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2018年7月26日木曜日

ベルトルッチと女

人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib(フロイト『ナルシシズム入門』1914)

⋯⋯⋯⋯

ベルトルッチの『ルナ』(1979)は、『暗殺の森』や『ラストタンゴ・イン・パリ』や『1900年』などと同じ名カメラマン・ヴィットリオ・ストラーロ Vittorio Storaroの撮影にもかかわらず、わたくしにはそれらの作品ほど美しいシーンを見出せない。

でもひどく精神分析的に解釈されうる作品だ、むしろ図式的すぎるくらい。まず冒頭に母という「誘惑者」が現れる。

ーーベルトルッチの作品でときにドキッとするのは、羊水がひょっとしたらあんな音がするのではないかと感じられてしまう、皮膚にへばりつくようなピチャピチャとした音の使い方だ。

 


母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年、私訳)

そしてこの母は、《女と猫は呼ぶ時にはやって来ず、呼ばない時にやって来る》(メリメ『カルメン』)ようにして行ったり来たりする。

行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?(ラカン、セミネール5、15 Janvier 1958)
(最初期の母子関係において)、母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?…母は崩落するdéchoit……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能の母 omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、セミネール4、12 Décembre 1956)




母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への隷属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)

『ルナ』の中盤から後半にかけて、次の二つの映像が現れる。




ああ、詩人として出発した愛すべき「倒錯者」ベルトルッチ。

たとえば父の詩の中に、母のことをうたったものがあって「きみは、庭の奥に咲き残った最後の白い薔薇だ、そこに蜜蜂が訪れて⋯⋯⋯」といった詩句を読んで私が庭の奥に行ってみると、そこに本当に薔薇の花が白く咲き残っていて、蜜蜂が舞っている、と、そんな世界の中に私は育ったのです。私が詩として読んでいたものと現実との間には、いつも対応関係があった。ごく自然にそうした対応があって、妙な修辞学的な装飾とか、ミスティフィケーションなどは何もなかった。

そこで、十四か五になったころ、私は、余儀なく詩人にならざるをえなくなっている状況に反発して、映画の方に進んだのです。(⋯⋯)

私にとって、詩作行為から映画への移行は大そうデリケートな問題でした。ある時期まで詩を書き続けてから映画に進んだのですが、私は、映画が詩的体験にもっとも近いものと確信していたからです。(ベルトルッチーー蓮實重彦インタヴュー1982年『光をめぐって』所収)

亜麻色の蜜蜂よ きみの針が
いかに細く鋭く命取りでも、
私はこのたおやかな籠の上に
レースの夢しか投げかけなかった。

刺せ この胸のみれいな瓢を。
愛の死に、あるいは眠るところを、
ほんの朱色の私自身が
まろく弾む肌にやってくるように!

素早い拷問が大いに必要だ。
生きのよい明確な悪は
眠れる責め苦にはるかに勝る!

この金の小さな警告が
わが感覚を照らさねば
愛は死ぬか眠り込むかだ!

ーーヴァレリー「蜜蜂」(中井久夫訳)





彼の三人の妻と母。

Adriana Asti (? - ?)
Maria Paola Maino(1967 - 1972)
Clare Peploe (1978 - 現在)
Ninetta Giovanardi 母





そしてもちろん1970年前後からドミニク・サンダ(Dominique Sanda)という「女神」がいた。



フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明することさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme,。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン、S23、11 Mai 1976)