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2018年7月11日水曜日

原初のおとしモノは、最初のおとしモノではない

以下、「原初のおとしモノ」の続き


かなしみ 谷川俊太郎

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった


(ラカン、セミネール10)


とんでもないおとしモノのせいで空虚 vide があるのである。そして最初の大他者 Autreとは、母である。

とはいえ、原初のおとしモノは、最初のおとしモノではない。

原初 primaire は…最初ではない pas le premier。(ラカン、S20、13 Février 1973)

人は、原初のおとしモノを、覚えているわけはない。だから《何かとんでもないおとし物を/僕はしてきてしまったらしい》である。

原初に把握されなかった何ものかは、ただ事後的にのみ把握される。quelque chose qui n'a pas été à l'origine appréhendable, qui ne l'est qu'après coup (ラカン、S7、23 Décembre 1959)
人は常に次のことを把握しなければならない。すなわち、各々の段階の間にある時、外側からの介入によって、以前の段階にて輪郭を描かれたものを遡及的rétroactivementに再構成するということを。il s'agit toujours de saisir ce qui, intervenant du dehors à chaque étape, remanie rétroactivement ce qui a été amorcé dans l'étape précédente (ラカン、S4、13 Mars 1957)

ーー事後的 après coup 、遡及的 rétroactivementとあるが、同じ意味である。


とはいえこれはどういうことか?

最も簡潔に言えば、

潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ現勢化されうる。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness, 2007)

臨床家的に言えば、

原対象aから身体へ、自我へ、主体へ、そしてジェンダーへ、しかし後向きの配列で。すなわち、「以前」は遡及的に存在するようになる。「次」ーーそのなかに「以前」が外立ex-sistする、「次」から始めて。

「原初」要素は、「二次」要素によって、遡及的に輪郭を描かれる。この「二次」要素のなかには「原初」が含まれている、「異物」としてだが。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001)

※異物 Fremdkörperについては、 「侵入・刻印・異物」を参照。


フロイトを引用すれば、

経験された無力の(寄る辺なき)状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ。…そしてこの今、無力の状況に遭遇した時、昔に経験した外傷経験 traumatischen Erlebnisseを思いださせる。(フロイト『制止、症状、不安』1926)

ーーこれは究極的には、事故的トラウマに遭遇すれば、原初の構造的トラウマにかかわる何ものかを想起する(場合がある)ということである。

…生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

たとえば何らかの衝撃的な被災に遭遇したら、母との分離に代表される幼児期の「寄る辺なさ」を「遡及的に」思い起こす(場合がある)という考え方である。事実、地震被災者たちのあいだでエロス感情が高まるのはよく知られている。それは究極的には「愛されたいという要求」であるだろう、 《愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé 》(ラカン、S11, 17 Juin 1964)

我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、性的ー欲動的トラウマ(構造的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(ポール・バーハウ、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN、1998)
最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年初出『日時計の影』所収)


ところで原初のおとしモノの「モノ」とは、より具体的には何か?

(フロイトによる)モノ、それは母である。das Ding, qui est la mère,(ラカン、S7 、16 Décembre 1959 )

フロイトにとって「喪われた対象 verlorenen Objekt」の原初にあるものは、母との分離である。

人間の最初の不安体験は、出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

モノ=母と、ラカンは口走っているが、実際はすこし違う。

モノChoseは常にどういうわけか空虚videによって表象される。…いやさらに厳密に言えば、モノは、他のモノ autre chose によってのみ表象される。(S7、03 Février 1960 )

ーーラカンは後年、この「他のモノ autre chose 」に相当するものを、« 無物 achose »と言っている(S17、09 Avril 1970)。肝腎なのはモノ=無物=原対象aである。

セミネール4において、ラカンは、この「無 rien」に最も近似している 対象a を以って、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに、彼は後年、対象aの中心には、− φ (去勢、母の去勢)がある au centre de l'objet petit a se trouve le − φ、と言うのである。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993)

※参照:イマージュの背後の無

欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose(ラカン、E853、「フロイトの〈欲動〉と精神分析家の欲望について Du «Trieb» de Freud et du désir du psychanalyste」1964)
親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

ーー要するにモノ=原対象a=穴である。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

ところでラカンは、原初のおとしモノは、胎盤であると繰り返している。

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を象徴する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. (ラカン、S11, 20 Mai 1964)
・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。

・人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。(ラカン、1975, Strasbourg)

とはいえ、胎盤や臍の緒ではあまりに具体的すぎる。だからおとしモノで穴が空いた、去勢されたでよいのである。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
すべての話す存在 tout être parlantにとっての原去勢 castration fondamentale、対象aによって徴づけられた− φ (去勢 moins phi)。(ミレール Jacques-Alain Miller Première séance du Cours 2011)

この原去勢の穴により、子宮内の母子融合という原享楽ーーあくまでフロイトやラカンによればだがーーは、廃墟となるのである。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

ただし繰り返せば、フロイトの核心概念「遡及性 Nachträglichkeit」を忘れてはならない。