(シーレの絵にはほとんどの場合)そこに描かれているのは性の演技ではなく、画家とモデルとの一回限りの、ある微妙な関係だけが真の主題として描かれている…。この一回性の関係性が交換不能の唯一のリアリティ(あるいは持続)を生み出すのだ。…そこに措かれている女性(あるいは男性)との間には、何かのっぴきならない個人的・内面的・心理的な緊張関係ともいうべきものが生じている。(飯田善國 「ポルノグラフィーーそれとも」 1987年『ユリイカ』「ウィーンの光と影」より)
エゴン・シーレ(1890-1918)。シーレが仕事をしていたのは、わずか10年ばかりのことにすぎない。(⋯⋯)
その(作品の)多くは、強い黒い線で、男女の裸体、殊に女の裸体を描き、そこに抑えた色彩をほどこす。そこには、風景画も、静物画も、人物の背景さえも、ほとんどない。題材は、極度にかぎられていて、どんな画家でも描く裸体に集中する。しかしその様式は、どんな画家の作品が周囲にあっても、紛う方なく一眼でそれとわかるほどに個性的である。数かぎりない人々が見慣れてきた対象の裡に、誰も見なかった形を発見する、--画家の天才とは、その他のことではないだろう。シーレの裸体はセザンヌのりんごである。
優雅で、装飾的な、「美しい時代」の、ドイツ語でいえば《Jugendstil》の面影は、そこにはない。その代わりに、臨床医のそれに似た鋭い観察と、無慈悲に、ほとんど痛烈に、正確な描写がある。「モデル」の多くは、おそらくヴィーンの娼婦たちであったろう。裸の女は、羞らいの気配を示さず、ときには懈(ケダル)そうな、ときには挑発的な顔をして、胸をつきだしたり、膝を立てたり、股を開いたりしている。その肌は、滑らかに白く輝いているのではなく、ところどころにあざがあり、青い静脈を透かせている。その身体の線は、流れるような丸みではなく、著しい凹凸を示して、ほとんど粗い印象をあたえる。
しかし美化されていないシーレの裸像には、強烈な存在感がある。特定の姿勢の、特定の女の身体の、具体的な形があたえる印象は、風俗や性的刺激や心理的状況を超えてその向こう側にある何かであり、いわば個別的なモノ一般の存在感である。たしかにシーレがクリムトの時代に成功するはずはなかった。彼は一人で、人間の条件としての身体、個物としての肉体、あるいは存在論的な肉体の意味を、見つめていたように、私には思われる。肉体は悲し。(加藤周一「肉体は悲し」『絵のなかの女たち』所収)
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現代日本において、飯田善國曰くの《画家(作家)とモデルとの一回限りの、ある微妙な関係》《のっぴきならない個人的・内面的・心理的な緊張関係》を表現している作家に思いを馳せるとき、わたくしは荒木経惟という写真作家を挙げたくなる(現在、アラーキーに風当たりが強いので、なお一層のこと、いささか挑発的にこう言いたい)。
荒木経惟は大量の写真を撮っているので、成功作もあれば失敗作もある。だが彼の基本的なスタンスが次の通りであるのは間違いない。
相手に想いをぶつけてそれを撮っている。 私の場合は、相手とのぶつけ合いで、このあたりまで(相手との中間の空間)撮れちゃうわけ。ここの空気まで写っちゃう。 空間と空間の狭間、つまり際物が好きなんだね、境界線のあたりが。(荒木経惟発言ーー 伊藤俊治『生と死のイオタ』1998年)
ところで数年前にLacan.comで拾ったのだが、「新しい種類の愛」というジャック=アラン・ミレール(ラカンの娘婿であり、現在、主流ラカン派のボス)のエッセイがある。その冒頭には、荒木経惟の「花緊縛」の画像が冒頭に貼付されてある。いまこのエッセイは Lacan.com からは消えているようだが、さる人がそのまま転写している(参照)。エッセイの内容は、緊縛には「直接的には」関係がないので、おそらく編集者が貼り付けたものだろう。
だが、《精神分析は入り口に「女性というものを探し求めないものはここに入るべからず」と掲げる必要はない。そこに入ったら幾何学者でもそれを探しもとめる》(ミレール「もう一人のラカン」1980年)とされる精神分析の領域で仕事をする者が、荒木経惟の作品に魅せられるのは、わたくしには当然だと思える。彼の創作活動もまた、《女性というものを探し求め》ることにあるのは、歴然としている。
ミレールのエッセイには次の作品が貼付されている。
これはほとんどシーレの女の表情と姿態である。
荒木経惟の言葉でいえば、現実の女が現物の女に変貌している。
最後に加藤周一のシーレ評、《特定の姿勢の、特定の女の身体の、具体的な形があたえる印象は、風俗や性的刺激や心理的状況を超えてその向こう側にある何か》をもう一度思い出しておこう。これはまさにアラーキーの作品に現れているものではないか?
※参照:他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的だよ(ラカン)
だが、《精神分析は入り口に「女性というものを探し求めないものはここに入るべからず」と掲げる必要はない。そこに入ったら幾何学者でもそれを探しもとめる》(ミレール「もう一人のラカン」1980年)とされる精神分析の領域で仕事をする者が、荒木経惟の作品に魅せられるのは、わたくしには当然だと思える。彼の創作活動もまた、《女性というものを探し求め》ることにあるのは、歴然としている。
ミレールのエッセイには次の作品が貼付されている。
これはほとんどシーレの女の表情と姿態である。
荒木経惟の言葉でいえば、現実の女が現物の女に変貌している。
かつて私は、現実を超え、現物を感じさせる女を、「広辞苑」に内緒で、女優と定義したが、実は、女は、すべてが現実を超えていて、現物なのである。女は、すべて女優なのである。(荒木経惟『劇写「女優たち」』1978年)
荒木さんは私の中に潜んでいるその『女』に声をかけてくれた。私もそれを出すために荒木さんが必要だったんです。(石倭裕子インタビューより 桐山秀樹『荒木経惟の「物語」』1998年)
荒木のヌード写真を支えているのは"撮られる側の欲望"であり、それは「女を撮られたい」ことだということである。ヌード写真を批判する議論として、それが男の性的欲望に奉仕する"女″を強制的に演じさせられているからという言い方がある。しかし、実のところ自分の中に確実にうごめいている"女"の「エロス」をまっすぐに見つめて欲しいという欲望こそ、ヌード写真がこれほどまでに大量に撮られ続けている最大の理由なのではないか。(飯沢耕太郎 『荒木! 「天才」アラーキーの軌跡』1999年)
最後に加藤周一のシーレ評、《特定の姿勢の、特定の女の身体の、具体的な形があたえる印象は、風俗や性的刺激や心理的状況を超えてその向こう側にある何か》をもう一度思い出しておこう。これはまさにアラーキーの作品に現れているものではないか?
エロ雑誌の世界では、荒木さんの写真では “抜けない” ことで有名なんです。普通のエロ写真は女優が読者に向かって、「これからしましょう」みたいなニュアンスがあるけど、荒木さんの写真にはそれがないんです 。 (末井昭発言ーー桐山秀樹『荒木経惟の「物語」』1998年)
※参照:他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的だよ(ラカン)