2018年7月25日水曜日

ドガ的美、フォンタナ的美



実に美しい写真である。砂丘的な美とともにドガ的な美をもっている。




彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。

彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ」

いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢判断』 高橋義孝訳)

結局、この起源的「がま口問題」に尽きるのである。すくなくとも男としてのボクの場合(ああ、あの少女とのお医者さんごっこ!)

もちろん女たちでさえ、成長後も、おそらく自らのがま口検査をしきりにしているはずである。




ーー男の場合、こうやって検査するまでもない。目の前にあるのだから。

人はまず、ラカンの次の言明を文字通り読まねばならない。

「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧(追放)されている。男にとって女が抑圧(追放)されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。

なによりもまず、女の表象代理は喪われている le représentant de sa représentation est perdu。人はそれが何かわからない。それが「女というものLa Femme」である。(ラカン、S16, 12 Mars 1969ーー「S(Ⱥ)と表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)」)

すなわち、女について幻想するのは、男だけではない。女も同様である。この女とは他の性である。

「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である(ミレール、The Axiom of the Fantasm)


したがって女を賛美し、その本質を探ろうとするのは、男女両性にかかわるのである。

女というものは存在しない La femme n’existe pas。われわれはまさにこのことについて夢見る。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめない。(ミレール 、El Piropoベネズエラ講演、1979年)

「女はシニフィアン(表象)の水準では見いだせない」、これが人の生ーーすくなくともエロス的生ーーにおいて、なによりもの核心である。

かつまた、《女というものは存在しない。だが女たちはいる la Femme n'existe pas, mais il y a des femmes》(ジジェク 、LESS THAN NOTHING, 2012)ということになる。

「女というものは存在しない La femme n’existe pas」とは、女というものの場処 le lieu de la femme が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のまま lieu demeure essentiellement vide だということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会う rencontrer quelque chose ことを妨げはしない。(ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexes)

ボクはときに(?)ネット上のエロ画像を眺めることがあるが、これはどうしても捨てがたい。とくに性器の直接的な露出のないエロ画像のなかには、ほとんど芸術の領域に近づいているものがある(もちろんボクにとっては、ということである)。




ああ、フォンタナ的美! そしていかにも大江健三郎的美!

ナオミさんが先頭で乗り込む。鉄パイプのタラップを二段ずつあがるナオミさんの、膝からぐっと太くなる腿の奥に、半透明な布をまといつかせ性器のぼってりした肉ひだが睾丸のようにつき出しているのが見えた。地面からの照りかえしも強い、熱帯の晴れわたった高い空のもと、僕の頭はクラクラした。(大江健三郎「グルート島のレントゲン画法」『いかに木を殺すか』所収)

もっともボクの場合、大江が書いているようにエリック・ロメール的な状況への偏愛がある。




なにはともあれこうである。

母のペニスの欠如は、ファルスの性質が現われる場所である。sur ce manque du pénis de la mère où se révèle la nature du phallus(ラカン「科学と真理」1965、E877)

ゆえに人は、母のファルス、女のファルスを夢想する。

フェティッシュは女性のファルス(母のファルス)の代理物である。der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter)  (フロイト『フェティシズム』1927年)


ああ、《スカートの内またねらふ藪蚊哉》(永井荷風)




みんなは盗み見るんだ
たしかに母は陽を浴びつつ
大睾丸を召しかかえている
……
ぼくは家中をよたよたとぶ
大蚊[ががんぼ]をひそかに好む(吉岡実「薬玉」)

ーー「蚊居肢」の起源は、荷風と吉岡のこの二つの詩にある。人は、20世紀後半の日本最高の詩人吉岡実が、ハンス・ベルメールだけではなく日活ロマンポルノの愛好者であったことを知らねばならない。

吉岡にはルーチョ・フォンタナLucio Fontanaへの愛もあった。




もし〈あなた〉に欲望があるなら、フェティシストである。

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan, S10、16 janvier l963)

ラカンは男のリーベ(愛+欲望)の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女のリーベ(愛+欲望)の《被愛マニア形式 la forme érotomaniaque》(Lacan, E733)とは言っている。

だがこれは「女は存在自体がフェティシストである」と読まねばならない、なぜなら欲望の欲望のシニフィアン(想像的ファルス=フェティッシュ)として、自らを現わすのだから。

女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装性 mascarade féminine と呼ぶことのできるものの彼方 au-delà に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958)

