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2018年7月12日木曜日

男女間の去勢の図

イマージュの背後の無」で、ラカンのセミネールⅩ「不安」にある次の二図を示した。





− φ、すなわち去勢は、象徴的去勢、想像的去勢、そしてあまり語られないが現実界的去勢がある。

象徴的去勢とは、言語の世界に入ることで、身体と切り離されることである。

ーーラカンには、(a)mur(愛-壁)という造語があるが、この《(a)murとは、男女のあいだには、壁がある。言語の壁がある》という意味である(コレット・ソレール、2009)

想像的去勢とは、「おちんちんを切ってしまうぞ」のたぐい以外に、ファルスのゲシュタルトの有無にかかわる。

ファルスのゲシュタルトは、その徴がなされているか、徴がなされていないかとしての両性を差異化する機能を果たすシニフィアンを人間社会に提供する。(Safouan , Lacaniana: Les séminaires de Jacques Lacan,)

現実界的去勢とは、原初の母Aとの分離である(参照:三種類の原抑圧)。このあたりはラカン派プロパーでも分かっていない人が多いが(参照)。


さて冒頭に示した図の二番目のほうは、日本語で書き直せば次のようになる。





この図は、男女間の愛の関係を考える上で限りなく役に立つ(もっともラカン派でこの図を使って説明している人は知らない)。

まず最も基本的には次のことにかかわる、としてわたくしは読む。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。(ジャック=アラン・ミレール,2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller)


標準的な男はこの女性的ポジションを引き受けない。いやそもそも後期資本主義(市場原理主義・新自由主義)の時代のディスクール環境に育った主体は、おおむね男女ともに、去勢の排除(あるいは否認)がある。

資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972ーー資本の言説と〈私〉支配の言説)

だがいまはこれいついては触れずに、より一般論としての男性のフェティッシュ形式と女性の被愛マニア形式について記す。

男のリーベ(愛+欲望)の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女のリーベ(愛+欲望)の《被愛マニア形式 la forme érotomaniaque(Lacan, E733

男は基本的にフェティッシュ形式の愛なのである。そして女は自らをフェティッシュとして装うのである。

ラカンの定式において、フェティシストの対象は、−φ (去勢)の上の「a」である。すなわち去勢の裂け目を埋め合わせる対象a である。(a/−φ)(ジジェク『パララックス・ヴュ―』2006,私訳)

a/−φ の「a」とは、「見せかけ semblant の対象a」、 「まがいの対象a[(a) postiche」(囮 appâtの対象a)のことである。

まがいの対象aとは、フェティッシュ、あるいは想像的ファルスphallus imaginaire[φ]のことでもある。したがって、「a/−φ」は、「φ/−φ 」と書かれたりもする。

次の「女性の仮装性」をめぐる文のファルスとは想像的ファルス[φ]のことである。

女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装性 mascarade féminine と呼ぶことのできるものの彼方 au-delà に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958)

※ より詳しくは、「女性は存在自体がフェティシストである」を参照のこと。

したがって先ほどの図の実際は、次のようになる。




くりかえせば「φ/−φ 」は「a/−φ」でもよい。分子はヴェール、囮、スクリーンである。

セミネール4において、ラカンは、この「無 rien」に最も近似している 対象a を以って、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに、彼は後年、対象aの中心には、− φ (去勢)がある au centre de l'objet petit a se trouve le − φ、と言うのである。そして、対象と無 l'objet et le rien があるだけではない。ヴェール le voile もある。したがって、対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche である。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993)
対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(⋯⋯)

欲望「と/あるいは」欲動が循環する穴としての対象a、そしてこの穴埋めをする人を魅惑要素としての対象aがある。…したがって人は、魅惑をもたらすアガルマの背後にある「欲望の聖杯 the Grail of desire」・アガルマが覆っている穴を認めるために、対象a の魔法を解かねばならない(この移行は、ラカンの性別化に式にある、女性の主体のファルスΦからS(Ⱥ)への移行と相同的である)。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016、pdf)


