2018年7月24日火曜日

S(Ⱥ)と表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)

すこしまえに「欲動のクッションの綴じ目(S(Ⱥ)」とは、フロイトの「欲動代理 Triebrepräsentanz」概念とほぼ等価だろう」と記したが(参照:享楽の主体、欲動の主体、妄想の主体、幻想の主体)、それについて質問をもらっている。だがこれはテキトウに書いたのであり、世界中のラカン派のあいだでも誰も「直接には」そう言っていない。

だから蚊居肢ブログの架空の登場人物であるボクにできることは、いままで引用してきた資料を並べるだけだね。

まず欲動代理 Triebrepräsentanz とは表象代理 Vorstellungsrepräsentanz と等価である前提で以下の文を読もう。それがフロイトにおいて等価であるだろうことは、末尾に資料を付記。

とはいえ厳密には同じものと扱いがたいという注釈者もいる。

There can be a hesitation between Triebrepräsentanz and Triebrepräsentant, the first referring to the function of taking-the-place-of (“tenant-lieu”), the second to the taking-the-place-of itself.(The Mark, the Thing, and the Object: On What Commands Repetition in Freud and Lacan、Gertrudis Van de Vijver, Ariane Bazan and Sandrine Detandt、2017)

そもそもフロイトの「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」概念の解釈は、精神分析において長年の紛糾の種。それについては、Cahiersの「La représentation」の項にいくらか詳しい記述がある。


【表象代理】

世界が表象 représentation(vótellung) になる前に、その代理 représentant (Repräsentanz)ーー私が意味するのは表象代理 le représentant de la représentationであるーーが現れる。Avant que le monde devienne représentation, son représentant, j'entends le représentant de la représentation - émerge. (ラカン, S13, 27 Avril 1966)
「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧(追放)されている。男にとって女が抑圧(追放)されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。

なによりもまず、女の表象代理は喪われている le représentant de sa représentation est perdu。人はそれが何かわからない。それが「女というものLa Femme」である。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)
・私は…(フロイトの)「 Vorstellungsrepräsentanz」を「表象代理 représentant de la représentation」と翻訳する。

・「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」とは、…「表象の仮置場 tenant-lieu de la représentationである。

・表象代理 Vorstellungsrepräsentanzは、(S1と)対 couple のシニフィアンS2(le signifiant S2)である。Vorstellungsrepräsentanz qui est le signifiant S2 du couple.

・表象代理は二項シニフィアンである。Le Vorstellungsrepräsentanz, c'est ce signifiant binaire. この表象代理は、原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung, le point d'attrait とした。 (ラカン、セミネール11、1964)

以上より、ラカンは表象代理を原抑圧という引力にかかわるものとしているのが分かる(これはフロイトの記述に則っている)。そして〈女というもの La Femme〉にかかわることも。

引力と斥力については、「なんでもおまんこ」派の蚊居肢散人が「御牝孔・御曼孔をめぐって」において、いくらかくわしく記述している。


次にS(Ⱥ)をめぐる。

【S(Ⱥ)】

S(Ⱥ) は、それに対して他のシニフィアンが主体を代理(代表)するところのシニフィアンである。S(Ⱥ)がなければ、他のシニフィアンは何も代理しない。

S (Ⱥ) …Ce signifiant sera donc le signifiant pour quoi tous les autres signifiants représentent le sujet : c'est dire que faute de ce signifiant, tous les autres ne représenteraient rien. (ラカン「主体のくつがえし」E819、1960)
 S(Ⱥ)は、何よりもまず、「一つのシニフィアンが、他のシニフィアンに対して主体を代理する un signifiant est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant」(E819)ーーこの命題の帰結 conséquence de la propositionである。…

すべての他の諸シニフィアンではなく、このシニフィアンの存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré を支配する maîtrisez。(ミレール2007, Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller)

S (Ⱥ)とは穴Ⱥを穴埋めするシニフィアンである(いや、シニフィアンというのは実は語弊がある、「不可能な」シニフィアンである)。

そしてȺとは、 《大他者のなかの穴 trou dans l'Autre》(ミレール、2007)という意味である。大他者は通常の意味(参照:大他者なき大他者)以外に、身体 corpsという意味がある[参照]、《大他者は身体である l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! 》(S14)

Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる comporte un manque、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)


ラカン自身の発言に戻ろう。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるcombler le trou dans le Réel ために何かを発明する inventons のだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。 (ラカン、S21、19 Février 1974 )
穴、それは非関係・性を構成する非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexue(S22, 17 Décembre 1974)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である …« Lⱥ femme 斜線を引かれた女»は S(Ⱥ) と関係がある。…彼女は« 非全体 pas toute »なのである。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)
大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).(ラカン、 S24, 08 Mars 1977)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、S23、16 Mars 1976)

ラカン派では穴をトラウマ(構造的トラウマ)と呼び、穴埋めを妄想と呼ぶことが多い(あるいは倒錯)。ゆえに「人はみな妄想する」であり、かつまた 《「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé》( ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010)

より穏やかに言えば、われわれの言説(=社会的つながり)は現実界に対する防衛だということである。

ラカンの《人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire délirant》とは、「我々はみな精神病的だ」を意味しない。そうではなく《我々の言説(社会的つながり)はすべて現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 》(Miller, J.-A., « Clinique ironique », 1993)ということを意味する。( LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert 、2018)


次にS(Ⱥ)と固着をめぐる。

【S(Ⱥ)=固着 Fixierung=サントーム(原症状)
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN 」)
S(Ⱥ)、すなわち、斜線を引かれた大他者のシニフィアン S de grand A barré。これは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたシンボル symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne である。(同ミレール、6 juin 2001, LE LIEU ET LE LIEN)
フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫 der Wiederholungs­zwang des unbewussten Esに存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽 」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours, L'être et l'un)

こういった注釈の流れのなかで次の言明がある。

S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions (ミレール Jacques-Alain Miller 、Première séance du Cours 2011)

そして《原抑圧とは固着と捉えなければならない》(ポール・バーハウ、2001)。フロイト自身の固着をめぐる記述は、「人はみな穴埋めする」を見よ。

固着の核心は、《固着とは、心的なものの領野の外部に置かれる》ことである。

我々の見解では、境界シニフィアンの手段による「原防衛」は、フロイトが後年、「原抑圧」として概念化したものの下に容易に包含しうる。原抑圧とは、先ずなによりも「原固着」として現れるものである。原固着、すなわち何かが固着される。固着とは、心的なものの領野の外部に置かれるということである。…こうして原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。

原防衛は、穴 Ⱥ を覆い隠すこと・裂け目を埋め合わせることを目指す。この防衛・原抑圧はまずなによりも境界構造、欠如の縁に位置する表象によって実現される。

この表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(Freud,Draft K)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。(PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)

ーー原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残す」、したがって「ひとりの女は暗闇のなかに異者として蔓延る」。

2018年のラカン主流派の議題は、これにかかわる。

人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。Tout un chacun est obligé d'inventer ce qu'il peut, standard ou pas, universel ou particulier, pour parer au trou de la forclusion généralisée. (Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité, 2018、pdf)

一般化排除の穴 trou de la forclusion généraliséeとは何か。《「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de La/ femme》による穴である。

すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。

forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose(LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert、2018

⋯⋯⋯⋯

次にジジェクによる「表象代理」注釈をふたつ掲げる。

【喪われている女性の主人のシニフィアン feminine Master‐Signifier】
フロイト概念の核心、Vorstellungs-Reprasentanze(表象-代理)は、不可能な・排除された表象の象徴的代理(あるいはむしろ代役 stand-in for)である。(ジジェク、幻想の感染 THE PLAGUE OF FANTASIES、1997)
想い起こそう。ラカンが「Vorstellungs‐Repräsentanz 表象-代理」を、喪われている二項シニフィアンとして定義したことを。この喪われている二項シニフィアン binary signifier とは、「ファルスの主人のシニフィアン phallic Master‐Signifier」の対応物でありうる「女性の主人のシニフィアン feminine Master‐Signifier」であり、二つの性の相補性を支え、どちらの性もそれ自身の場ーー陰陽、等のように--置くものである。

ここで、ラカンはラディカルなヘーゲリアンである(疑いもなく、彼自身は気づいていないが)。すなわち、「一」がそれ自身と一致しないから、「多」multiplicity がある。

