2018年7月13日金曜日

享楽の主体、欲動の主体、妄想の主体、幻想の主体

男女間の去勢の図」の続き(引用は重なるところがある)。

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ラカンには「享楽の主体 le sujet de la jouissance」、「欲動の主体 le sujet de la pulsion」という表現があるが、現在、ラカン注釈者のあいだではほとんど使われない。例えば、ジャック=アラン・ミレールはこう言っている。

「享楽の主体 」という表現は用心して使わなければならない。私が知る限り、ラカンは一度しかその表現を使用してない。問題はまさに享楽の主体のようなものがあるのかどうかだ。差し当たって、我々が知っていることの全ては、まさに問題含みの幻想のなかの主体の位置である。(ミレール、The Axiom of the Fantasm Jacques-Alain Miller、1994)

なぜか? おそらく主体という語が、ラカンの定義上、享楽や欲動とは合致しないからである。

S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。 (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

要するに、ラカンにとって主体とは、言語によって分割された「欲望の主体」(実質上、幻想の主体)である。

欲望の主体はない il n 'y a pas de sujet du désir。あるのは幻想の主体 Il y a le sujet du fantasme である。 ( ラカン、REPONSES A DES ETUDIANTS EN PIDLOSOPFIE,1966)

だがここでは、敢えて危険をおかしてーーそしてひとつのモデルを提示する試みとしてーー、「享楽の主体」、「欲動の主体」という表現を使ってみることにする。

⋯⋯⋯⋯

【享楽の主体】

セミネール10「不安」には、一般に「分割の図」と呼ばれる次の図がある。




そしてラカンは次のように言っている。

ここでは神秘的な架空の主体S(原主体 sujet primitif)を「享楽の主体 sujet de la jouissance」と呼ぶ。…

享楽の主体 le sujet de la jouissance は、不安 l'angoisse に遭遇して、欲望の主体(欲望する主体 sujet désirant)としての基礎を構築する。constituer le fondement comme tel du « sujet désirant »、(ラカン、S10、13 Mars 1963)

原初の不安との遭遇は、フロイトにとってもラカンにとっても出生である(出産外傷)。

人間の最初の不安体験は、出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を象徴する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. (ラカン、S11, 20 Mai 1964)

ーーこの胎盤の喪失については、1975年にも「胎盤」以外に「臍の緒 cordon ombilical 」という表現を使いつつ、ほとんど同じことを言っているのを「原初のおとしモノは、最初のおとしモノではない」でみた。


母胎内においては母子融合がある。





上の図を、セミネール10における「分割の図」のマテームで図示すれば、次のようになる。






これが、いわば原初の享楽状態である。もっとも子宮内が快適だとは限っていない。あくまでフロイト・ラカン派的モデルであり、彼らへの批判・批評はここから始まるとさえ言ってよい。

子宮の中は実際にはそれほど居心地がよくなくて、私たちは胎児の時からけっこう不意打ちを食らい、脅え、驚かされているらしいが、理想化され、夢見られている「子宮」は「居心地のよさ」の理想、「フィット・イン」そのものである。

「死」を一種の胎内回帰とするのは、死の理不尽さを和らげようとする人間の夢想である。「死」を一種の「フィット・イン」と夢想し、われわれは「安らかに眠る」ことを死者のために祈る。「小さい死」である眠りの心地よさは翌朝の蘇りに欠かせない。(中井久夫「居心地」 『家族の深淵』所収)

この中井久夫の文は、次のように言っているフロイトへの応答として読める。

誕生とともに、放棄された子宮内生活 Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、すなわち睡眠欲動 Schlaftrieb が生じたと主張することは正当であろう。睡眠は、このような母胎内 Mutterleib への回帰である。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


【欲動の主体】

さてここでは、出生の瞬間、「享楽の主体」は、「欲動の主体」(=剰余享楽の主体)に変化する、と解釈してみることにする。

その瞬間、欲動の主体になったものによる苦痛の可能性 La possibilité de la douleur subie par ce qui est devenu, à ce moment-là, le sujet de la pulsion. (ラカン、S11、13 Mai 1964)

ーー欲動の主体をめぐって、ラカンは「無頭の主体 sujet acéphale」とも言っている。

上の文に「苦痛の可能性」とあるが、フロイトにとって最初期の『科学的心理草稿』(1895年)以来、人間の発達の出発点は、原初の不快経験、苦痛 (Schmerz)である。

ところで、ラカンの欲動の定義のひとつは「享楽の漂流」である。

私は…欲動Triebを、享楽の漂流 la dérive de la jouissance と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)

