このブログを検索

2018年9月6日木曜日

「欲望は大他者の欲望」の彼岸

他者の他者性」から引き続く。

欲望は欲望の欲望、大他者の欲望である。それは法に従属している。Le désir est désir de désir, désir de l'Autre, avons-nous dit, soit soumis à la Loi. (ラカン、E852、1964年)

この「欲望は大他者の欲望」とははある時期までの標準的ラカン、古典的ラカンである。今まで多くの注釈書でうんざりするほど言及されてきた。

「欲望は大他者の欲望」の意味は(基本的には)下記の①②③に相当する。

欲望とは、常に-既に「欲望の欲望/欲望への欲望」である。すなわち「大他者の欲望」のすべてのヴァリエーションは次の通り。

①私は私の大他者 my Other が欲望するものを欲望する。
②私は私の大他者 my Other によって欲望されたい。
③私の欲望は、大きな大他者 the big Other ーー私が組み込まれた象徴領野ーーによって構造化されている。
④私の欲望は、リアルな他のモノ real Other‐Thing の深淵によって支えられている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012年)

①②において、私の大他者 my Otherと大文字の他者として記されているが、基本的には「小文字の他者」である。

つまり、この「私の大他者 my Other」とは、「他者の他者性」にて引用したジジェク2000年の「想像的他者」にほぼ相当する。

第一に、想像的他者が存在するーー「私に似た」他の人々、競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ私の同類たちである。

次に、象徴的〈大他者〉が存在するーーわれわれの社会的存在の実体であり、人間の共存を調整する諸規則の非人称的集合体である。

最後に、〈現実界的なもの〔リアル〕〉としての〈他者〉、不可能な〈モノdas Ding〉、非人間的パートナー、象徴的〈他者〉に媒介された対称的な対話など不可能な〈他者〉が存在する。(ジジェク「メランコリーと行為」2000年)





ではなぜジジェク 2012には、「私の大他者 my Other」とあるのか。

それはロレンゾ・チーサが明瞭に記している。以下の文の「理想自我」を小文字の他者、「自我理想」を大文字の他者として読もう。

一般的には、理想自我は、自我の理想イメージの外部の世界(人間や動物、物)への投影 projection であり、自我理想は、彼の精神に新たな(脱)形成を与える効果をもった別の外部のイメージの取り込み introjection である。言い換えれば、自我理想は、主体に第二次の同一化を提供する新しい地層を自我につけ加える。(……)

注意しなければならないのは、自我理想は、必然的に、理想自我のさらなる投影を作り変えることだ。すなわち、一方で理想自我は論理的には自我理想に先行するが、他方でそれは避けがたく自我理想によって改造される。これがラカンが、フロイトに従って、次のように言った理由である。すなわち、自我理想は理想自我に「形式」を提供すると(セミネールⅠ)。 ((ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness、2007)

他にも、例えばポール・バーハウは母を「母なる大他者 (m)Other 」と書く。

幼児の避けられない出発点は、受動ポジションである。すなわち、母の欲望の受動的対象に還元される。そして母なる大他者 (m)Other から来る鏡像的疎外 mirroring alienation を通して、自己のアイデンティティの基盤を獲得する。(When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic by Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe  2010)

なぜ母は小さな他者ではないのか。

まず新生児にとって最初の世界は母である(フロイト表現なら最初の「外界 Außenwelt」)。世界は小さな他者ではない。

それ以外に、

母は母語を話す。母語という言語は大他者である。
母はある文化のなかの存在である。文化は大他者である。
母の鏡に映るものは、その文化の慣習である。

これだけで母子関係が、単純には想像界的二者関係でないのが分かる。母子関係は二者関係「的」であるのは相違ない。だが厳密には第三項が最初からある。

ラカンの観点からは、精神病と神経症の共通の基盤はなにか。精神生活の始まりはなにか?

古典的ラカンにおいて精神生活の始まりは、ラカンが想像界と呼んだものだ。誰もが想像界とともに始まると想定される。これは古典的ラカンだ。それは疑わしい。というのは、言語の出現を遅らせているから。

事実としては、主体は、最初から言語に没入させられいる。だが、古典的ラカンにおいて、精神病についての彼の古典的テキストにおいて、さらに『エクリ』のほとんどすべてのテキストにおいて--最後のテキストのいくつかを除いてーー、ラカンは、主体の根本次元を想像的次元に付随したものとして「構築」した。(……)

私は「構築」と言った。というのは、あなたは、言語の抽象作用を理解しなければならないから。言語は既に最初からある。(ジャック=アラン・ミレール 、Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、2008 私訳、PDF)

さてこの前提で、ジジェク 2012の①②③④を再掲する。

①私は私の大他者 my Other が欲望するものを欲望する。
②私は私の大他者 my Other によって欲望されたい。
③私の欲望は、大きな大他者 the big Other ーー私が組み込まれた象徴領野ーーによって構造化されている。
④私の欲望は、リアルな他のモノ real Other‐Thing の深淵によって支えられている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012年)

