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2018年7月14日土曜日

セイレーンたちの魅惑




ある写真が気に入り、それに心をかき乱されると、私はいつまでもそれにこだわる。そうやって写真を前にしているあいだずっと、私は何をしているのか? 私は写真に写っている事物や人間についてさらに詳しく知ろうとするかのように、写真を見つめ、子細に検討する。……(ロラン・バルト『明るい部屋』)


(ヒッチコック、サイコ)




ゴダール、(複数の)映画史4A


イマージュの本質は、内奥をもたずsans intimité,、完全に外部 toute dehorsにある、という点にある。にもかかわらず、イマージュは、心の奥の考えよりもなおいっそう近づきがたく神秘的であり、意味作用はもたないが、しかし可能なあらゆる意味の深みを呼び寄せる。明示されてはいないが、しかし明白であり、セイレーンたちの引力と魅惑 l'attrait et la fascination des Sirènes を生むあの現前=不在 présence-absence の性格をもつ。(モーリス・ブランショ『来るべき書物』)




われわれは、フロイトの「ナイーヴな」人を迷わすフェティッシュの考え方を修復すべきである。フロイトは、女性のペニスの欠如を見る直前に主体が見た最後の物としてフェティッシュを捉えている。だがフェティッシュが覆い隠すものは、単に女性のペニスの不在ではない。そうではなく、厳密に「構造主義者」的意味での、現前/不在 presence/absence のまさに構造が示差的 differential であるという事実である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)





むかし、日本政府がサイパンの土民に着物をきるように命令したことがあった。裸体を禁止したのだ。ところが土民から抗議がでた。暑くて困るというような抗議じゃなくて、着物をきて以来、着物の裾がチラチラするたび劣情をシゲキされて困る、というのだ。

ストリップが同じことで、裸体の魅力というものは、裸体になると、却って失われる性質のものだということを心得る必要がある。

やたらに裸体を見せられたって、食傷するばかりで、さすがの私もウンザリした。私のように根気がよくて、助平根性の旺盛な人間がウンザリするようでは、先の見込みがないと心得なければならない。(坂口安吾「安吾巷談 ストリップ罵倒」)




或るヒステリー的発作において見出されることは、患者は、底に横たわる性幻想 sexuellen Phantasie における男女両方の性の役割を同時に演ずることであった。

例えば、私が観察した事例におけるヒステリー患者は、一方の手で(女として)服を押さえようとし、他方の手で(男として)服をまくり上げようとする。mit der einen Hand das Gewand an den Leib preßt (als Weib), mit der anderen es abzureißen sucht (als Mann). (フロイト『ヒステリー的幻想とバイセクシャル性に対するその関係 Hysterische Phantasien und ihre Beziehung zur Bisexualität 』1908)

ーーフロイトにとっての、「男性と女性 Männlichen und Weiblichen」とは、なによりもまず「能動性と受動性 Aktivität und Passivität」である(『文化の中の居心地の悪さ』1930年)。




身体の中で最もエロティック érotique なのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯 zones érogènes》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇intermittenceである。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらりと見える肌 la peau qui scintille の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えること自体 scintillement même qui sédui である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出 la mise en scène d'une apparition-disparition である。

それはストリップ・ショーや物語的サスペンスの快楽ではない。この二つは、いずれの場合も、裂け目もなく、縁もない、順序正しく暴露されるだけである。すべての興奮は、セックスを見たいという(高校生の夢)、あるいは、ストーリーの結末を知りたいという(ロマネスクな満足)希望に包含される。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)





見えない場 champ aveugle の現前(力動性)こそ、ポルノ写真からエロティックな写真を区別するところのものである、と私は思う。ポルノ写真は一般にセックスを写し、それを動かない対象 objet immobile (フェティッシュ)に変え、壁龕から外に出てこない神像のようにそれを崇拝する。私にとっては、ポルノ写真の映像にプンクトゥムはない。その映像は、せいぜい私を楽しませるだけである(しかもすぐに倦きがくる)。

これに反して、エロティックな写真は、セックスを中心的な対象としない(これがまさにエロティックな写真の条件である)。セックスを示さずにいることも大いにありうる。エロティックな写真は観客をフレームの外へ連れ出す。だからこそ、私はそうした写真を活気づけ、そうした写真が私を活気づける。プンクトゥムは、そのとき、微妙な一種の場外 hors champ subtil となり、映像は、それが示しているものの彼方に、欲望を向かわせるかのようになる。(ロラン・バルト『明るい部屋』「見えない場」)
プンクトゥム punctum とは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さなシミ petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことでもありーーしかもまた、骰子の一振りcoup de dés のことでもある…。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺すme point 偶然 hasard (それだけなく、私にあざをつけme meurtrit、私の胸をしめつけるme poigne 偶然)である。(ロラン・バルト『明るい部屋』第10章)





すこし前方に、べつの一人の小娘が自転車のそばにひざをついてその自転車をなおしていた。修理をおえるとその若い走者は自転車に乗ったが、男がするようなまたがりかたはしなかった。一瞬自転車がゆれた、するとその若いからだから帆か大きなつばさかがひろがったように思われるのだった、そしてやがて私たちはその女の子がコースを追って全速力で遠ざかるのを見た、なかばは人、なかばは鳥、天使か妖精かとばかりに。(プルースト「囚われの女」)