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2018年9月3日月曜日

隠蔽記憶と「暗闇に蔓延る異者としての身体」

フロイトが隠蔽記憶 Deck-Erinnerung(スクリーンメモリー)と呼ぶものは、トラウマ的真理を覆うように定められた幻想形成である。(ジジェク、Less than nothing, 2012)

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さてフロイトと中井久夫をめぐった「異物としての隠蔽記憶」に引き続き、ラカンの隠蔽記憶をめぐる発言を三つ掲げよう。とはいえひどく難解である。

(幻想を以て)我々は何かの現前のなかにいる。記憶の流れ le cours de la mémoire をスナップショット l'état d'instantané に凍りつかせて還元する fige, réduit 何かーー隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir-écran、Deckerinnerung )と呼ばれるある点で止まる何かの現前。

映画の動きを考えてみよう。素早く継起する動き、そして突然ある点で止まり、全登場人物が凍りつく。このスナップショットは、フルシーン scène pleine の還元の特色である…幻想のなかで不動化されているもの、そこには全てのエロス的機能valeurs érotiques が積み込まれたままである…そこではフルシーンが表現したものを含み、そして幻想が目撃したものと支えたもの、その居残った最後の支え le dernier support restant が含まれるている…(ラカン、S4、16 Janvier 1957)
隠蔽記憶はたんに静止画像(スナップショット instantané)ではない。記憶の流れ(歴史 histoire)の中断 interruption である。記憶の流れが凍りつき fige 留まる arrête 瞬間、同時にヴェールの彼岸 au-delà du voile にあるものを追跡する動きを示している。(ラカン、S4 30 Janvier 1957 )
スクリーンはたんに現実界を隠蔽するものではない L'écran n'est pas seulement ce qui cache le réel。スクリーンはたしかに現実界を隠蔽している ce qui cache le réelが、同時に現実界の徴でもある(示している indique)。…我々は隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir écran)を扱っているだけではなく、幻想 fantasme と呼ばれる何ものかを扱っている。そしてフロイトが表象représentationと呼んだものではなく、フロイトの表象代理 représentant de la représentation を扱わねばならないのである。(ラカン、S13、18 Mai 1966 )

冒頭の文は、ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa、ーージジェクにより彼が20才代のときに紹介された「新しい世代のラカン派リーダー」とされるロレンゾーーによる解釈を「歩く隠蔽記憶」で記したので、ここではくり返さない。

三番目の文に現れる「表象代理 représentant de la représentation」とは何か。これは欲動代理と等価であるのを「S(Ⱥ)と表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)」を見たので、これもくり返さない。

とはいえフロイト文を一つだけ引用しておこう。

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)

欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧(放逐)により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

蚊居肢子の観点においてのみの結論を先に言ってしまえば、「暗闇に蔓延る異者としての身体」、これが隠蔽記憶である。いやこれではあまりに曖昧である。隠蔽記憶は「暗闇に蔓延る異者としての身体」として作用するとすくなくとも言い直さなければならない。

異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、1976)

ーー「肢子」はもはやここで固まっているし、厳密さをまったく期さない性格をもっているので、誤読があるかもしれないことを強調しておこう。

 ところでラカンは表象代理とは対象aだとも言っている。

絵自身のなかにある表象代理とは、対象aである。ce représentant de la représentation qu'est le tableau en soi, c'est cet objet(a) (ラカンS13, 18 Mai l966)  

この対象aこそ前回「異物としての隠蔽記憶」で記した「異物」であり、異者としての身体である。これについて「蚊居肢」の放浪する半身「仮厦」が説得的に示しているので参照されたし、→「トラウマ界」。

とはいえより簡潔に異物、すなわち中井久夫の言う《語りとしての自己史に統合されない「異物」》としての幼児型記憶刻印でよいのである。あるいは原刻印としての喉に突き刺さった《骨、文字対象a [« osbjet », la lettre petit a]》( Lacan, S23、11 Mai 1976)

フロイトの記述は次の通り。

トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

この異物が、ラカンの現実界の症状(原症状・サントーム)である。

症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)

結局すべての核心は、「身体的なもの」は「心的なもの」へとすべて越境されるわけではないということである。ゆえに「暗闇に蔓延る異者としての身体」が生じるのである。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために「置き残される(居残る)」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ2001, BEYOND GENDER From subject to drive by Paul Verhaeghe)

ラカンが次のように言っているのも、この現実界(言語外・象徴界外)のなかへの居残りのことである。

ひとりの女はサントーム(=欲動の固着)である une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)

ようは《象徴界に拒絶されたものは、現実界のなかに回帰する Ce qui a été rejeté du symbolique réparait dans le réel.》(ラカン、S3, 07 Décembre 1955)のである。

ここでフロイトに戻ろう。

問題となる経験(トラウマ的出来事)に、は、おおむね完全に忘却されている。記憶としてはアクセス不能で、幼児型健忘期 Periode der infantilen Amnesieの範囲内にある。その経験は、「隠蔽記憶 Deckerinnerungen」として知られる、いくつかの分割された記憶残滓 Erinnerungsresteへと通常は解体されている durchbrochen …

忘れられた経験を想起する vergessene Erlebnis zu erinnern こと、よりよく言えば、その経験を現実的なもににする real zu machenこと、忘れられたものをふたたび反復経験すること Wiederholung davon von neuem zu erleben…これは、トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma 、あるいは反復強迫 Wiederholungszwang の名の下に要約しうる。…そしてそれは不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge である。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)