あるいは、《われわれの享楽のさまよい égarement de notre jouissance》(ラカン、Télévision 、Autres écrits, p.534)

この観点からは、出生とともに「享楽のさまよいの主体」、剰余享楽の主体(欲動の主体)になるのである。

ここでの「主体$」は、言語によって分割された主体ではなく、原主体 sujet primitif(来るべき主体)が、母との分離によって原去勢されたという意味での「斜線を引かれた主体」であることに注意しよう。

すべての話す存在 tout être parlantにとっての原去勢 castration fondamentale、対象aによって徴づけられた− φ (去勢 moins phi)。(ミレール Jacques-Alain Miller Première séance du Cours 2011)

この原去勢により、子宮内の母子融合という原享楽は、廃墟となり、われわれは原享楽をめぐってさまようのである。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)


【トーラス円図】 

ラカン派注釈者たちのあいだで、しばしば図示される次のトーラス円図がある。




この図において、標準的に注釈される主体$は、くりかえせば、「言語によって分割された主体」である。

だが上に示したように、出生・出産という原去勢によって享楽の主体が欲動の主体になるという意味での「斜線を引かれた主体」として捉えてみることもできる。

すなわち原主体Sは、原去勢によって次のようになる。




他方、最初の大他者Aである母も去勢される。すなわち、




Ⱥとは、 《大他者のなかの穴 trou dans l'Autre》(ミレール、2007)という意味である。

Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)

そして、

大他者の最初の形象は、母である。したがって、「大他者はない there is no big Other」の最初の意味は、「母は去勢されている mother is castrated」である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

ようは、今記している観点からの「トーラス円図」は、次のようになる。




こうして原享楽を取り戻そうとする「欲動の主体」(享楽のさまよいの主体)をも示されていると捉えることができる。


【妄想の主体・幻想の主体】

その後、発達段階的に、サントームの主体(原症状の主体)が生まれる。サントームの主体とは、「欲動の固着の主体」である(参照:母による身体上の刻印と距離(サントームをめぐって))。

ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) は Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述される。(ミレール、「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN ,2001)

「欲動の固着の主体」と同じ意味だが、サントームの主体とは、欲動のクッションの綴じ目(原防衛)の主体である(欲動のクッションの綴じ目とは、フロイトの「欲動代理Triebrepräsentanz」概念とほぼ等価だろう、とわたくしは考えている[参照])。

S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(ジャック=アラン・ミレール、L'Être et l'Un 、2011

欲動のクッションの綴じ目とは、欲動の固着のことである。

「一」Unと「享楽」jouissanceとの接合(つながり connexion)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

フロイトにとって抑圧 refoulement は、固着 fixation のなかに根がある。抑圧Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤があるのである。(ミレール2011, L'être et l'un)
固着とは、フロイトが原症状と考えたものであり、ラカン的観点においては、一般的な性質をもつ。症状は人間を定義するものである。そしてそれ自体、修正も治療もできない。これがラカンの最後の結論、すなわち「症状なき主体はない」である。(ポール・バーハウ、他, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq ,2002)

ここで「欲動の固着の主体」(サントームの主体)を「妄想の主体」と呼んでみよう。ある時期のミレールは、サントーム=症状+幻想(《Le sinthome: un mixte de symptôme et fantasme》)と言っているが、ミレールにとって幻想とは妄想のことである(後述)。

そして、

病理的生産物と思われている妄想形成 Wahnbildung は、実際は、回復の試み・再構成である。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察(シュレーバー症例)』 1911年)

かつまた、

最後のラカンにおいて、父の名はサントームとして定義される défini le Nom-du-Père comme un sinthome。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。(ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013)

ようするに妄想の主体とはなによりもまず、トラウマȺに対する原防衛の主体である(ラカンにとって、トラウマとは《穴=トラウマ troumatisme》 (S21、1974 )のこと)。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010)

「倒錯の主体」とは妄想の主体の一変種である(参照)。そして正式に父の名による父性隠喩の世界に入ったとき、人は「幻想の主体」(欲望の主体)となる。

もっとも晩年のラカンにとって、「幻想の主体」とは「妄想の主体」の、これまた一変種である。

私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。… ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的である。(ジャック=アラン・ミレール 、Ordinary psychosis revisited、2009)

とはいえ古典的ラカンの用語遣いにのっとって、発達段階的に底辺の原初から記せば(あくまで粗型モデルだが)、次のように示しうる。




ここで「人はみな妄想する」だけではなく、ラカンの倒錯をめぐる発言を掲げておこう。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme …これを「père-version」と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

