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2018年6月23日土曜日

母による身体上の刻印と距離(サントームをめぐって)

以下、ラカン最晩年の臨床「症状との同一化」について、いくらかまとめて記す(主に引用の列挙である)。

乳幼児は何よりもまず、母への呼びかけを生みださねばならない。その呼びかけとは、欲動興奮と寄る辺なさとの混淆を基礎にしている。母の応答(鏡像段階を想起せよ)、それは、(欲動興奮を)統御し・徴をつけ・満足を与える形で作用する。子供がふたたび同じ享楽の統御を見出したいとき、母へ「要求」を向けねばならない。結果として、子供は母の応答と同一化しなければならなくなる。そして母が既に生み出した徴に同一化することになる。 (ポール・バーハウ、2009、PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)

同一化には、想像的同一化(理想自我)、象徴的同一化(自我理想)が比較的よく知られているだろうが(参照)、上の文でバーハウが記している「母の徴」との同一化とは、現実界的同一化である、とわたくしは考える。この「母の徴」の代表的なものは、ララング(母の言葉)であり、現実界的シニフィアンS(Ⱥ)=サントームである。

S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(ジャック=アラン・ミレール、L'Être et l'Un 、2011
ララング Lalangue は象徴界的 symbolique なものではなく、現実界的 réel なものである。 現実界的というのは、ララングはシニフィアンの連鎖外 hors chaîne のものであり、したがって意味外 hors-sens にあるためである(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne )。 (コレット ・ソレール2009、Lacan, l'inconscient réinventéーー「ララング定義集」)
サントーム(原症状)は、母の言葉(ララング)に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、このララングlalangueと母の享楽によって生涯徴づけられたままである。

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée..Geneviève Morel 2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)


結局、現実界の症状とされる「サントーム」とは、「母による身体上の刻印」なのである(刻印にはほとんど常に「母の言葉」が伴っているだろう)。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ーーこの「症状 symptôme」は、「サントーム sinthome」のことである。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール, Fin de la leçon 9 du 30 mars 2011)
身体における、ララングとその享楽の効果との純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps(ミレール、2012、Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP par JACQUES-ALAIN MILLER)
身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation…

それは…純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corp である。(Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011、pdf

⋯⋯⋯⋯

症状との同一化、サントームとの同一化とは、実際は同一化だけではない。原症状と同一化しつつそれから距離をとることである。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme?

症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, S24, 16 Novembre 1976)

ーーここでラカンが言っている「症状」とはサントーム(原症状)のことである。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール、「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan,  LE LIEU ET LE LIEN ,2001)
(旧来の)症状が、解釈を通して解消される無意識の形成物であるなら、サントーム(原症状)は、「分割不能な残余」であり、それは解釈と解釈による溶解に抵抗する。サントームとは、最小限の形象あるいは瘤であり、主体のユニークな享楽形態なのである。このようにして、分析の終点は「症状との同一化」として再構成される。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012)
現実界の症状、それは意味から切断されているが、言語からは切断されていない。現実界の症状は、「言葉の物質性 motérialité」と享楽との混淆であり、享楽される言葉あるいは言葉に移転された享楽にかかわる。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )

サントーム(原症状)とは、フロイトの固着のことである。

「一」Unと「享楽」jouissanceとの接合(つながり connexion)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

フロイトにとって抑圧 refoulement は、固着 fixation のなかに根がある。抑圧Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤があるのである。(ミレール2011, L'être et l'un)
固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状(コレット・ソレール、Avènements du réel、2017)
・精神分析的治療は抑圧を取り除き、裸の「欲動の固着」を露わにする。この諸固着はもはやそれ自体としては変更しえない。

・固着とは、フロイトが原症状と考えたものであり、ラカン的観点においては、一般的な性質をもつ。症状は人間を定義するものである。そしてそれ自体、修正も治療もできない。これがラカンの最後の結論、すなわち「症状なき主体はない」である。(ポール・バーハウ、他, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq ,2002)

⋯⋯⋯⋯

フロイトの固着をめぐる記述の基本は、「ラカンのサントームとは、フロイトの固着のことである」を参照。

ここではやや別の角度から、最晩年の次の二文を引用しておく。

生において重要なリビドーの特徴は、その可動性である。すなわち、ひとつの対象から別の対象へと容易に移動する。これは、特定の対象へのリビドーの固着と対照的である。リビドーの固着は生涯を通して、しつこく持続する。

Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
母へのエロス的固着の残余は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への隷属として存続する。

Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine über-grosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (同『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

これは、上の半ばほどに引用した.Geneviève Morel 2005が記している《母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす》のことである。

再掲しよう。

サントーム(原症状)は、母の言葉(ララング)に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、このララングlalangueと母の享楽によって生涯徴づけられたままである。

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée..(Geneviève Morel 2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)


無限の法とは、母なる勝手気ままである。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan, S5, 22 Janvier 1958)
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

ーーより詳しくは、「母の法と父の法(父の諸名)」を参照。

ゆえに人はここから距離をとらなければならない。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)

実際は、サントームとは二種類あるのである。母による身体上の刻印としてのサントームと、そこから距離をとるサントーム。すくなくともわたくしはそう考える。


最後のラカンにおいて、父の名はサントームとして定義される défini le Nom-du-Père comme un sinthome。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。(ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013)

後者のサントーム(距離をとるサントーム)が、次の文でポール・バーハウが言っている《享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置すること》であると考える。

エディプス・コンプレックス自体、症状である。その意味は、大他者を介しての、欲動の現実界の周りの想像的構築物ということである。どの個別の神経症的症状もエディプスコンプレクスの個別の形成に他ならない。この理由で、フロイトは正しく指摘している、症状は満足の形式だと。ラカンはここに症状の不可避性を付け加える。すなわちセクシャリティ、欲望、享楽の問題に事柄において、症状のない主体はないと。

これはまた、精神分析の実践が、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない理由である。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(「父との同一化」)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを「症状との同一化」(そして、そこから自ら距離をとること)とした。(ポール・バーハウ2009、PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains)