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2018年7月15日日曜日

ヘンデルの匂い




ふとめぐりあった椅子の写真に魅せられる。わたくしは皮のにおいがとても好きである。しかもこの椅子はふつうの皮張りの椅子とは異なり、とても軽やかである。だがわたくしが魅せられるのはそのせいだけではない筈だ・・・

「灌木について語りたいと思うが
キノコの生えた丸太に腰かけて
考えている間に」
「もう秋は四十女のように匂い始めた」(西脇順三郎)

皮の匂いは、キノコの匂いのようにいいかおりがする。

菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。(⋯⋯)

菌臭の持つ死ー分解への誘いは、腐葉土の中へふかぶかと沈みこんでゆくことへの誘いといえそうである。(⋯⋯)

私は、今までにとおってきたさまざまの、それぞれ独特のなつかしい匂いの中にほとんどすべて何らかの菌臭の混じるのを感じる。幼い日の母の郷里の古い離れ座敷の匂いに、小さな神社に、森の中の池に。日陰ばかりではない。草いきれにむせる夏の休墾地に、登山の途中に谷から上がってくる風に。あるいは夜の川べりに、湖の静かな渚に。(⋯⋯)

菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。(中井久夫「きのこの匂いについて」『家族の深淵』所収)

わたくしはがあの椅子になぜ魅せられるのかは、しばらく考えた今は、じつはよくわかっている。《母胎の入り口の香りにも通じる匂い》なのである。

前回、トリュフォーの『あこがれ』の映像を貼りつけたが、それにかかわる。




ああ、なんというかおり高さ!





すると、ヘンデルがきこえてくるのである。わたくしはたいしたヘンデルファンでもないにもかかわらず。

仕事がうまく進まなくて神経がたかぶっている時に〈椿姫〉や〈冬の旅〉などが聞こえてくると『アネット! なぜヘンデルをかけないのだ』とどなったりした。ジャコメッティは他のどの音楽家のものよりも特にヘンデルのものが好きなのだ。ヘンデルの音楽は、いささかのわざとらしさも誇張もなく、全く自然で、最も『開かれた』音楽だ、と彼は言うのである。ヘンデルにくらべれば、ベートーヴェン以後のロマン派音楽はあまりにも技巧的主観的であり、『芸術』的であり過ぎる、というのが彼の意見だった。最もすぐれた芸術は『芸術』を感じさせない芸術にある。(矢内原伊作『ジャコメッティ』)

いやジャコメッティのせいではない。すこしは関係があるかもしれないが、ヘンデルがきこえてくるのは、別に明らかな理由がある。




◆Lesley Garrett - Lascia Chio Pianga




ここで人は、ヘンデルのこの「私を泣かせてください Lascia ch'io pianga」が、《一分間七〇ビート》弱で演奏されているのに気づかねばならない。

胎内はバイオスフェア(生物圏)の原型だ。母子間にホルモンをはじめとするさまざまな微量物質が行き来して、相互に影響を与えあっていることは少しずつ知られてきた。母が堕胎を考えると胎児の心音が弱くなるというビデオが真実ならば、母子関係の物質的コミュニケーションがあるだろう。味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓は、言語から遠いため、私たちは単純なものと錯覚しがちである。それぞれの家に独自の匂いがあり、それぞれの人に独自の匂いがある。いかに鈍い人間でも結婚して一〇日たてば配偶者の匂いをそれと知るという意味の俗諺がある。

触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口―身体―指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。それはウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型ではないだろうか。

聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。

視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか。私は、性の世界を胎内への憧れとは単純に思わない。しかし、老年とともに必ず訪れる、性の世界への訣別と、死の世界に抱かれることへのひそかな許容とは、胎内の記憶とどこかで関連しているのかもしれない(私は死の受容などと軽々しくいえない。死は受容しがたいものである。ただ、若い時とは何かが違って、ひそかに許しているところがあるとはいうことができる)。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」 『時のしずく』所収)