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2018年7月27日金曜日

男は女になんか興味ないよ

男は女になんか興味ないよ、母がなかったら、な。

un homme soit d'aucune façon intéressé par une femme s'il n'a eu une mère. (ラカン、Conférences aux U.S.A, 1975)
男は女と寝てみることだよ、そうしたら分かる。それで充分だね。逆も一緒だ。

il suffirait qu'un homme couche avec une femme pour qu'il la connaisse voire inversement. ラカン、S24, 16 novembre 1976)

何がわかるんだろうか?

我々はフロイトの次の仮説から始める。

・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。
・愛は転移 transfert である。
・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。

我々は根源的愛の対象を「a」(対象a)と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。( ミレール、1992『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』Jacques-Alain Miller、pdf)
quoad matrem(母として)、すなわち《女 la femme》は、性関係において、母としてのみ機能する。…quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère »(ラカン、S20、09 Janvier 1973)

もう少し「穏やかに」言えば、こういうことがわかる。

女はすべての男にとってサントーム sinthome (原症状)だ。男は女にとって…サントームよりさらに悪い…男は女にとって、墓場(荒廃場 ravage)だな。une femme est un sinthome pour tout homme…l'homme est pour une femme …affliction pire qu'un sinthome… un ravage(ラカン、S23, 17 Février 1976)

わたくしは、墓地で最初の性交をしたので、女の心持がよくわかる(参照:パンセと石鹸の広告)。



⋯⋯⋯⋯

母に対してしなくちゃならない最も肝心なことは、切り離すことだよ…近親相姦だけは絶対にしないようにな

Quant à la mère … le mieux qu'on ait à en faire, c'est de se le couper … pour être sûr de ne pas commettre l'inceste(ラカン、S24,  15 mars 1977)

とはいえ1959年のラカンはこうは言っている。

(フロイトによる)モノ、それは母である。モノは近親相姦の対象である。das Ding, qui est la mère, qui est l'objet de l'inceste, (ラカン、S7 16 Décembre 1959) 

すこし口が滑ったのである。一月後には次のように言うのだから。

他のモノAutre chose は本質的にモノである。« Autre chose » est essentiellement la Chose. (S7、27 Janvier 1960)

他のモノAutre choseとは何か? 

いやその前に次の「外密=対象a=モノ」を示す二文を掲げておく。

親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)

近親相姦などやっても何の得るものもないのである。「他のモノ autre chose 」とは、外密 extimité、あるいは《無物 achose 》(S17、09 Avril 1970)に過ぎないのだから。

無物、すなわちゼロである。

現実界は全きゼロの側に探し求められなければならない Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu”(Lacan, S23, 16 Mars 1976)

《ゼロ度とは、厳密に言えば、何もないことではない。ないことが意味をもっていることである。》(ロラン・バルト『零度のエクリチュール』1964)

《ゼロ記号とは、それ自身は無でありながら体系性を成立させるような「超越論的主観」の言い換え》(柄谷行人『トランスクリティーク』2001)


無物とはブラックホールのことでもある。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

ここでのブラックホールとはカオス理論におけるストレンジアトラクター(奇妙な引力)と言い換えてもよろしい。

カオス理論における「ストレンジ・アトラクター」の形そのものが、ラカンの〈対象a〉の物理学的隠喩なのではなかろうか。(ジジェク『斜めから見る』1991)
ラカンが、象徴空間の内部が外部に重なり合うこと(外密 extimité )によって、象徴空間の湾曲・歪曲を叙述するとき、彼はたんに、対象a の構造的場を叙述しているのではない。剰余享楽は、この構造自体、象徴空間のこの「内に向かう湾曲」以外の何ものでもない。…

数学におけるアトラクターを例にとろう。引力の領野内の全ての線や点は、絶え間なく、アトラクターに接近するのみで、決して実際にはその形式に到らない。この形式の存在は、純粋にヴァーチャルなものであり、線と点がアトラクターに向かう形以外の何ものでもない。しかしながら、まさにそれ自体として、そのヴァーチャルな形式が、この領野の現実界なのである。すなわち、全ての要素がそのまわりを旋回する不動の中心的な点が。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)




(Lorenz system)




ラカン派においてしばしば示されるトーラス円図は、事実、このストレンジアトラクターのありようとの近似性を示している(参照:男女間の去勢の図)。






ストレンジアトラクターの引力とは、フロイトにおいては原抑圧の引力である。ラカンにおいては穴の作用である。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

