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2018年9月5日水曜日

他者の他者性

私はいいたい、あなたは、ひとが誰かに何かを伝達できるということを、あまりにも自明なこととみなしている 。(ウィトゲンシュタイン『哲学研究』)

⋯⋯⋯⋯

なぜ我々は、他者 l'autre を大文字のA の大他者 « l'Autre » avec un A とするのか。

言語によって与えられる記号を補うよう余儀なくされるときは常にそうだが、疑いもなく種々の理由がある。その理由、全ての基盤を次に示すなら、すなわちーー、

《あなたは私の妻(女)だ Tu es ma femme》というとき、結局何を知っているのか?

《あなたは私の師です Tu es mon maître》、これについて本当に確信が持てるだろうか。

この発話 paroles に「創設的価値 valeur fondatrice」をもたらすもの…このメッセージにおいて目指されてているもの、それが見せかけ(振り feinte)として言われている場合でも同様だが、《絶対的な他者 Autre absolu》としての〈他者〉がそこにいるということである。絶対的、すなわち、この〈他者〉は気づかれ reconnuてはいるが、知られて connu はいないということである。…

同様に、見せかけ feinte を見せかけたらしめているもの、それは結局、人は見せかけか否かを知らないということである。これは本質的なことである。

この本質的な要素、《他者の他者性 l'altérité de l'Autre》のなかの直かの未知 inconnue directe の要素、これが発話関係を特徴づけるものである。(ラカン、S3、30 Novembre 1955)

ジジェクの次の文は上の文にある《あなたは私の妻(女)だ Tu es ma femme》、《あなたは私の師です Tu es mon maître》のヴァリエーションである。

私が話すとき、「私自身」が直接話しているわけでは決してない。私は己れの象徴的アイデンティティの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は「間接的(まがいもの)」である。「私はあなたを愛しています」には、愛人としての私のアイデンティティーがあなたに「あなたを愛しています」と告げているという構造がある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

さてもうすこし分かりやすく書かれているジジェクの文を抜き出そう。

他者をめぐる話は、他者の想像的〔イマジナリー〕、象徴的〔シンボリック〕、現実界的〔リアル〕側面を目に見えるようにする一種のスペクトル的分析の対象となるはずだ。そうした分析はおそらく、これら三つの次元を結びつけるボロメオの結び目というラカンの概念を説明する究極的な事例となるだろう。

第一に、想像的他者が存在するーー「私に似た」他の人々、競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ私の同類たちである。

次に、象徴的〈大他者〉が存在するーーわれわれの社会的存在の実体であり、人間の共存を調整する諸規則の非人称的集合体である。

最後に、〈現実界的なもの〔リアル〕〉としての〈他者〉、不可能な〈モノdas Ding〉、非人間的パートナー、象徴的〈他者〉に媒介された対称的な対話など不可能な〈他者〉が存在する。

そして、これらの三つの次元がいかにして繋ぎ留められているかを理解することは決定的に重要である。〈モノ〉としての隣人は次のようなことを意味している。私の似姿、鏡像としての隣人の裏側にはつねに、根源的〈他者性〉、飼いならすことのできない怪物的〈モノ〉の計り知れない深淵が潜んでいるということだ。(ジジェク「メランコリーと行為」2000年)





この後に続く文がひとつの核心だが、その前にまず上のジジェク文をラカンを引用して裏付けよう。

フロイトのモノ Chose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
フロイトは、「モノdas Ding」を、「隣人Nebenmensch」概念を通して導入した。隣人とは、最も近くにありながら、不透明なambigu存在である。というのは、人は彼をどう位置づけたらいいか分からないから。

隣人…この最も近くにあるものは、享楽の堪え難い内在性である。Le prochain, c'est l'imminence intolérable de la jouissance (ラカン、S16、12 Mars 1969)

かつまたモノとは、対象aの初期ヴァージョンである(参照:モノと対象a

(フロイトの)モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perduである。(ラカン、S17, 14 Janvier 1970)

「喪われた対象」とある。これが対象aである。

S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって既に構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a [l'objet(a)] 」である。…

この喪われた対象 objet perdu の機能、それは、話す存在 être parlant においての反復として、フロイトによって特定化された意味である。(ラカン、S17 26 Novembre 1969 )