穴としての対象aは、原対象aとも呼ばれる。そして囮としての対象aは、原対象aの昇華である。

ラカンの昇華の諸対象 objets de la sublimation。それらは付け加えたれた対象 objets qui s'ajoutent であり、正確に、ラカンによって導入された剰余享楽 plus-de-jouir の価値である。言い換えれば、このカテゴリーにおいて、我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体と身体にとって喪われたものからくる諸対象 objets qui viennent du corps et qui sont perdus pour le corps を持っているだけではない。我々はまた原初の諸対象 premiers objets を反映する諸対象 objets を種々の形式で持っている。問いは、これらの新しい諸対象 objets nouveaux は、原対象a (objets a primordiaux )の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre May 2013)

この意味で、「φ/−φ 」や「a/−φ」は、a/aとも書きうる。分母が原対象aで、分子が囮の対象aである。

⋯⋯⋯⋯

ここで冒頭に示した一番目の図に戻ろう。




人間にとって最初の大他者Aは何か? 

大他者の最初の形象は、母である。したがって、「大他者はない there is no big Other」の最初の意味は、「母は去勢されている mother is castrated」である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

母の去勢をめぐってフロイトは次のように記している。

人間の最初の不安体験は、出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

ラカンが次のように言っているのも同じことである。

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を象徴する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. (ラカン、S11, 20 Mai 1964)

ここでの「喪われた対象」こそ、原対象aである。

ーーこの胎盤の喪失については、1975年にも「胎盤」以外に「臍の緒 cordon ombilical 」という表現を使いつつ、ほとんど同じことを言っているのを「原初のおとしモノは、最初のおとしモノではない」でみた。


さて、上に《「大他者はない there is no big Other」の最初の意味は、「母は去勢されている mother is castrated」である》(ジジェク、2012)と引用したが、ここでラカン自身から引こう。

大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ). (ラカン、S24, 08 Mars 1977 )

Ⱥとは、なによりもまず、《大他者のなかの穴 trou dans l'Autre》(ミレール、2007)という意味であり、それを徴示するのが、S(Ⱥ)である。

Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)

したがって今示してきた「トーラス円図」は、たとえば次のように書かれたりする(ポール・バーハウ、2011)。




⋯⋯⋯⋯


ところでラカンはなぜ大他者のポジションに「女」を代入したのだろうか? 種々の解釈がありうるが、わたくしはまず後年の次の文とともに読んでみることにする。

私は強調する、女というものは存在しないと。それはまさに「文字」である。女というものは、 大他者はないというシニフィアンS(Ⱥ)である限りでの「文字」である。

…La femme … j'insiste : qui n'existe pas …c'est justement la lettre, la lettre en tant qu'elle est le signifiant qu'il n'y a pas d'Autre. [S(Ⱥ)]. (ラカン、S18, 17 Mars 1971)

いや、この文について書き出すと長くなりすぎて、(ここでの)要点を失う。また安易に記すと、女性からの反発があるだろう。ここでは「イマージュの背後の無」から、次の二文だけを引用しておくのみにする。

女というものは存在しない。だが女たちはいる la Femme n'existe pas, mais il y a des femmes。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING, 2012)
「女というものは存在しない La femme n’existe pas」とは、女というものの場処 le lieu de la femme が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のまま lieu demeure essentiellement vide だということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会う rencontrer quelque chose ことを妨げはしない。(ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexes)

では、次のものならどうか。

quoad matrem(母として)、すなわち《女 la femme》は、性関係において、母としてのみ機能する。…quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère ». (ラカン、S20、09 Janvier 1973)

フロイトによれば、女性には「母との同一化 Mutteridentifizierung」がある(『女性の性愛』1931)

この同一化は、フロイトにおいては二種類ある。想像的同一化、象徴的同一化である。前者の想像的同一化とは、母の欲望の対象(想像的ファルス)になることで、これは最初期には両性ともに起る(ラカン的には、これ以外に現実界的同一化、すなわち原症状(サントーム)との同一化があるが、その議論はいまは割愛する)。