結局、この図に「ほとんど」尽きるのである(参照:男女間の去勢の図)。





だが、肝腎なのは例外はあるのか、ということである。それを問い続けているのが「蚊居肢」散人である。

現在のラカン派は「自ら享楽する身体」を強調しているが、ここにひとつの鍵があるはずである。

・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)

しかしボクの素朴なアタマでは、次のものこそ自ら享楽する身体=女性の享楽ではないか、とふと考えてしまう。




こんなことぐらい、男性諸君のほうがよりいっそう頻繁にやっているはずである。

女性たちのなかにも、ファルス的な意味においてのみ享楽する女たちがいる。このファルス享楽は、シニフィアンに、象徴界に結びつけられた、つまり去勢(ファルスの欠如)に結びつけられた享楽である。この場所におけるヒステリーの女性は、男に囚われたまま、男に同一化したままの(男へと疎外されたままの)女である。…彼女たちはこの享楽のみを手に入れる。他方、別の女たちは、他の享楽 l'Autre jouissance 、女性の享楽jouissance féminineへのアクセスを手に入れる。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

それとも女たちのアレは男の場合とぐあいが異なるのであろうか。それは永遠の謎である。



具体的にいえば、マスタベーションにおいて(ほとんどの場合)男は女をなんらかの形では幻想しているだろう。だが女の場合、男を幻想しているのだろうか。ひょとして別の女になっている場合があるのではなかろうか?

古典的に観察される男性の幻想は、性交中に別の女を幻想することである。私が見出した女性の幻想は、もっと複雑で理解し難いものだが、性交中に別の男を幻想することではない。そうではなく、その性交最中の男が彼女自身ではなく別の女とヤッテいることを幻想する。その患者にとって、この幻想がオーガスムに達するために必要不可欠だった。…

この幻想はとても深く隠されている。男・彼女の男・彼女の夫は、それについて何も知らない。彼は毎晩別の女とヤッテいるのを知らない…これがラカンが指摘したヒステリー的無言劇である。その幻想ーー同時にそのように幻想することについて最も隠蔽されている幻想は(女性的)主体のごく普通の態度のなかに観察しうるがーーそれを位置付けるのは容易ではない。(ミレール、Jacques-Alain Miller「幻想の公理 The Axiom of the Fantasm」1994) 

ああ、まったく男には太刀打ちできない世界である。




ファルスとしての女は、他者の欲望 désir de l'Autre へと彼女の仮装 mascarade を提供する。女は欲望の対象の見せかけを装い fait semblant、そしてその場からファルスとして自らを差し出す。女は、自らが輝くために、このファルスという欲望の対象を体現化することを受け入れる。しかし彼女は、完全にはその場にいるわけでない。冷静な女なら、それをしっかりと確信している。すなわち、彼女は対象でないのを知っている elle sait qu'elle n'est pas l'objet。もっとも、彼女は自分が持っていないもの(ファルス)を与えることに戯れるかもしれない elle puisse jouer à donner ce qu'elle n'a pas。もし愛が介入するなら、いっそうそうである。というのは、彼女はそこで、罠にはまることを恐れずに、他者の欲望を惹き起こす存在であることを享楽しうる jouissant d'être la cause du désir de l'autre から。彼女の享楽が使い果たされないという条件のもとでだが。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

しばしば女たちは、男は女をモノ扱いすると言って批判する。アタシたちがもともているのは関係性なのに、と(フェミニストたちの常套句)。 だが女たちこそ男のまえにモノ(欲望の対象=想像的ファルス phallus imaginaire [φ]=みせかけsemblantの対象a)として現われるという「女性の仮装性mascarade féminine」の本質的習慣があるのをまず認めなければならない。問いはそこから始まる。

女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)
我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](ジャック=アラン・ミレール 、Des semblants dans la relation entre les sexes、1997)

ーーこのミレール の言っている見せかけsemblantとは、もちろんフェティッシュ[φ]のことでもある。そして無とは、[- φ]である。


対象aの中心には、− φ (去勢)がある au centre de l'objet petit a se trouve le − φ、⋯他方、対象aとは、フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche でもある。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993ーー男女間の去勢の図

すなわち、《対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。》(ジジェク, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016、pdf)

そして、

我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 (ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexesーー「イマージュの背後の無」)

なぜ、女たちの方が無と接近しているのだろうか。それはもはやいうまでもない。フォンタナ問題にかかわるにきまっているのである。



男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。⋯⋯

女性の究極的パートナーは、ファルスの彼岸にある女性の享楽 jouissance féminine の場処としての、孤独自体である。 ( ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012ーー女性の究極的パートナーは孤独である