ここでラカンが言っている内容は象徴的去勢にかかわる。

去勢とは、本質的に象徴的機能であり、徴示的分節化以外のどの場からも生じない。la castration étant fonction essentiellement symbolique, à savoir ne se concevant de nulle part d'autre que de l'articulation signifiante (ラカン、セミネール17、18 Mars 1970)
ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

すなわち象徴的去勢とは、言語の世界に入ることで、身体と切り離されることである。

フロイト的な想像的去勢とは、「おちんちんを切ってしまうぞ」のたぐい以外に、ファルスのゲシュタルトの有無にかかわる。

ファルスのゲシュタルトは、その徴がなされているか、徴がなされていないかとしての両性を差異化する機能を果たすシニフィアンを人間社会に提供する。(Safouan , Lacaniana: Les séminaires de Jacques Lacan,)

現実界的去勢とは、原初の母なる大他者Aとの分離である(参照:三種類の原抑圧)。

ーー現在のラカン派では1970年代のラカンの思考をもとにして象徴的去勢だけではなく、現実界的去勢が中心の議題であり、「二つの穴と二つの現実界」という思考がなされているが、ここでは話が煩雑になるので割愛する。

さて冒頭近くに引用したセミネール3に《他者の他者性 l'altérité de l'Autre》とあったが、これが対象aにかかわる。

対象a とは、主体の構成の残余であり、他者の他者性 l'altérité de l'Autre の唯一の証拠である。 cette preuve et seule garantie en fin de compte de l'altérité de l'Autre, c'est le petit(a).(ラカン、S10, 21 Novembre l962)

ここまでの基本的理解を前提にすれば、ジジェクの文にもう一度戻ることができる。2000年の段階での記述としてはとてもすぐれたものである、とわたくしは思う。

われわれが出会う他者は、想像的似姿であるだけでなく、相互的交換が成り立たない〈現実界的なモノ〉〔Real Thing〕としての、捕らえ所のない絶対的〈他者〉でもあり、まさしくそうしたことを前提としたときのみ、パフォーマティヴィティ〔行為遂行性〕や象徴的なものの関与〔媒介〕に頼る必要が生じるのである。

〈モノ〉と共存する耐え難さを最小限に抑えるためには、〈第三者〉としての象徴的秩序、すなわち調停役の媒介者〔the symbolic order qua Third, the pacifying mediator〕が介入しなければならない。〈他者―モノ〉を飼いならして普通の人間にするには、〈他者―モノ〉の双方が従う第三の審級〔the third agency〕がまず必要になるーー非人称的な象徴〈秩序〉なくして、相互主観性(人間同士が共有する対称的な関係)は存在しない。だから、第三項なくして二つの項を結ぶ軸は存在しえないのだ。

大文字の〈他者〉の機能が停止すれば、友好的な隣人は怪物的な〈モノ〉へと早変わりする(アンティゴネーの場合)。人間的なパートナーとして関係を結べる隣人がいなければ、象徴〈秩序〉そのものが怪物的な〈モノ〉となって直接私に寄生する(ダニエル・パウル・シュレーバーの神のように、私を直接支配し、享楽の光線で私を貫く)。象徴的に規制された、他者たちとの日常的交換を下から支える〈モノ〉がなければ、われわれはハーバマス的宇宙、平板で活気のない〔無菌状態の〕宇宙の住人となる。そこでは、主体は、過剰な情熱から成る傲慢さを奪われ、コミュニケーションという規制されたゲームにおける死んだ駒になってしまう。アンティゴネーーシュレーバーーハーバマス。本当に不気味な三角形だ。 (ジジェク「メランコリーと行為」2000年)

ひとつだけ例を挙げよう。

現実界的な〈モノ〉がなければ、われわれはハーバマス的宇宙、平板で活気のない〔無菌状態の〕宇宙の住人となり、コミュニケーションという規制されたゲームにおける死んだ駒になってしまう、とある。

モノがないとは去勢の排除である。そして後期資本主義(市場原理主義・新自由主義)の時代のディスクール環境に育った主体は、おおむね男女ともに、去勢の排除(あるいは否認)がある。

資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)