この観点からは、幻想の主体(欲望の主体)とは、「父の版の倒錯者」なのである。

…結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール2009、Lacan, L'inconscient Réinventé)


以上、あくまで粗いモデルに則った記述であり、たとえば二種類あるサントームの意味合いをひっくるめて記述している。本来は分けて記すべきだったかもしれないが、それは割愛した(参照:母による身体上の刻印と距離(サントームをめぐって))。

たとえばここでの記述だけでは、サントームの主体と精神病の主体とはどう異なるのか、という疑問が生じるかもしれない。それは[「人はみな妄想する」の彼岸」を参照されたし。

ここではそのなかから一文だけを掲げておこう。以下の「ふつうの精神病 La psychose ordinaire」とは、サントームの臨床にかかわってジャック=アラン・ミレールによって創出された概念である。

「ふつうの精神病」は排除の穴のために可能なる解決法の範囲の拡大化をしてくれる。異常な精神病(従来の精神病)においては、我々は妄想的隠喩 métaphore délirante の形態のなかに穴の修復を見出す。…他方、「ふつうの精神病」においては、ーー根源的単独性における、些少な発明を伴った、修復様式の稀少性を見るときーー、その修復様式は多様化し分散している。

これらの単独的解決法に共通なものは、病状の明白な突発を避けたり引き延ばす、穴の修復という独自な手作りの可能性である。ふつうの精神病であろうが異常な精神病であろうが、我々が常に見出すのは、《恒久化する穴・逸脱・脱接続 un trou, une déviation ou une déconnection qui se perpétue》(ラカン、E577)の指標である。( LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert (2018)

ミレール派のナンバーツーであるエリック・ロランは、「ふつうの精神病」とは「ふつうの妄想」のことだと言っていることを付記しておこう(参照:「ふつうの妄想・ふつうの父の名・原抑圧の時代」)

⋯⋯⋯⋯

【遡及性 Nachträglichkeit】

ここで、「原初のおとしモノは、最初のおとしモノではない」で記したことを繰返しておこう。上図をひも解く上で最も肝腎なのは、次のことである。われわれは言語を使用して生きており、基本的にはみな幻想の主体(欲望の主体)なのだから。

原初 primaire は…最初ではない pas le premier。(ラカン、S20、13 Février 1973)
原初に把握されなかった何ものかは、ただ事後的にのみ把握される。quelque chose qui n'a pas été à l'origine appréhendable, qui ne l'est qu'après coup (ラカン、S7、23 Décembre 1959)
人は常に次のことを把握しなければならない。すなわち、各々の段階の間にある時、外側からの介入によって、以前の段階にて輪郭を描かれたものを遡及的rétroactivementに再構成するということを。il s'agit toujours de saisir ce qui, intervenant du dehors à chaque étape, remanie rétroactivement ce qui a été amorcé dans l'étape précédente (ラカン、S4、13 Mars 1957)

なによりもまず標準的な幻想の主体が、退行するか否か(底辺部に向うことがあるか否か)は、フロイト用語では「刺激保護壁」が厚いか薄いかにかかわっている。

外部から来て、刺激保護壁 Reizschutz を突破するほどの強力な興奮を、われわれは外傷性traumatischeのものと呼ぶ。

外部にたいしては刺激保護壁があるので、外界からくる興奮量は小規模しか作用しないであろう。内部に対しては刺激保護は不可能である。(……)

刺激保護壁Reizschutzes の防衛手段 Abwehrmittel を応用できるように、内部の興奮があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向が生まれる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

もっとも刺激保護壁が厚いとニブイということにはなる。

言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』)

そして刺激保護壁が厚ければ厚いほど、人は「善人」になる。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。(坂口安吾『続堕落論』)
私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。(坂口安吾『蟹の泡』)

自閉症とはーー現代の流行病となっている自閉症ではなく、ラカン派的な自閉症とはーー、「欲動の固着の主体」の審級にある、とわたくしは考えているが、ときに「享楽のさまよいの主体」の側面もあるだろう。欲動の固着とは、欲動の「境界表象」であり、すぐさま下部構造が現われるだろうから。《抑圧(放逐 Verdrängung)は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。》(フロイト、フィリス宛書簡、1896年)


ここではミレールを列挙しておくだけにする(参照)。

自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (ミレール 、Première séance du Cours、2007)
後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽 la jouissance qu'on dit de l'addiction と呼びうるが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(ミレール、L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)


【残存現象 Resterscheinungen】

いずれにせよ、人には必ず「残存現象」がある筈である。すなわちふとした弾みで「欲動の主体」(享楽の漂流の主体)の相が現われる。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまたファルス期phallisch-genitalen Platz にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste が保たれていることもありうるとしている。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残存物Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