トラウマへの固着とあるが、トラウマへの欲動の固着(リビドーの固着)である。そしてリビドーの固着の残りもの、これが異物である。すなわち《以前のリビドー固着の残存物 Reste der früheren Libidofixierungen》、あるいは《残存現象 Resterscheinungen》(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

※参照:ラカンの対象aとフロイトの残存現象

ここで「ラカンの数学」にて示した次の図を援用してもよい。



身体の上への刻印「一」は、「一」ではない。《常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)  》(ラカン、S20、16 Janvier 1973)

あるいは常に《「一」と身体がある Il y a le Un et le corps》。

ラカンがサントーム sinthome を「一のようなものがある Y'a d'l'Un」に還元 réduit した時、「一のようなものがある」は、臍・中核としてーー シニフィアンの分節化の残滓のようなものとして--「現実界の本源的繰り返し réel essentiel l'itération」を放つ。ラカンは言っている、「二」はないと。この繰り返しitération において、自ら反復するse répèteのは、ひたすら「一」である。しかしこの「一 」は身体ではない。 「一」と身体がある Il y a le Un et le corps。これが、ラカンが「シニフィアンの大他者 l'Autre du signifiant」を語った理由である。シニフィアンの大他者とは、身体である。(Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse Hélène Bonnaud、2012-2013, PDF

ようするにこうなる。




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閑話休題。

ところでフロイトはフェティッシュと隠蔽記憶を結びつけて記述している。

病因的固着 pathologische Fixierungen において…最初のフェティッシュの発生 Auftreten des Fetischの記憶の背後に、埋没し忘却された性発達の一時期が存在している。フェティッシュは、「隠蔽記憶 Deckerinnerung 」としてdurch、この時期の記憶を代理表象vertretenし、したがってフェティッシュとは、この記憶の残滓と沈殿物 Rest und Niederschlag である。(フロイト『性欲論三篇』1905年、1920年注)

フェティッシュ論文には、隠蔽記憶という語は出現しない。だが以下の文を読めば、隠蔽記憶と相同的なものを語っているのは明らかである。

フェティッシュが定められる場合のほとんどは、ある過程が起こる。それは外傷性健忘traumatischer Amnesie における記憶の中断 Haltmachen der Erinnerung を思い起こさせ、主体の関心が中途半端に停止してしまったかのようである。不気味な外傷的印象Eindruck vor dem unheimlichen, traumatischen の直前にある最後の印象がフェティッシュとして記憶にとどまるかのようである。(フロイト『フェティシズム』1927年)

とはいえここでは 《フェティッシュは女性のファルス(母のファルス)の代理物である。der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) 》(『フェティシズム』)などという話をしないでおこう、女性にはオチンチンがないことが究極の「トラウマ的真理」などと言うことは。

もっとも冒頭に引用したジジェク文の「隠蔽記憶」を「フェティッシュ」に置き換えて読むのは容易い。

フロイトが隠蔽記憶 Deck-Erinnerung(スクリーンメモリー)と呼ぶものは、トラウマ的真理を覆うように定められた幻想形成である。(ジジェク、Less than nothing, 2012)

・・・もはや言うことはないが、参考のため次の二文を付記しておこう。

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、欲動の固着 (リビドーの固着 Fixierungen der Libido )を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917) 
外傷神経症は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1917年)

ラカンのサントームが、フロイトの欲動の固着と等価であるのは、「S(Ⱥ)と「S2なきS1」で示した。そこからジャック=アラン・ミレールの一文だけ再掲しておこう。

「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)

最後に上に引用したモーセと一神教の文をふたたび引用する。

忘れられたものをふたたび反復経験すること Wiederholung davon von neuem zu erleben…これは、トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma 、あるいは反復強迫 Wiederholungszwang の名の下に要約しうる。…そしてそれは不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge である。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)

ニーチェ主義者としての蚊居肢散人はここでニーチェを引用せざるをえない。

個性を持っている者なら、常に回帰する己れの典型的経験を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer Wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

もちろんこう引用してもよいのである。

結局誰にせよ、何事からも、従って書物からも、自分がすでに知っている以上のものを聞き出すことはできないのだ。体験上理解できないものに対しては、人は聞く耳をもたないのだ。ひとつの極端な場合を考えてみよう。ある書物が、人がたびたび経験することができないばかりか、ほんの稀にも経験できないような体験ばかりを語っているとするーーつまり、その書物が、一連の新しい経験を言い表わす最初の言葉であるとする。この場合には、全く何も耳にきこえない。そして何もきこえないところには何も存在しない、という聴覚上の錯覚が起こるのである。(ニーチェ『この人を見よ』)

「蚊居肢子」と異なりいくらかの厳密さを期す「わたくし(綿串)」がこの稿に出現しなかったには、日本なる知的退行共同体では、精緻に記しても《全く何も耳にきこえない》のがよく分かっているからである。ただフロイト・ラカン研究者のなかの何人かが20年後にはすこしは耳に聞こえるようになるのを祈るばかりである・・・とこれは蚊居肢子でも綿串でもなく「ボク」が呟くのである。





ああ、何もかもつまらんという言葉が
坦々麺を食べてる口から出てきた