穴、すなわちȺであり、その穴Ⱥのシニフィアンが、S(Ⱥ)というブラックホールの引力をもつ、--S(Ⱥ)は、《S(a)とも書きうる》とは、ブルース・フィンク1995が既に言っている。

あなたを吸い込むヴァギナデンタータ(歯のはえた膣)、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999ーー「ベケットとあなたを貪り喰う空虚」)

ーーより理論的な参照としては「S(Ⱥ)と表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)」を見よ。


穴とは、享楽の空胞とも表現される。

享楽の空胞 vacuole de la jouissance…私は、それを中心にある禁止 interdit au centre として示す。…私たちにとって最も近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にあるだ。

ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を作り出す必要がある。Il faudrait faire le mot « extime » pour désigner ce dont il s'agit (⋯⋯)

フロイトは、「モノdas Ding」を、「隣人Nebenmensch」概念を通して導入した。隣人とは、最も近くにありながら、不透明なambigu存在である。というのは、人は彼をどう位置づけたらいいか分からないから。

隣人…この最も近くにあるものは、享楽の堪え難い内在性である。Le prochain, c'est l'imminence intolérable de la jouissance (ラカン、S16、12 Mars 1969)

ラカンはこの直後、《空胞の解剖学 anatomie de la vacuole》、あるいは《耳石 otolithe》と言っているが、もちろんこれは「詩」として読む必要がある。《私は詩人ではない、だが私は詩である。je ne suis pas un poète, mais un poème.》(ラカン、AE572、17 mai 1976)




とはいえ耳石 otolitheとは、はてなんだろうか? 

なにやら白い粉粒のようなものがあり、それが剥がれて三半規管に入ると、「回転性のめまい」が生じるそうだ。





回転性のめまい、すなわち原初に喪われた対象の周りの循環運動である。

我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

ようするに「享楽の空胞 vacuole de la jouissance」の周りの循環運動である。これはフロイト用語では反復強迫であり、ラカンの別の表現では享楽回帰である。

心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。(フロイト『不気味なもの』1919)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…「享楽の喪失déperdition de jouissance」があるのだ。

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

この循環運動は、享楽の漂流とも表現される。死の漂流でもかまわない。

私は…欲動Triebを、享楽の漂流 la dérive de la jouissance と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)

しかしなぜ人はみな穴があるのであろうか?

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé( ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010)

ーーラカンにとって穴trouとは、troumatisme =トラウマ(S21)のことである。

ラカンは穴について実に具体的に説明している。何度も引用してきているが、臍の緒が切れたせいで、穴があるのである。これが決定的である。

・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。

・人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。(ラカン、1975, Strasbourg)

ここでフロイトは、この臍(navel)を、我々の存在の核(Kern unseres Wesen)、菌糸体(mycelium)、欲動の根(Triebwurzel)、さらには真珠貝の核の砂粒 (das Sandkorn im Zentrum der Perle)等々と呼んでいることを付け加えておこう。

これらの表現とほぼ等価のラカンの「享楽の空胞 vacuole de la jouissance」とは、母子融合が分離されたことによる空胞にほかならない。

ああ、あの時代はよかった、多少狭くはあったが。



だが、不幸にも下部にある杣径から外に出なければならない宿命をわれわれはもっている。ゆえに享楽の空胞が生じるのである。その空胞は、ヴァギナデンタータ=ブラックホールとして機能する。

これはほとんどの男性諸君は御存知のことだろう。女性の方々もすくなくとも無意識的には既にご存じの筈である。




最後にわたくしが知り得たなかで最もすぐれた「フェミニスト」カーミル・パーリアの文を掲げておこう。

ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。………

社会的交渉ではなく自然な営みとして見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。………

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。………(カーミル・パーリア『性のペルソナ』)

⋯⋯⋯⋯

わたくしは最近似たようなことばかりを繰返している気がするが、なぜだろうか? ーー享楽の空胞のせいである。

わたくしは大江のいう「魂のことをする」ーー魂のことばかりしているのである。すなわち《「中心の空洞」に向けて祈りを集中》しているのである(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第二部第二章「中心の空洞」)。

あるいは最近とみに、わたくしを貪り喰う空洞に戦慄と魅惑を感じているからである。

わたしを貪り喰う空虚 Incontinent the void。天頂。また夕方。夜でなければ夕方だろう。また死にかけている不死の光。一方には真っ赤な燠。もう一方には灰。勝っては負ける終わりのないゲーム。誰も気づかない。(サミュエル・ベケット『見ちがい言いちがい』

縄文時代人は、現代人よりもずっと「中心の空洞」あるいは「われわれを貪り喰う空虚」、すなわち「享楽の空胞」についてよく知っていた。