男の場合は後に(フロイトの観点では)父との同一化Vateridentifizierungが標準的には生じる。この「父」は、第三者ということであり、実際の父でなくてもよい。「父」とは法でも、祖母でも、さらには芸術家や作家でもよいのである。

父との同一化が起らない男性の主体とは、たとえば倒錯者である。

倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存、すなわち母の欲望への欲望によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 (想像的ファルス)と同一化 s'identifie à l'objet imaginaire することにある。(ラカン、エクリ、E.554、摘要訳)

もっとも後年のラカンは「父との同一化」をする標準的な神経症の主体を「父の版の倒錯者」と呼んでいる、

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme …これを「père-version」と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
…結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール2009、Lacan, L'inconscient Réinventé) 

他方、女性における母との象徴的同一化とは、母の場に同一化することである。この母の場との同一化は、自らを母の場におき、父から愛される、あるいは母が自分を愛したように自分を愛する機能がある。

そして、

母との同一化は、母との結びつきの代替となりうる。Die Mutteridentifizierung kann nun die Mutterbindung ablösen.(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

多くの女性が母離れをしているようにみえるのは、この理由によるところが大きい。本来の男女両性の根源的愛の対象は母であるにもかかわらず。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、彼(女)を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源があるdie Liebe entsteht in Anlehnung an das befriedigte Nahrungs-bedürfnis。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。その母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年、私訳)

ラカンが次のように言っている意味はこのフロイトの記述にかかわる(すくなくともその核心のひとつは)。

定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)

他方、多くの男性は「乳離れ」がなされていない(すくなくとも「無意識」的には歴然としている)。

母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への隷属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)

母との同一化の話に戻れば、これは男性の同性愛者においても起こる。

(男性の同性愛者において)母親への愛は子供のそれ以後の意識的な発展と歩みをともにしない。それは抑圧の手中に陥る。子供は自分自身を母の位置に置き、母と同一化 Mutter identifiziert し、彼自身をモデルVorbildにして、そのモデルに似た者から新しい愛の対象を選ぶことによって、彼は母親への愛を抑圧する verdrängt die Liebe zur Mutter。このようにして彼は同性愛者になる。

いや実際には、彼はふたたび自己愛 Autoerotismus に落ちこんだというべきであろう。というのは、いまや成長した彼が愛している少年たちとは結局、幼年期の彼自身ーー彼の母親が愛したあの少年ーーの代理 Ersatzpersonenであり更新 Erneuerungen に他ならないのだから。

言わば少年は、愛の対象Liebesobjekteをナルシシズムの道 Wege des Narzißmusの途上で見出したのである。ギリシア神話は、鏡に写る自分自身の姿以外の何物も気に入らなかった若者、そして同じ名の美しい花に姿を変えられてしまった若者をナルキッソスNarzissusと呼んでいる。(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910)

男の同性愛者と女たちは、基本的には「母との同一化」仲間なのであり、おそらくそのせいで、気が合うことが多いのではないか。

フロイトのナルシシズム論文にはこうある。

人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib(フロイト『ナルシシズム入門』1914)

母との同一化によって、ナルシシストになる可能性はひどく高い。これは構造的な帰結であり、なにも問題はないが、ただ一般にはそのことの自覚の有無の問題はあるかもしれない。

⋯⋯⋯⋯

最後にもう一度冒頭の図に戻ろう。



主体$側に、ラカンが男性を代入した理由はなぜか? 



ここでは詳細は割愛していくらかの引用の列挙だけにしておく(参照)。

厳密な分析的観点からは、事実上、一つの性あるいはセクシャリティしかない。(⋯⋯)
性は二つではない。セクシャリティは二つの部分に分かれない。一つを構成するのでもない。セクシャリティは、「もはや一つではない no longer one」と「いまだ二つではない not yet two」とのあいだで身動きがとれなくなっている。(ジュパンチッチ 2011、Alenka Zupančič Sexual Difference and Ontology
性関係において、二つの関係が重なり合っている。両性(男と女)のあいだの関係、そして主体と⋯その「他の性」とのあいだの関係である。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING、2012)
「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である。 (ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm)