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2018年9月4日火曜日

作家と幼児化(退行)

おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返す。(ニーチェ『善悪の彼岸』146番)

このところ中井久夫の幼児型記憶、あるいはフロイトやラカンの隠蔽記憶などをめぐっていくらか記したけれど、幼児期記憶のほうへ下りていくとは、退行することだよ。

何人〔じん〕であろうと、「デーモン」が熾烈に働いている時には、それに「創造的」という形容詞を冠しようとも「退行」すなわち「幼児化」が起こることは避けがたい。…

思い返せば、著述とは、宇宙船の外に出て作業する宇宙飛行士のように日常から離脱し、頭蓋内の虚無と暗黒とに直面し、その中をさしあたりあてどなく探ることである。その間は、ある意味では自分は非常に生きてもいるが、ある意味ではそもそも生きていない。日常の生と重なりあってはいるが、まったく別個の空間において、私がかつて「メタ私」「メタ世界」と呼んだもの、すなわち「可能態」としての「私」であり「世界」であり、より正確には「私 -世界」であるが、その総体を同時的に現前させれば「私」が圧倒され破壊されるようなもの、たとえば私の記憶の総体、思考の総体の、ごく一部であるが確かにその一部であるものを、ある程度秩序立てて呼び出さねばならなかった。(中井久夫「執筆過程の生理学」初出1994年『家族の深淵』所収)

ーー中井久夫の「世界における索引と徴候」の冒頭と末尾はすごいね、初めて読んだとき眩暈がしたな(「五月のたわわな白い花のすこしただれたかおり」)。


ま、でもふつうの人は井戸の底なんか探らなくていいのさ。著述家でも何でもないボクだってしたくない。でも何かが強制するんだな、冥府下りを。これはむしろ「不幸」だよ。

何ものかが私に書かせている。思うに、恐怖が、狂ってしまうことへの恐怖が、私を書く行為へと駆り立てている。(バタイユ『ニーチェについて』)

作家じゃないボクが言うのもなんだが、作家ってのはやっぱり幼児化する職業だろ。これって常識的なことじゃないのか? 21世紀にはこういった真の作家は稀少になってしまったけれど。

日本のごく標準的な作家たちだってこう言っている。

・文学者は、社会がアナーキーに突入する前に、あらかじめアナーキーの境に住んでいる番人みたいなものだと思っています。

・作家という職業を外側から考えてみると、何で喰わしてもらっているのか、考え込んでしまいます。よせばいいのに、その理由をあれこれ探ります。やはり、生死の境のアナーキーな場所に居留守する役割に対して、銭をもらっているんじゃないですか?(古井由吉『人生の色気』)
文学作品をつくる場合、追究するテーマというものがあり、もちろんそれを追究する情熱というものがあるわけだが、これはいわば「近因」である。一方、その作者がむかし文学をつくるという場所に追い込まれたこと、そのときの激しい心持ち、それが「遠因」といえるわけで、その遠因がいつまでもなまなましく、一種の情熱というかたちで残っていないと、作品に血が通ってこない。追い込まれたあげくに、一つの世界が開かれるのを見るのである。(吉行淳之介『「復讐」のために ─文学は何のためにあるのか─』)
現代ではストオリイは小説にあるだけではない。宗教もお話であり、批評もお話であると私は書いたが、政治も科学も歴史もお話になろうとしている。ラジオやテレビは一日中、料理や事件や宇宙について、甘いお話を流し続け、われわれは過去についてお話を作り上げ、お話で未来を占っている。

これらのお話を破壊しないものが、最も慰安的であるが、現実にもわれわれの内部にもお話の及ばない極地は存在する。人間はそこに止ることは出来ないにしても、常にその存在を意識していなければならない。だからこの不透明な部分を志向するお話が、よいお話である、というのが私の偏見である。(大岡昇平『常識的文学論』)

全部、退行の話だよ、漱石だって安吾だって退行している。

そして真に退行したら自分の幽霊が現われるのさ。幽霊っていったら、典型的には漱石の『明暗』の末尾にあらわれる「分身」さ。

手紙は…幽霊との交わり Verkehr mit Gespenstern でありしかも受取人の幽霊だけではなく、自分自身の幽霊との交わりでもあります。…

手紙を書くとは…むさぼり尽くそうと待っている幽霊たちの前で裸になることです Briefe schreiben aber heißt, sich vor den Gespenstern entblößen, worauf, sie gierig warten.。書かれた接吻は到着せず、幽霊たちによって途中で飲み干されてしまいます。(カフカ、1922年 3 月末 ミレナ宛)