今われわれは、「原初に抑圧されたもの」(原抑圧)は二項シニフィアン binary signifier (表象代理 Vorstellungs‐Repräsentanz のシニフィアン)であるというラカンの命題の正確な意味が分かる。

象徴秩序が排除しているものは、陰陽、あるいはどんな他の二つの釣り合いのとれた「根本的原理」としての、主人の諸シニフィアン Master‐Signifiers、S1‐S2 のカップルの十全な調和ある現前である。《性関係はない》という事実が意味するのは、二番目のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原抑圧」されているということである。そして、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂目を埋めるものは、多様なmultiple「抑圧されたものの回帰」、一連の「ふつうの」諸シニフィアンである。

(…)この理由で、標準的な脱構築主義者の批判ーーそれによれば、ラカンの性別化の理論は「二項論理」binary logic と擦り合うーーとは、完全に要点を取り逃している。ラカンの「女というものは存在しない la Femme n'existe pas 」が目指すのは、まさに「二項」の軸、Masculine と Feminine のカップルを掘り崩すことである。原初の分裂は、「一」l'Un と「他」l'Autre とのあいだにあるのではない。そうではなく、厳密に「一」固有のものである。「一」とその刻印の「空虚の場」とのあいだの分裂(分割)として、「一」固有のものなのである(これが我々がカフカの有名な言明、「メシアは、ある日、あまりにも遅れてやって来る」を読むべき方法だ)。

これはまた、「一」に固有の分裂/多様性の暴発とのあいだの繋がりを、人はいかに捉えるべきかについての方法である。「多」multiple は、原初の存在論的事実ではない。「多」の超越論的起源は、二項シニフィアンの欠如にある。すなわち、「多」は、喪われている二項シニフィアンの裂け目を埋め合わせる一連の試みとして出現する。したがって、S1 と S2 とのあいだの差異は、同じ領野内部の二つの対立する軸の差異ではない。そうではなく、この同じ領野内部での裂け目であり(その水準での裂け目において、変化をふくむ作用 process が発生する)、「一」の用語固有のものである。すなわち、原初のカップルは、二つのシニフィアンのカップルではない。そうではなく、シニフィアンとそのレディプリカティオ reduplicatio、シニフィアンとその刻印 inscription の場、「一」と「ゼロ」とのあいだのカップルである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012、私訳)

ここでジジェクは、《二番目のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原抑圧」されている》と記していることにより、S(Ⱥ)をめぐっているとボクは捉える。すなわち表象代理Vorstellungsrepräsentanz=S(Ⱥ)として。ボクにとっては、この記述に出会ってから四年ほどかかって、たぶんそうだろうな、つまりS(Ⱥ)とは欲動代理のことだな、とようやく朧げながら考えるようになっている。

最後にフロイトにおける表象代理と欲動代理の記述。


【表象代理 Vorstellungsrepräsentanz】
われわれは意識的表象と無意識的表象 Vorstellungenとがあるだろうといったが、無意識的な欲動興奮 Triebregungen、感情、感覚といったものもあるだろうか? あるいはこの場合には、このような複合語を形成するのは無意味なのであろうか?

私はじっさい、意識的と無意識的という対立は、欲動には適用されないと考える。欲動は、意識の対象とはなりえない。ただ欲動を代理している表象 Vorstellung, die ihn repräsentiert だけが、意識の対象となりうるのである。けれども欲動は、無意識的なもののなかでも、表象によって代理されるしかない。欲動が表象 Vorstellung に付着するか、あるいは一つの情動状態 Affektzustand としてあらわれるかしなければ、欲動についてはなにも知ることができないであろう。

われわれが無意識的な欲動興奮とか、抑圧された欲動興奮について語るとしても、それは無邪気で粗雑な表現ということになる。われわれはそのさい、その表象代理 Vorstellungsrepräsentanz が無意識的であるような欲動興奮を考えているに過ぎない。(フロイト『無意識』1915年)


【欲動代理 Triebrepräsentanz】
……われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。すなわち、その代理はそれ以後不変のまま存続し、欲動はそれに拘束 binden される。(……)

抑圧の第二段階、つまり本来の抑圧 Verdrängung は、抑圧された代理 verdrängten Repräsentanz の心的派生物に関連するか、さもなくば、起源は別だがその代理と連合的に結びついてしまうような関係にある思考の連鎖に関連している。

