言葉を好きだと思ったこともない
恥ずかしさの余り総毛立つ言葉があるし
透き通って言葉であることを忘れさせる言葉がある
そしてまた考え抜かれた言葉がジェノサイドに終ることもある
ーー谷川俊太郎「鷹繋山」
「ナチの音楽、あるいは我々にとっての音楽と詩」で引用するのを失念したな、この詩。
ところでそこで全文引用した「詩の擁護又は何故小説はつまらないか」は、自ら凡人と称する谷川の、実にいい詩だ。「路地の奥」、あるいは「柿の木」だよ、人の生で肝腎なのは。
詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ
小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る
のも分からないではないけれど
小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で
抜け穴を掘らせようとする
だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、
子どものころ住んでいた路地の奥さ
そこにのほほんと詩が立ってるってわけ
柿の木なんぞといっしょに
ごめんね
ーー谷川俊太郎「詩の擁護又は何故小説はつまらないか」
小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る
のも分からないではないけれど
小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で
抜け穴を掘らせようとする
だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、
子どものころ住んでいた路地の奥さ
そこにのほほんと詩が立ってるってわけ
柿の木なんぞといっしょに
ごめんね
ーー谷川俊太郎「詩の擁護又は何故小説はつまらないか」
「路地の奥」や「柿の木」は、谷川俊太郎の詩の初期から、そのヴァリエーションがある。たとえば、たしか10代のときに書かれた、あの名高い「かなしみ」。
あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい
透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった
最近でもこの「おとし物」は次のような形で現れる。
ふっと沈黙が訪れたときに
忘れ物をしてきたことに気づく
何かをどこかに置いてきてしまった
ーー谷川俊太郎「読まない」『詩に就いて』、2015年
「ふっと沈黙が訪れたとき」とは、ニーチェの「最も静かな時刻」だ。
きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。
……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1884年)
死の年のデリダの、限りなく美しい注釈がある。
最も静かな時刻は語る。私に語る。私に向けて。それは私自身である。私の時間。私の耳のなかでささやく。それは、私に最も近い plus proche de moi。私自身であるかのようにcomme en moi。私のなかの他者の声のようにcomme la voix de l'autre en moi。他者の私の声のように comme ma voix de l'autre。
そしてその名、この最も静かな時刻の名は、《わたしの恐ろしい女の主人》である。(デリダ、2004, Le souverain bien – ou l’Europe en mal de souveraineté La conférence de Strasbourg 8 juin 2004 JACQUES DERRIDA)
中井久夫の「発達的記憶論ーー外傷性記憶の位置づけを考えつつ」初出2002年(『徴候・記憶・外傷』所収)のエピグラフにはこうあるけどさ
海の神秘は浜で忘れられ、
深みの暗さは泡の中で忘れられる。
だが、思い出の珊瑚はにわかに紫の火花を放つ。
ーーヨルゴス・セフェリス(中井久夫訳)
いま列挙した詩群は、ほとんど同じことを言っているーーいや「におわせている」--と感じない人は、言葉の図式的使用のみに専念している人だよ
谷川俊太郎の「何かとんでもないおとし物」とは(究極的には)「原初に喪わた対象」(原対象a)のことさ
詩的感性から限りなく遠く離れている、たとえば神経症圏に居座り続けている人たちは、「まがいの対象a」に汲々としているだけさ。
囮の背後にある穴、あるいは空虚としての対象aを感知するためには、詩人もしくは女にならなくちゃな。
深みの暗さは泡の中で忘れられる。
だが、思い出の珊瑚はにわかに紫の火花を放つ。
ーーヨルゴス・セフェリス(中井久夫訳)
いま列挙した詩群は、ほとんど同じことを言っているーーいや「におわせている」--と感じない人は、言葉の図式的使用のみに専念している人だよ
私にとって、詩とは言語の徴候的使用であり、散文とは図式的使用である。詩語は、ひびきあい、きらめき交わす予感と余韻とに満ちていなければならない。私がエリティスやカヴァフィスを読み進む時、未熟な言語能力ゆえに時間を要する。その間に、私の予感的な言語意識は次の行を予感する。この予感が外れても、それはそれで「快い意外さ la bonne surprise」がある。詩を読む快楽とは、このような時間性の中でひとときを過ごすことであると私は思う。(中井久夫「私と現代ギリシャ文学」)
谷川俊太郎の「何かとんでもないおとし物」とは(究極的には)「原初に喪わた対象」(原対象a)のことさ
何かが原初に起こったのである、それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、「A」の形態 la forme Aを 取るような何かのの内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…
フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
やっぱり「詩人」じゃないとな、ボクには一年に一、二度だけ「最も静かな時刻」が訪れるだけだけど。
私は詩人ではない、だが私は詩である。je ne suis pas un poète, mais un poème.》 (ラカン、AE572、17 mai 1976)
ポエジー poésie だけだ、解釈を許容してくれるのは。Il n'y a que la poésie - vous ai-je dit - qui permette l'interprétation (ラカン、S24、17 Mai 1977)
詩的感性から限りなく遠く離れている、たとえば神経症圏に居座り続けている人たちは、「まがいの対象a」に汲々としているだけさ。
・神経症者は不安に対して防衛する。まさに「まがいの対象a[(a) postiche]」によって。défendre contre l'angoisse justement dans la mesure où c'est un (a) postiche
・(神経症者の)幻想のなかで機能する対象aは、かれの不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮 appâtである。Cet objet(a) fonctionnant dans leur fantasme… et qui sert de défense pour eux contre leur angoisse …est aussi - contre toute apparence - l'appât avec lequel ils tiennent l'autre(ラカン、S10, 05 Décembre l962)
囮の背後にある穴、あるいは空虚としての対象aを感知するためには、詩人もしくは女にならなくちゃな。
対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(⋯⋯)
欲望「と/あるいは」欲動が循環する穴としての対象a、そしてこの穴埋めをする人を魅惑要素としての対象aがある。…したがって人は、魅惑をもたらすアガルマの背後にある「欲望の聖杯 the Grail of desire」・アガルマが覆っている穴を認めるために、対象a の魔法を解かねばならない(この移行は、ラカンの性別化に式にある、女性の主体のファルスΦからS(Ⱥ)への移行と相同的である)。(ジジェク, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016)
我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)