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2018年7月8日日曜日

ナチの音楽、あるいは我々にとっての音楽と詩





音楽はひとを戦いに駆り立て
民族主義に引き込むこともある
音楽は人びとの感じ方に影響をあたえることができる
だから
あなたには責任があります(ダライラマ→ 高橋悠治)

―― (高橋悠治「音の静寂静寂の音」)


Adieu au Langage (2014)→Notre musique (2004)→Allemagne 90 neuf zéro (1991)

イギリスの傑出したワグネリアンであるジョン・デスリッジは、かつて次のような注目すべき事実を強調した。ヒトラーが好んだワーグナーのオペラは、露骨にドイツ的な《マイスタージンガー》でも、東方の野蛮な遊牧民からドイツを防衛するために武器を取ることを訴える《ローエングリン》でもなく、名誉や恩義などの象徴的義務にみちた日々の生活という昼を捨て去り、人を夜に埋没させて自己の死を恍惚として受容させる傾向をもつ《トリスタン》だった、ということである。キルケゴール流に言うならば、この「政治的なものの美的な宙吊り」こそが、まさにナチのとった態度の背景としてのファンタスムの中核を成すのだが、そこで重要であったのは何か政治以上のもの、美的なものと化して人を恍惚に誘うある共同体的体験であり、その典型的な例としてニュルンベルクの政治集会で夜な夜な行なわれた儀式をあげることができるだろう。(ジジェク「『アンダーグラウンド』、あるいは他の手段による詩の継続としての民族浄化」)





音楽は一見いかに論理的・倫理的な厳密なものであるにせよ、妖怪たちの世界に属している、と私にはむしろ思われる。この妖怪の世界そのものが理性と人間の尊厳という面で絶対的に信頼できると、私はきっぱりと誓言したくはない。にもかかわらず私は音楽が好きでたまらない。それは、残念と思われるにせよ、喜ばしいと思われるにせよ、人間の本性から切り離すことができない諸矛盾のひとつである。(トーマス・マン『ファウスト博士』)

《美は、欲望の宙吊り・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.》(ラカン、S7、18 Mai 1960 )


⋯⋯⋯⋯

感覚的刺戟と感動とを問題にするならば、言語芸術のうちで最も詩に近く、またこれと自然的に結びつく芸術即ち音楽を詩の次位に置きたい。音楽は確かに概念にかかわりなく、純然たる感覚を通して語る芸術である、従ってまた詩と異なり、省察すべきものをあとに残すことをしない、それにも拘らず音楽は、詩よりもいっそう多様な仕方で我々の心を動かし、また一時的にもせよいっそう深い感動を我々に与えるのである( …)これに反しておよそ芸術の価値を、それぞれの芸術による心的開発に従って評価し、また判断力において認識のために合同する心的能力〔構想力と悟性〕の拡張に基準を求めるならば、すべての芸術のうちで音楽は最低の(しかし芸術を快適という見地から評価すれば最高の)地位を占めることになる…(カント『判断力批判』篠田英雄訳)


詩はなんというか夜の稲光りにでもたとえるしかなくて
そのほんの一瞬ぼくは見て聞いて嗅ぐ
意識のほころびを通してその向こうにひろがる世界を

ーー谷川俊太郎「理想的な詩の初歩的な説明」より


だが自分の詩を読み返しながら思うことがある
こんなふうに書いちゃいけないと
一日は夕焼けだけで成り立っているんじゃないから
その前で立ちつくすだけでは生きていけないのだから
それがどんなに美しかろうとも

ーー谷川俊太郎「夕暮れ」『世間知ラズ』所収)


散文をバラにたとえるなら
詩はバラの香り
散文をゴミ捨場にたとえるなら
詩は悪臭

ーー谷川俊太郎「北軽井沢語録」より





私はただかっこいい言葉の蝶々を追っかけただけの
世間知らずの子ども
その三つ児の魂は
人を傷つけたことも気づかぬほど無邪気なまま
百へとむかう

詩は
滑稽だ

ーー谷川俊太郎「世間知ラズ」  


⋯⋯⋯⋯

詩の擁護又は何故小説はつまらないか  谷川俊太郎

ーー「詩は何もしないことで忙しいのです」ビリー・コリンズ(小泉純一訳)


初雪の朝のようなメモ帳の白い画面を
MS明朝の足跡で蹴散らしていくのは私じゃない
そんなのは小説のやること
詩しか書けなくてほんとによかった

小説は真剣に悩んでいるらしい
女に買ったばかりの無印のバッグをもたせようか
それとも母の遺品のグッチのバッグをもたせようか
そこから際限のない物語が始まるんだ
こんぐらかった抑圧と愛と憎しみの
やれやれ

詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ
小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る
のも分からないではないけれど

小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で
抜け穴を掘らせようとする
だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、
子どものころ住んでいた路地の奥さ

そこにのほほんと詩が立ってるってわけ
柿の木なんぞといっしょに
ごめんね

人間の業を描くのが小説の仕事
人間に野放図な喜びをもたらすのが詩の仕事
小説の歩く道は曲がりくねって世間に通じ
詩がスキップする道は真っ直ぐ地平を越えて行く

どっちも飢えた子どもを腹いっぱいにしてやれないが
少なくとも詩は世界を怨んじゃいない
そよ風の幸せが腑に落ちているから
言葉を失ってもこわくない

小説が魂の出口を探して業を煮やしてる間に
宇宙も古靴も区別しない呆けた声で歌いながら
祖霊に口伝えされた調べに乗って詩は晴れ晴れとワープする

人類が亡びないですむアサッテの方角へ