こういう関係からこの表象 Vorstellungen は原抑圧をうけたものと同じ運命をたどる。したがって本来の抑圧とは後期抑圧 Nachdrängung である。それはともかく、抑圧すべきものに対して意識的なものが及ぼす反発だけを取り上げるのは正しくない。同じように原抑圧を受けたものが、それと連結する可能性のあるすべてのものにおよぼす引力をも考慮しなければならない。かりにこの力が協働しなかったり、意識によって反撥されたものを受け入れる用意のある前もって抑圧されたものが存在しなかったなら、抑圧傾向はおそらくその意図をはたさないであろう。

われわれは、抑圧の重要な働きをしめす精神神経症の研究に影響されて、その心理学的な内容を過大評価する傾向がある。そして抑圧は、欲動代理 Triebrepräsentanz が無意識の中に存続し、さらに組織化され、派生物を生み、結びつきを固くすることを妨げないのだという点を忘れやすい。実際、抑圧はひとつの心理的体系、つまりシステム意識への関連しか妨げない。

精神分析は、精神神経症における抑圧の働きを理解するのに重要な、別のものをわれわれにしめすことができる。たとえば欲動代理 Triebrepräsentanz が抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展することなどである。

それはいわば暗闇の中にはびこり、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって身に覚えのないものに思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという見かけによって患者をおびやかすのである。

人をあざむくこの欲動の強さTriebstärkeは、空想の中で制止されずに発展した結果であり、たびかさねて満足が拒絶された結果である。この後者の結果が抑圧と結びついていることは、われわれが抑圧の本来の意味をどこに求めるべきかを暗示している。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

この文において、欲動代理が固着とほぼ等価であるのは明らかであろう。とすればサントーム=S(Ⱥ)=固着=欲動代理である。なぜラカン派の誰もがーーわたくしの知る限りだがーーこれを「ダイレクトには」言わないのかが逆に不思議である。

この二論文と同時期に書かれた『欲動および欲動の運命』には次のようにある。

《欲動 Trieb》は、わたしたちにとって、心的なものと身体的なものとの境界概念 ein Grenzbegriff として、つまり肉体内部から生じて心に到達する心的代理 psychischer Repräsentanz として、肉体的なものとの関連の結果として心的なものに課された作業要求の尺度として立ち現われる。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915)

欲動とは《境界概念 Grenzbegriff》とある。これは初期フロイト概念《境界表象 Grenzvorstellung》とひどく近似している(ポール・バーハウ1999における指摘)。

当時のフロイトには原抑圧概念はない。以下の文にあらわれる「抑圧」とは「原抑圧」と捉えなければならない)。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(フロイト, フリース書簡、I January 1896,Draft K)

たとえば次の文の抑圧も「原抑圧」である。

本源的に抑圧(追放)されているものは、常に女性的なものではないかと疑われる。(フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)

結局、現代ラカン派とは、この『夢判断』以前に言われたフロイトの核心的言明のまわりをいまだ廻っているのである。 それが2018年主流ラカン派の議題の「一般化排除の穴 trou de la forclusion généralisée」である。

以上よりーー引用記述が長くなってしまったのでやや飛躍して言うがーー、 S(Ⱥ)は、欲動代理 Triebrepräsentanz と捉える。そしてS(Ⱥ) も欲動代理も穴Ⱥ の境界表象Grenzvorstellung である、と考える。

⋯⋯⋯⋯

欲動代理をめぐる、上に掲げたジジェクの決定的な記述以外に、RICHARD BOOTHBYの次の記述もボクにとって決定的である(BOOTHBYのこの書は、ジジェク2012が敬意をもって引用している箇所がある、以下の部分とは異なるが)。

『心理学草稿』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当てportion」ーー限定された代理表象に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰」とのあいだの閾にあるものとして。

最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分裂 disjunction」 である。

つねに残余・回収不能の残り物がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の鎧へ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生(ナマ raw)の力あるいは衝迫 Drangの相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)


※追記

サントームΣ = S(Ⱥ)(原症状)でありつつ(参照:S(Ⱥ)と「S2なきS1」)、S(Ⱥ)=「文字対象a[la lettre p)etit a]」(S23、11 Mai 1976)でもある(参照:「欲望は大他者の欲望」の彼岸)。