(ラカン、エクリ、E.554、摘要訳)
当たり前のことだが、父よりも母との関係のほうが根源的だ。
前エディプス präödipal 期と名づけられることのできる、もっぱら母への結びつき(母拘束 Mutterbindung)時期はしたがって、女性の場合には男性の場合に相応するのよりはるかに大きな意味を与えられる。
これは手近な退行 Regression の一例だと思えば、容易に理解される。母との関係 Mutterbeziehung のほうがより根源的であり、そのうえに父への結びつき Vaterbindung がきずきあげられていたのだが(⋯⋯)この抑圧されていた根源的なものが現われてくるのである。(フロイト『女性の性愛』1931年)
母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への隷属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年、私訳)
こういうことを記すと、おまえさん、成熟してないんだよ、とか言うのだろうけどさ
精神分析のラカニアンとして方向づけられた実践の実に根本的な言明…それは、どんな成熟もない il n'y pas de maturation 。無意識としての欲望の成熟はない ni de maturité du désir comme inconscientである。(ミレール、L'Autre sans Autre 、2013)
上にアラーキーの作品を見ていると「自分のなかの女の幼虫が、暗闇のなかでザワザワと蠢く」と記したけど、別の言い方をすれば、アラーキーのいくつかの作品は「女への生成変化」を促すんだ(くりかえせば、あくまでボクの場合、母の版の倒錯者のボクの場合だ。そしてこの「ボク」とはいまこうやって記しているこの「わたくし」ではないかもしれない)。
少女が女性になるのではなく、女性への生成変化 le devenir-femme が普遍的な少女を作り出す。子供が大人になるのではなく、子供への生成変化 le devenir-enfant が普遍的な少年を作り出す。…
少女や子供が生成変化をとげるのではない。生成変化そのものが少女や子供なのである。子供が大人になるのではないし、少女が女性になるのでもない。少女とは男女両性に当てはまる女性への生成変化 le devenir-femme であり、同様にして子供とは、あらゆる年齢に当てはまる未成熟への生成変化 devenir-jeune である。
「うまく年をとる Savoir vieillir」ということは若いままでいることではなく、各個人の年齢から、その年齢固有の若さを構成する微粒子、速さと遅さ、そして流れを抽出することだ。「うまく愛するSavoir aimer」ということは男性か女性のいずれかであり続けることではなく、各個人の性から、その性を構成する微粒子、速さと遅さ、流れ、そしてn個の性を抽出することだ。〈年齢〉そのものが子供への生成変化なのだし、性一般も、さらに個々の性も、すべて女性への生成変化、つまり少女たりうるのである。(⋯⋯)
ところで、女性への生成変化も含めて、あらゆる生成変化がすでに分子状であるとしても、あらゆる生成変化は女性への生成変化に始まり、女性への生成変化を経由するということも、はっきりさせておかなければならない。女性への生成変化は他のすべての生成変化を解く鍵なのである。le devenir-femme. C'est la clef des autres devenirs. (ドゥルーズ &ガタリ『千のプラトー』)
《私の歴史において実現されるものは、もはやそうであったものとしての定過去 passé défini ではなく、私があるところの現在完了でさえもない。そうではなく私が生成変化 train de devenir の過程にあるところのそうなるであろうという前未来 futur antérieur である。》(ラカン、 精神分析におけるパロールとランガージュの機能と領野 Fonction et champ de la parole et du langage「ローマ講演、1953」)
⋯⋯⋯⋯
※付記
上に「オマンコを撮り続けたら、顔が一番卑猥に見えてくる」と要約できることを、荒木経惟は言っていると記したが、たとえば次の文である。
まーともかく、写真をやろうってんなら、まずはオマンコ撮らなくちゃダメだろーなあ。イレポンダシポン、オマンコが風景になるまで撮りつづけるのだ。で、余裕ができて周辺が見えてくる。ケツのアナがよく見えてくる。これが、ミッチャンミチミチウンコたれて「未知子との遭遇」 ってやつ。そしたら、ミチコを撮りたくなるじゃない。バーチバチ撮る。そのうちに入れたくなる じゃない、そしたら入れる。ミチコに入れて、オマンコ撮る。これで完全に写真に入門したわけ。おまけに浣腸してあげたりして。それで、だんだん亀裸アングルが上に向かってイクー。 オケケ、ヘソ、オッペエ、クチブル、ハナノアナ、メ、・・・・・・そのうち顔がハッキリと見えてくる。 女体でいちばんワイセツな顔がハッキリ撮れりゃー、もー卒業ね。 (『未知子との遭遇――『写真への旅』』 1979年)
いかにも男根的な発言である。ああ、亀裸! だが、彼は後年こうも言っている。
写真家というのはね、きっとね、自分のことも振られたいしね、見られたいっていう気があるんじゃないかと、で、もしもそういう振られたいとか見られたいっていう気がなかったら、写真家としてはダメなんじゃないかっいう気持ちあるね (荒木経惟 「アラーキズム」 伊藤俊治編 1994年)
(「アタシは荒木経惟の写真に震えたの」) |
苦痛の感覚も他の不快感覚と同じように、性的興奮を高めて、快的状態を生みだし、その状態のためには苦痛の不快 Unlust des Schmerzes も甘受される、ということは充分に考えられる。苦痛を感じることが、ひとたびマゾヒスティックな目標になってしまうと、ひるがえって、苦痛を与えるというサディスティックな目標も生じうるわけで、このような苦痛を他者に引き起こす一方、苦しむ対象と同一化 Identifizierung mit dem leidenden Objekt することによって自らマゾヒスティックに、その苦痛を享受するのである。(フロイト『欲動とその運命』1915)
《不快とは、享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. 》(Lacan, S17, 11 Février 1970)
déplaisirとは何と訳すべきだろうか。不快ではなく、脱快とすべきかも。ようするに快原理の彼岸にある快である。《苦痛のなかの快 Schmerzlust》(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)である。
すなわちdéplaisirとは、快原理(象徴界)の非一貫性の裂け目に外立(脱自)する快である。外立ーー、《現実界は外立するLe Réel ex-siste》(ラカン、S22)、ハイデガーの《エク・スターシス ek-stasis (自身の外へ出る)・エクスターティッシュ・オッフェン ekstatisch offen(エクスタシー的開け)》である。
この現実界の審級にある《苦痛のなかの快 Schmerzlust》とは、「享楽という原マゾヒズム」にかかわる(参照)。
私が享楽 jouissance と呼ぶものーー身体が己自身を経験するという意味においてーーその享楽は、つねに緊張tension・強制 forçage・消費 dépense の審級、搾取 exploit とさえいえる審級にある。疑いもなく享楽があるのは、苦痛が現れ apparaître la douleur 始める水準である。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ有機体の全次元ーー苦痛の水準を外してしまえば、隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。(ラカン,Psychanalyse et medecine,1966)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel(ラカン、S23, 10 Février 1976)
……
享楽(悦楽 Lust)が欲しないものがあろうか。享楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。享楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が享楽のなかに環をなしてめぐっている。――
- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』)