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2018年4月24日火曜日

泣かないで、歌いなさい



ピナ・バウシュの映像を久しぶりに眺める。




ーーこれはスリップといったらダメだ。シュミーズといわなくては。

いったん静けさが訪れた後の、女たちの狂熱的な動き。ここにエクスタシーがある。ボクは射精する。




女たちの蓋が開かれ、 エク・スターシス ek-stasis (自身の外へ出る)、エクスタシー的開け(エクスターティッシュ・オッフェン ekstatisch offenーーラカンの外立:《現実界は外立する Le Réel ex-siste》)ーーがある。

古井) ⋯⋯ 一つは「決意」と訳されるEntschlossenheit です。これは言葉としてはersclossen(開かれる)という意味に通じています。それとentdecken にも通じていて、これはふつう発見されるの意味ですが、蓋を開ける、覆いをとってしまうという意味もある。さらにハイデガーでは、フライ・ウント・オッフェン(frei und offen)つまり、フリー・エンド・オープンと言っています。さらに エクスターティッシュ・オッフェン(ekstatisch offen)、ecstasically open と言っています。エクスターゼによって開いてある、とおおよそそんな意味になりますか。エク・スターシスとは本来、自身の外へ出てしまう、ということです。忘我、恍惚、驚愕、狂気ということでもある。その広がりに興味を持ちまして。 また一方では、開けてしまうということから、中世の神秘主義者たちが繰り返し言っている 赤裸という観念を思い出す。すべてから赤裸にならなくてはならない。極端まで行けば、「神」 という観念までも捨てなければならないという。ハイデガーもシュヴァーベンあたりの人だか ら、中世の神秘主義の伝統を引いているのかなと思います。(古井由吉・木田元「ハイデガ ーの魔力」『思想読本3 ハイデガー』作品社、2001 年)

なんというアリアドネたち、 なんという魂-身体 l'âme-corps の外立 ex-sistence !

アリアドネは、アニマ、魂である。 Ariane est l'Anima, l'Ame(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』)

愛される者は、ひとつのシーニュ、《魂》として現れる。 L'être aimé apparaît comme un signe, une « âme»(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)




私がふと思ったことは、友達とギリシャでジプシー(ロマ)の人たちを訪ねた時のことです。めったにお客なんて来ないので、とても喜んで歓迎してくれました。徐々に、家族の人たちが帰って来ました。そして、誰かが料理を作り始めました。私たちがレモネードを飲みながらタバコを吸っていると、ラジオから流れる大音量の音楽にあわせて彼等は踊り始めました。でも私は恥ずかしくてだめでした。本当に美しくて自然でした。そのとき11歳くらいだけれど官能的な感じの女の子が、私に「踊るのよ!踊るのよ!でないと私たち生きていけない!」というようなことを言ったのが忘れられません。どれほど魅力的な出来事であったかは表現できません。もしダンスや音楽がなかったら、ある種の文化は生き残れたかどうかわかりません。なにかを媒介して強い気持ちを表現出来ず、人生の一瞬に喜びを感じ、希望をもてず、より良い人間関係を築き上げることができなかったら、続いていかないのです。ルーベルハルトというところのアンナという小さなレストランでの出来事ですが、トルコ出身だという老人がよく私に話をしにきました。トルコの小さい村に住んでいた自分の百歳をこえている母親が、いつも、「泣かないで、歌いなさい」と言ったことを。”(ピナ・バウシュ(3. 3-1 Art『LIFE —坂本龍一オペラ1999—』より、SCORE AND INTERVIEW『SAMPLED LIFE』1999)