たとえば現在のエビデンス主義なるものの流行とは、この去勢の排除の症状である。

⋯⋯⋯⋯

他者をめぐる思考は、もちろん〈私〉をめぐる思考へと容易に変奏しうる。



以下の文のそれぞれが想像的私、象徴的私、モノとしての私である。

私は、私という語を口にするたびに想像的なもののうちにいることになる。(ロラン・バルト『声の肌理』)
ここにあるいっさいは、小説の登場人物によって語られているものと見なされるべきである。(『彼自身によるロラン・バルト)

主体性の空虚 $ は、「語り得るもの」の彼岸にある「語り得ぬもの」ではない。そうではなく、「語り得るもの」に固有の「語り得ぬもの」である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING)

最も大切なのは一人称単数代名詞ボクやアタシに支配されたオタンチンにならないことである。

私は主人(支配者 m'etre)だ、私は支配 m'êtrise の道を進む、私は自己の主人 m'être de moiだ、あたかも世界の支配者のように comme de l'Univers。これが…(主人のシニフィアンS1に)支配されたオタンチン con-vaincu のことである。(ラカン、S20、13 Février 1973)

日本語言語空間ではオタンチン言説で書けば「共感」を生む場合が多いのでことさら厄介ではあるが。

日本における巷間の凡庸な哲学的言説、批評家の言説、さらにツイッター装置における鳥語言説はほとんどすべてオタンチン言説である。それは別名ボククラシ―とも呼ばれる。いわばボク珍言説である。

もし一方で、哲学は、m'être (我あり・私支配)の言説を典型的に表すなら、つまり「私は私自身の主人 maîtreである」という妄想的な信念の言説、もっと正確に言うなら《我々に「私は私自身の主人だ」と思い込ませてくれる m'être à moi même》(Lacan, S17)言説であるなら、他方で、精神分析はこの支配 mastery の古臭い存在論ーーそれは、ボククラシー[je-cratie](デモクラシー(大衆支配)の変奏であり、ボク支配のこと)、《理想のボクの神話、支配するボクという神話、少なくとも何かがそれ自身、つまり話し手と一致するというボクの神話》(S17)--をラカンは代替すべきだとする。それは、par-être の言説への移行である。つまりパラ存在 para-being としての言説、横にずれる[être à côté]言説である。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa、Lacan and philosophy, 2014、pdf)

別の言い方をすればボクやアタシなどは空っぽであることを十全に知っておくことである。

私はひとりの他者だ  JE est un autre ( ランボー)
私は他者だ Je suis l'autre (ネルヴァル)

We are the hollow men
We are the stuffed men
Leaning together
Headpiece filled with straw. Alas!

俺たちのなかみはからっぽ
俺たちのなかみはつめもの
俺たちはよりそうが
頭のなかは藁のくず、ああ!

ーーエリオット「うつろな人間 the hollow men」高松雄一訳


あなた方は焦らないようにしたらよろしい。哲学のがらくたに肥やしを与えるものにはまだしばらくの間こと欠かないだろうから。(⋯⋯)

対象a …この対象は、哲学的思惟には欠如しており、そのために自らを位置づけえない。つまり、自らが無意味であることを隠している。Cet objet est celui qui manque à la considération philosophique pour se situer, c'est à dire pour savoir qu'elle n'est rien. (……)

対象a、それはフェティシュfétiche とマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものだ。(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」 1966)

とはいえムリなのである。21世紀に入って去勢の排除あるいは否認の症状はますます悪化している。

ラカン理論に固有の難解な特徴は、その典型的に抽象的なスタイルにあるとされる。これは部分的にしか正しくない。誤解の真の原因は、むしろ粘り強い、防衛的な「知りたくないnot-wanting-to-know」にある。というのは、彼の理論は、われわれの仕事の領域だけではなく、まさに人生の生き方においてさえ、数多くの確信を揺らつかせるので、これが概念上の孤立無援を齎している。(ポール・バーハウ2004, Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics)

去勢の排除によって何が典型的に起るのか? 上に記したエビデンス主義のたぐい(参照:「科学精神」という魂の墓場)以外に、たとえば婚活である。「婚活」とは上に引用したラカンの云う《「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る》ことである。そもそもラカンの考えでは《資本主義は性を厄介払いすることがその出発点であった。 pour le sexe, puisqu'en effet le capitalisme, c'est de là qu'il est parti, de le mettre au rancart. 》(テレビジョン、1973)

我々は愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。(ジャック=アラン・ミレール、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010)

→続く、「「欲望は大他者の欲望」の彼岸