他方、学者や知識人ってのは基本的には作家じゃないよ。

パロールの側にいる教師に対して、エクリチュールの側にいる言語活動の操作者をすべて作家と呼ぶことにしよう。両者の間に知識人がいる。知識人とは、自分のパロールを活字にし、公表する者である。教師の言語活動と知識人の言語活動の間には、両立しがたい点はほとんどない(両者は、しばしば同一個人の中で共存している)。しかし、作家は孤立し、切り離されている、エクリチュールはパロールが不可能になる(この語は、子供についていうような意味に解してもいい〔つまり、手に負えなくなる〕)所から始まるのだ。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」『テクストの出口』所収)

つまり学者や知識人ってのは幼児化も退行もなしで書く種族さ。まったく異なった種族だな。

だからニーチェはこう言う。

学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』1882年)

一方、作家ってのは、バルトが言うようなポジションに立とうとする者たちだよ、究極的には、だけど。

作家はいつもシステムの盲点(システムの見えない染み la tache aveugle des systèmes)にあって、漂流 dérive している。それはジョーカー joker であり、マナ manaであり、ゼロ度 degré zéroであり、ブリッジのダミー le mort du bridge である。 (ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)

ーー「システムの見えない染み la tache aveugle des systèmes」 ってのは、ラカンの「絵のなかのシミ tache dans le tableau」=対象a。1970年代のバルトはラカンにひどく影響をうけている。この対象aとは、囮・ヴェール・見せかけとしての対象aではなくて、無・空虚・穴としての対象aのこと。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 vide をあらわす。(ジジェク, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? , 2016ーー「モノと対象a」)

そもそも作家の文ってのは、知識人や学者の文のように飼い馴らされていない読者を啓蒙するものじゃなくて、読み手が自らを読む「めがね」「光学機械 instrument d'optique」だよ。だから真の作家の文を読んだら、必然的に「退行」するはずだよ。

以下のプルースト文はドゥルーズがとても愛した箇所だ。

私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。したがって、私は彼らに私をほめるとかけなすとかいうことを求めるのではなくて、私の書いていることがたしかにその通りであるかどうか、彼らが自身のなかに読みとる言葉がたしかに私の書いた言葉であるかどうかを、私に告げることを求めるだけであろう(その点に関して、両者の意見に相違を来たすこともありうる、といってもそれは、かならずしも私がまちがっていたからそういうことが起こるとはかぎらないのであって、じつはときどきあることだが、その読者の目にとって、私の書物が、彼自身をよく読むことに適していない、ということから起こるのであろう)。

本を読むとき、読者はそれぞれに自分自身を読んでいるので、それがほんとうの意味の読者である。作家の著書は一種の光学器械にすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせるのである。書物が述べていることを読者が自分自身のなかに認めることこそ、その書物が真実であるという証拠であり、すくなくともある程度、その逆もまた真なりであって、著者のテキストと読者のテキストのあいだにある食違は、しばしば著者にでなくて読者に負わせることができる。さらにつけくわえれば、単純な頭の読者にとって、書物が学問的でありすぎ、難解でありすぎることがある、そんなときはくもったレンズしかあてがわれなかったように、読者にはよく読めないことがあるだろう。しかし、それとはべつの特殊なくせ(倒錯のような)をもった読者の場合には、正しく読むために一風変わった読みかたを必要とすることもあるだろう。著者はそれらのことで腹を立てるべきではなく、むしろ逆に、最大の自由を読者に残して、読者にこういうべきである、「どれがよく見えるかあなたがた自身で見てごらん、このレンズか、あのレンズか、そちらのレンズか。」(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)

これがわかってないやつってのは、「作家の文章」を読んだことがないってことだな、ボクに言わせれば。

知識人たちの慰安の文しか読んでないんだろうな。

ぼくは、自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。もし、ぼくらの読む本が、頭をガツンと一撃してぼくらを目覚めさせてくれないなら、いったい何のためにぼくらは本を読むのか? きみが言うように、ぼくらを幸福にするためか? やれやれ、本なんかなくたってぼくらは同じように幸福でいられるだろうし、ぼくらを幸福にするような本なら、必要とあれば自分で書けるだろう。いいかい、必要な本とは、ぼくらをこのうえなく苦しめ痛めつける不幸のように、自分よりも愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森の中に追放されたときのように、自殺のように、ぼくらに作用する本のことだ。本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。(カフカ オスカー・ポラックへの手紙 1904年1月27日)

ま、それはそれでいいんじゃないか、シアワセそうで。21世紀の潮流なのかもしれないし。ボクは旧世代でね、ではサヨウナラ!