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2018年5月8日火曜日

アタシは荒木経惟の写真に震えたの

「私的な視線によるエロティシズム――荒木経惟の作品を中心とした写真に関する考察――」(秦野真衣)という論文がある(現在はリンク切れだが、かつてはネット上にpdfで落ちていた)。

今、調べてみると、東京大学美学芸術学研究室に所属された方の、2002年の卒論のようだ(参照)。

この論文には次の記述がある。


図版一を見ていただきたい。序論で紹介したこの写真は、おそらく仰向けになったままからだをかたむけ鑑賞者へと視線を送る女性の顔写真である。この写真を見て、私はドキッとした。胸がざわめいた。この写真は私にエロティシズムを呼び起こしたのだ。だが、写っているのは女性である。女性が女性を見てエロティシズムを感じる。男性に向けてのあのグラビアアイドルたちには無いものがここにはあるのだろうか。

もう少し丹念に写真を見てみよう。これは「S&Mスナイパー」というSM専門雑誌の緊縛写真連載に使われた写真の一つである。実は画面に写っていない彼女の首から下は裸であり、この顔に至るまでに彼女は縛られ、蝋燭をたらされと、かなりの攻められ方を写真にとられているのだが、最も魅力にあふれているのは、最後にとられたこの顔だ。彼女の視線はこちらを向いているが、それはわれわれ鑑賞者の視線と交差することなく、どこか違うところを見ているようだ。グラビアアイドルと同じようにこちらを見ているにもかかわらず、こちらの彼女とは目があった気がしない。一体誰を見ているのか。答えはおそらく写真家だ。彼女の視線はわれわれを通り過ぎて、彼女を撮っている写真家へ向けられているように思われる。自分に視線が向けられていないとわかったとき、見るものは彼女が目を向けている写真家を強烈に意識する。画面での"不在"が"存在"を際立たせるのだ。鑑賞者と目が合う様に撮影された1章の写真との違いはここにある。(秦野真衣)

 《鑑賞者と目が合う様に撮影された1章の写真》とあるが、上の文からも窺われるように、グラビアアイドルの写真である。


アイドル写真とは何か。それは、初期の写真の慎み深さとは逆に、カメラに向き直り、レンズをのぞきこみ、その彼方に無数の視線を見てとろうとする身ぶりなのである。視線にこめられた意識を徹底的に意識化することで無意識にまでメッセージをそそぎこむ身ぶり。 (松枝到「写真のなかのアイドルは視線の交換回路をたえまなく刺激する」1985年『現代詩手帖』所収)

このアイドル写真ーーたとえば篠山紀信の写真は典型的にそうだろうーーに対して、荒木経惟の写真のおおくはまったく異なった構造をもっているという観点から書かれた論文である。

「撮る」「撮られる」「見る」の三つの視線が写真にはあるはずだったのに、親密な関係を写す写真には「撮る」「撮られる」の二つの視線しか想定されていない。では、「見る」ものはどのように見たらいいのか。写真の鑑賞者は、「撮られる」ように「見る」、もしくは「撮る」ように「見る」ことを迫られるのである。つまりは、写真家とモデルの立場に自身を投入することになる。(秦野真衣)

若く聡明な女性によるとてもすぐれた指摘だとわたくしは思う。そしてこの記述の流れのなかに次の文がある。

シーレの絵の中の女性も荒木の写真の中の女性も、彼女たちの視線を向けている方向をみると、自分の目の前に存在する作者のことしか考えていないように思われる。どんなに笑いかけていても、煽情的なポーズをとっていても、彼女たちの視線は「見る」ものの視線を飛び越えていく。モデルたちはカメラに振られていることに対しては充分に自覚的だが、その背後にある写真を見るであろう無数の視線には反応を示さない。自分にとって重要で、意味を成すのは目の前にいる写真家との関係だけだからだ。重要なことはただ一つ。撮られる相手は「荒木経惟」でなければならない。誰のためでもなく荒木のために投げかける視線、それこそが写真に写真家を"存在"させている理由である。 シーレの「横たわる少女」と同じく、女性があられもないポーズをとるのは他の誰でもない、荒木のためだから可能となった。とすれば、ここに写っているのは姿態、ポーズというよりも、それを見せることができるまでに強固な、作者とモデルの間にある絶対的な信頼関係である。(秦野真衣)

いまはこれ以上書かない。 秦野真衣さんは卒業後、小学館女性誌編集局で12年働き、いまは独立されている方である(参照)。

ここで言いたいのは、前回、「エゴン・シーレと荒木経惟ののっぴきらなさ」で記したことは、ほぼ彼女の論文のパクリである、ということだけである。