①は、他人が欲しがっている或いは他人が所有しているから、私も欲しくなる。「隣の芝は青い」、「一盗二婢三妾四妓五妻」⋯⋯。

誰にも属していない女は黙殺されたり、拒絶されさえする。他の男と関係がありさえすれば、即座に情熱の対象となる。(フロイト『男性における対象選択のある特殊な型について 』1910)

②は、典型的には承認欲望のこと。《承認されたい欲望 désir de faire reconnaître son désir》(ラカン、E151)。フロイトの云う原初の母に「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」(1926)の二次的加工物でもある。

③は、欲望は言語作用の効果だということ。その意味で①②は、③にほぼ包含される。

④については後述することにして、先に女流ラカン派第一人者コレット・ソレールにて補おう。

・「欲望は大他者の欲望」は、欲求 besoin との相違において、欲望 désir は、言語作用の効果だということを示す。…この意味で、言語の場しての大他者は、欲望の条件である。…しかし、私たちが各々の話し手の欲望を道案内するもの、精神分析家に関心をもたらす唯一のものについて話すなら 「欲望は大他者の欲望ではない le désir n'est pas désir de l'Autre」。

・欲望の原因は、フロイトが、原初に喪失した対象 [l’objet originairement perdu]」と呼んだもの、ラカンが、欠如しているものとしての対象a[l’objet a, en tant qu’il manque]と呼んだものである。 (コレット・ソレール、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013)

このようにジジェクの①②③、つまり「大他者の欲望は大他者」は精神分析家にとっての核心ではなく、「原初に喪失した対象」が核心ということが言われている。

そして「原初に喪失した対象」が、ジジェク曰くの《④私の欲望は、リアルな他のモノ real Other‐Thing の深淵によって支えられている》における「リアルな他のモノ」として捉えうる(ジジェクの意図は知らず)。

他のモノはフロイトのモノ das Ding である das Dingautre chose est das Ding, (ラカン、S7、16 Décembre 1959)

そして「モノ das Ding」とは対象aであり現実界である。

(フロイトの)モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perduである。(ラカン、S17, 14 Janvier 1970)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

ラカンはフロイトのモノをめぐって集中的に問うたセミネール7では、こう言っていることも付記しておこう。

(フロイトによる)モノ、それは母である。das Ding, qui est la mère, (ラカン、 S7 16 Décembre 1959ーー「モノと対象a」)

ここでさらにジャック=アラン・ミレールで補おう。

ラカンによって幻想のなかに刻印される対象aは、まさに「父の名 Nom-du-Père」と「父性隠喩 métaphore paternelle」の支配から逃れる対象である。

…この対象は、いわゆるファルス期において、吸収されると想定された。これが言語形式のもと、「ファルスの意味作用 la signification du phallus」とラカンが呼んだものによって作られる「父性隠喩」である。

この意味は、いったん欲望が成熟したら、すべての享楽は「ファルスの意味作用 la signification phallique」をもつということである。言い換えれば、欲望は最終的に「父の名」のシニフィアンのもとに置かれる。この理由で、「父の名」による分析の終結が、欲望の成熟を信じる分析家すべての念願だと言いうる。

そしてフロイトは既に見出している、成熟などないと。フロイトは「父の名」はその名のもとにすべての享楽を吸収しえないことを発見した。フロイトによれば、まさに「残りもの restes」があるのである。その残りものが分析を終結させることを妨害する。残りものに定期的に回帰してしまう強迫がある。

セミネール4において、ラカンは自らを方向づける。それは、その後の彼の教えにとって決定的な仕方にて。私はそれをネガの形で示そう。ラカンによって方向づけられた精神分析の実践にとって真の根本的な言明。それは、成熟はない il n'y pas de maturation 。無意識としての欲望にはどんな成熟もない ni de maturité du désir comme inconscient である。(ミレール、大他者なき大他者 L'Autre sans Autre 、2013)

ミレールの云う「残りもの restes」は、最晩年のフロイトの論文ーーラカンがフロイトの遺書と呼んだ『終りある分析と終りなき分析』に、「残存現象 Resterscheinungen」あるいは「リビドーの固着 Libidofixierungen の残存物 Reste」として最も明瞭に現われている(参照:ラカンの対象aとフロイトの残存現象)。そしてこの欲動の固着の残りものがラカンの対象a(喪われた対象)の「ひとつ」である。

この対象aは父性隠喩S1-S2の世界に入場するとき喪われる対象ではない。

S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって既に構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a [l'objet(a)] 」である。…

この喪われた対象 objet perdu の機能、それは、話す存在 être parlant においての反復として、フロイトによって特定化された意味である。(ラカン、S17 26 Novembre 1969 )

この文における対象aではないのである。

三種類の原抑圧」にて記したが、今はその前提を元に記せば、次の図のそれぞれの横棒線の段階において喪われた対象(対象a)が生じる。




ラカンは出生という《生存在の誕生 l'avènement du vivant》による喪われたもの(対象a)と、父性隠喩 S1-S2 の世界に入場という《主体の誕生 l'avènement du sujet 》による喪われたものについては、セミネール11(1964年)の段階で明瞭に言明している。

後者の「主体の誕生」による対象aは、先程引用したセミネール17(1969年)の発言がそれに相当するので繰り返さない。前者の「生存在の誕生」による対象aとは、次の言明である。

例えば胎盤 placenta は、個人が出産時に喪なった perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象l'objet perdu plus profond を象徴する。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)

この発言は、その名だけは比較的よく知られているだろう 「ラメラlamelle」(≒羊膜)という原対象aにかかわる。

だが幼児期に喪われるものは、これだけではない。フロイトの云う《母へのエロス的固着の残りもの Rest der erotischen Fixierung an die Mutter》(『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)ーー、このリビドーの固着による対象aがある。

分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1917年)

このいわば母性固着が、「身体の出来事」(ラカン、1975)としてのサントームΣ = S(Ⱥ)(原症状)である(参照:S(Ⱥ)と「S2なきS1」)。ラカンはこの症状に相当するものを「文字対象a[la lettre petit a]」(S23、11 Mai 1976)とも呼んでいる。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps…この身体の出来事 événement de corpsは、固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un 、2011 )

事実上、サントームとは対象aなのである。ブルース・フィンク(1995)は既に、サントームに相当するS(Ⱥ)は、S(a)とも書きうると言っている。

さらに明瞭に記されているのは、次のポール・バーハウ他のサントーム論文である。

対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、象徴的な構成物から取り去られたもの、《無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage》という無意識とは異なり、その外に出る(外立する)もの、純粋な形での対象a、もしくは欲動である。(Lacan, 1974-75, R.S.I., 1975, pp.106-107摘要)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の固有の享楽を示す。《私は症状を、皆が無意識を享楽する仕方として定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine》(S22, 18 Février 1975)。

ラカンは対象aよりも症状概念のほうを好んだ。「性関係はない」という彼のテーゼに則るために。(ポール・バーハウ他 Paul Verhaeghe and Declercq, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002)

この文はさらにこう続く。ここにはミレールが最近ようやく言明するようになったサントーム=固着=「S2なきS1(S1 sans S2)」の記述がすでにある。

R.S.I. (1974-1975)のセミネール22にて、ラカンは症状の現実界部分、あるいは「文字 lettre」の概念を通した対象a を明示した。この文字は、欲動に関連したシニフィアンの核、現実界の享楽を固着している実体 substance である。

対照的に、シニフィアンは、言語的価値を獲得した或る文字である。シニフィアンの場合、欲動の現実界は、すでに象徴界に浸透されている。すなわち、記号化されている。この論拠内で、ラカンは「文字」、あるいは対象a を、主人のシニフィアンS1 と等価とする。それは次の条件においてである。すなわち、このS1 はS2 (他の諸シニフィアンの一群)から隔離されたものとして理解されるという条件において。「文字」S1 は、S2 とつながった時にのみ、ひとつのシニフィアンに変換される。(ポール・バーハウ他 , Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002)

こうして少なくとも三段階の喪われたもの(対象a)がある(もっとも固着のあるたびに残余が生じるので、実際は三種類の対象aだけでは全くないが、大きく言えばこの三段階における喪失としての対象aということである)。

先ほど掲げた図を横にしていくらか説明的に図示すれば次のようになる。



母性固着と父性隠喩については上に記したので繰り返さない。左端の「ゼロ原抑圧」はわたくしの造語であり、出産外傷による原固着・原トラウマを示そうとしている。原固着と原トラウマはフロイト自身の言葉である。

オットー・ランクは『出産外傷 Das Trauma der Geburt』 (1924)にて、出生という行為は、一般に母への「原固着 Urfixierung」が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出産外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。

後になってランクは、この「原トラウマ Urtrauma」を分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年)

ーーもっともフロイトは臨床治療の対象としてはこの原抑圧を否定している(参照)。

上図に戻れば、左端下段の究極のエロス Ureros とは母胎内における母子融合という意味である。

人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)

フロイトは母の去勢のみを記述しているが、新生児にとっても去勢である。したがって出産外傷とは、フロイトの上の文に準拠して演繹すれば、「原去勢」と言い換えうるだろう。

もっとも原去勢概念はフロイトにはない。上の文はその概念の生まれえた可能性表現のひとつである。

フロイトの新たな洞察を要約する鍵となる三つの概念、「原抑圧 Urverdrängung」「原幻想 Urphantasien(原光景 Urszene)」「原父 Urvater」。

だがこの系列(セリー)は不完全であり、その遺漏は彼に袋小路をもたらした。この系列は、二つの用語を補うことにより完成する。「原去勢 Urkastration」と「原母 Urmutter」である。

フロイトは最後の諸論文にて、躊躇しつつこの歩みを進めた。「原母」は『モーセと一神教 』(1938)にて暗示的な形式化がなされている(《偉大な母なる神 große Muttergottheit》)。「原去勢」は、『防衛過程における自我分裂』 (1938)にて、形式化の瀬戸際に至っている。「原女主人 Urherrin」としての死が、最後の仕上げを妨げた。(ポール・バーハウ1999, Paul Verhaeghe, Does the Woman exist?)