ここでフロイトは「原始時代のドラゴン」と言っているが、つまりは「欲動の蠢き」のことである。あるいは原マゾヒズム、--最晩年のフロイトにとって、《マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus 》(フロイト 1933)ものである(参照)。

究極的な原マゾヒズムとは廃墟になった享楽(死)に向う自己破壊運動ではなかろうか。

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!

es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker!(フロイト 1933、『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
享楽は現実界である。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, (ラカン、S23, 10 Février 1976)

 「欲動の蠢き」に戻ろう。

心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。(フロイト『不気味なもの』1919)
欲動の蠢きは刺激・無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute。(ラカン、S10、14 Novembre l962)

この欲動蠢動(「欲動の根Triebwurzel」)の飼い馴らしは完全には不可能である。これは原抑圧の穴Ⱥに起因する欲動の現実界である。

穴、それは非関係・性を構成する非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexue(ラカン、S22, 17 Décembre 1974)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975ーー三種類の原抑圧

ゆえに人はこの耐え難い穴Ⱥーーサミュエル・ベケットの表現なら「貪り喰う空虚Incontinent the void」(Samuel Beckett, Ill Seen Ill Said)ーーに対して防衛するために、「ふつうの妄想」をして(ある意味で誤魔化しの)穴埋めをしなければならないのである。

我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めする)ために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974 )

ラカンはこの穴埋めの手段として《コルク栓 le bouchon》という表現を何度か使っている。 これは、欲動蠢動のシャンパンの泡によってときに吹き飛んでしまうコルク栓である。

ミレールがトラウマと言っている内実は、穴Ⱥのこと、あるいは欲動蠢動のことである。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010)

ラカンのコルク栓とは、じつは地獄の釜の蓋のことではなかろうか?

⋯⋯一般に強迫症的な取り澄ましたきちんとした表層の一枚下には血みどろの幻想が渦を巻いている。うっかり精神分析でこの地獄の釜の蓋を開けないようにという警告が精神療法家の間では行き渡っている。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986初出『家族の深淵』所収)

ラカンは、次の図を示しつつ、こうは言っている。


私が、サントームΣとして定義したもの j'ai défini comme le sinthome [ Σ ] は、象徴界・現実界・想像界をつなぎ合わせることを可能にするものである permet au symbolique, à l'imaginaire et au réel, de tenir ensemble。…サントームの水準において…関係がある Au niveau du sinthome, … il y a rappor。サントームがある場においてのみ、関係がある Il n'y a rapport que là où il y a sinthome。 (ラカン、S23、17 Février 1976)

だがラカンは三ヵ月前にはこうも言っているのである。

四番目の用語(サントーム)にはどんな根源的還元もない、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。

Il n'y a aucune réduction radicale du quatrième terme. C'est-à-dire que même l'analyse, puisque FREUD… on ne sait pas par quelle voie …a pu l'énoncer : il y a une Urverdrängung, il y a un refoulement qui n'est jamais annulé. Il est de la nature même du Symbolique de comporter ce trou, et c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

このふたつの発言は、二種類のサントームを語っていると捉えるほかない。なにはともあれ、このサントーム概念を「ロマンチックに」捉えてはならない、とわたくしは思う。

三年後、実質上のラカンの最後の言葉のひとつとして次のように「告白」しているのだから。

ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用 abus de métaphore だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もない il n’y a pas de chose qui supporte l’imaginaire, le symbolique et le réel から。私が言っていることの本質は、性関係はない il n’y ait pas de rapport sexuel ということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ,(ラカン、S26, La topologie et le temps 、9 janvier 1979、[原文])

結局、わたくしは次のポール・バーハウの観点を当面とっている。

エディプス・コンプレックス自体、症状である。その意味は、大他者を介しての、欲動の現実界の周りの想像的構築物ということである。どの個別の神経症的症状もエディプスコンプレクスの個別の形成に他ならない。この理由で、フロイトは正しく指摘している、症状は満足の形式だと。ラカンはここに症状の不可避性を付け加える。すなわちセクシャリティ、欲望、享楽の問題に事柄において、症状のない主体はないと。

これはまた、精神分析の実践が、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない理由である。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(「父との同一化」)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを「症状との同一化」(そして、そこから自ら距離をとること)とした。(ポール・バーハウ2009、PAUL VERHAEGHE、New studies of old villainsーー「母による身体上の刻印と距離(サントームをめぐって)」)