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2018年5月11日金曜日

わかっちゃいるけどやめられないエロ事

「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)

エロ事ってのは、(タカの知れたものであることを)わかっちゃいるけど、やめられないってことだな。荒木経惟の作品や彼の発言をいくらか追っているのだけれどさ、このところ。




──オマンコを一年撮り続けたら、顔が一番卑猥に見えてくるっていう意味のことを書いておられましたね。(⋯⋯)

荒木)裸を撮っても、じゃあ最後トドメ行くぞって時は顔なんだ。もったいない話だよ。裸になってるのに顔だけしか撮らないんだから。ほかから見たら変だろ(笑)。

───富山県のミュゼふくおかカメラ館の開館記念で、「富山ノ女性101人」の顔をお撮りになりました(平成十二年[二〇〇〇年])。撮影は大変だったんじゃないですか。

荒木 気力と体力がないと撮れないよ。(⋯⋯)

初めて会う人ばかりなんだけど、アタシに撮ってほしいって人は、どんどん自分を出してく るんだ。そうしたらアタシもノッてくるからさ。だから顔はさしで撮るのが一番いいね。その人が全部出る。中には隠そうという気持ちのある人もいるけど、それも出ちゃう。隠したいっていう顔になってる。だから顔なんだ。

ちょっと普段言ってることと違うんだけど、顔はオブジェにして撮っちゃダメなんだ。向こうが熱をぶつけてきて、こっちも熱をぶつけて、顔がオブジェになるちょっと手前、その感じの顔が一番いい。四月に表参道ヒルズでやる「裸の顔」の写真展では、そういう顔を並べるんだ。

荒木 今は撮られたいっていう女の子が向こうから来てくれるからね。前は俺と末井さんで 裸は芸術だ、アートだからとか言って女の子口説いて、すっぽかされたりしてたんだから (笑)。俺は縛りとかの写真も撮ってるんだけど、俺の写真全体を見て撮ってくれっていう子が来るんだからいい時代だよ。女は俺を見る目があるんだなぁ。撮ってくれっていう女はまた上玉なんだ。女の撮られたいっていう本能はいいねぇ(笑)。(「ほぼありのままあの荒木経惟」)




いやあ、いいこと言ってるね、男には撮られたい本能ってないからな、それに《顔はオブジェにして撮っちゃダメなんだ。向こうが熱をぶつけてきて、こっちも熱をぶつけて、顔がオブジェになるちょっと手前、その感じの顔が一番いい》なんてのは、物理学者のニールス・ボーアみたいじゃないか。

どこまでが身体か。これには物理学者ニールス・ボーアの有名な思考実験がある。杖を持って道を歩く時に、杖をゆるく持つならば、杖の動きは道路の凹凸を反映し、杖は対象に属する。しかし、しっかり持つならば、杖の動きは腕の動きを反映して、対象ではなく、主体(の延長としての身体)に属する。主体と対象との境界線は任意であることを数学者フォン・ノイマンは数学的に証明した(『量子力学の数学的基礎』)。(中井久夫「重層体としての身体」『家族の深淵』1995 所収)

これは撮影機も同じだろう。例えば女を撮り続ける写真家のカメラも。カメラを「ゆるく持つならば」、カメラの動きは女の「凹凸を反映し」、カメラは女「に属する。しかし、しっかり持つならば」、カメラの動きは女ではなく、「主体(の延長としての身体)」、すなわちカメラマンに「属する。」

ところで、女ってのは、男のエロ事がなくなったら、何を楽しみにして生きるんだろ? ようするにつぎのことができなくなっちまったら。

女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装と呼ぶことのできるものの彼方 au-delà de ce qu'on peut appeler la mascarade féminineに位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性au-delà de ce qu'on peut appeler la mascarade féminine のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958)

男のリーベ(愛+欲望)の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女のリーベ(愛+欲望)の《被愛マニア形式 la forme érotomaniaque》(Lacan, E733)だからな。

すなわち、《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

⋯⋯⋯⋯

私自身が一人の女に満足できる人間ではなかつた。私はむしろ如何なる物にも満足できない人間であつた。私は常にあこがれてゐる人間だ。

 私は恋をする人間ではない。私はもはや恋することができないのだ。なぜなら、あらゆる物が「タカの知れたもの」だといふことを知つてしまつたからだつた。

 ただ私には仇心があり、タカの知れた何物かと遊ばずにはゐられなくなる。その遊びは、私にとつては、常に陳腐で、退屈だつた。満足もなく、後悔もなかつた。(坂口安吾『私は海をだきしめてゐたい 』)

男ってのは基本的に「われは女を欲する」なのさ、それを抑圧している謹厳居士諸君は、晩年、「女狂い」にならないように注意しなくちゃな。

外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。

二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩として結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。

彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

⋯⋯⋯⋯

次のイマージュは、ゴダール63才のときのものだ。


ゴダール、(複数の)映画史

少し前、ピナ・バウシュの演出におけるシュミーズの際立ったエロティックな画像を貼り付けたが、ゴダールにおける「ネグリジェ」、--たぶんそう呼ぶのだろう、シュミーズでもなくスリップでもなくーーも、とってもいいよ。

上の『(複数の)映画史』のスチル画像は、『ゴダールの訣別 Hélas pour moi』(1993)におけるロランス・マスリア Laurence Masliah の姿態の自己引用である。




この映像のあと、10分か15分ぐらい後に、次の映像が現われる。




ーーいやあ、ロランス・マスリアのネグリジェ姿がガラス扉に映ったりして、とてもエロティックである。「神の女」としてしばらく佇んだ後の、瞬間的なフラッシュも美しい、《ゴダール(Godard)の中には神(God)がいると平然といってのけたりもする映像作家⋯⋯》(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性をめぐる断片的な考察』2008年)

こういった姿は、自分の「神さん」がかりにこうであっても、まったくエロくないのがいっけん奇妙だけれど、愛すべき妻も他人の目でみなければ、エロくないんだ。

人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。(プルースト「囚われの女」)
出奔した女は、いままでここにいた女とはおなじ女ではもはやなくなっている。(プルースト『逃げ去る女』)

ロランス・マスリア Laurence Masliah がやっているラシェル・ドナデュー役(ジェラール・ドパルデューの妻役)は、アンヌ=マリー・ミエヴィル Anne-Marie Miévilleがモデルかな、とふと思う。





が、それはこの際どうでもよろしい。

文学者はひとたび書けば、その作中の諸人物の、身ぶり、独特のくせ、語調の、どれ一つとして、彼の記憶から彼の霊感をもたらさなかったものはないのである。つくりだされた人物の名のどれ一つとして、実地に見てきた人物の六十の名がその下敷きにされていないものはなく、実物の一人は顔をしかめるくせのモデルになり、他の一人は片めがねのモデルになり、某は発作的な憤り、某はいばった腕の動かしかた、等々のモデルになった。 (プルースト「見出された時」)

なにはともあれ、ゴダールはネグリジェ好きな映像作家だな。



アンナ・カリーナ、パンティはいてるのかな、って探るために切り取ったんだけどさ。スローモーションにしたらわかるよ

ゴダールは、逆光のなかのネグリジェ姿がとりわけすきみたいだな。