われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。(プルースト「逃げさる女」)
このところいくらかまとめて観ているすべての映像作品、あれら名高い「パスカル」は、(今の心持では)次の「石鹸の広告」に格段に劣る。いくらかの不満があるとすれば、女の、とくに少女の姿がないことである。
前畑電停の向こうにみえるのが旭町電停である。実家は右に百メートルほどのところにあった。母が好きだった「うどん屋」はあの電停の左傍にあった。いくらか精神を病んでいた母は、突然家からいなくなることがあった。「うどん屋」の前に佇んでいたこともあったらしい。
そして歩道橋の右手にはボクが通った旭小学校がある。
前畑電停を右に行けば、「三八」ーー、三の日と八の日に開かれる路上朝市ーーの場である。ここで八丁味噌をふんだんに使った香ばしい五平餅を買うのがとても楽しみだった。
前畑電停から路面電車は坂道を上り、遠ざかってゆく。坂をすこし下りたところにあるのが、坂上電停である。尻を向けて遠ざかってゆくので、いままでの記述と左右反対になるが、左に一キロほどいけば中学校がある。右に半キロいって、左に曲がり半キロいくと、ボクのジルベルトの家があった。ジルベルトを家に送っていく途中、ここまで、と言われ、足早に去ってゆく彼女の後姿をよく目で送った。ボクたちの家は中学校区の東の境界と南の境界にあったのである。
(侯孝賢、童年往事) |
ああ、そして十四才のときには、坂上電停から大きな交差点の一つ手前の路地を左に三十メートルほどはいったところにあった、大きな敷地をもった廃屋の庭奥が、ジルベルトとの密かな抱擁の場だった。
⋯⋯私たちはからみあって組みうちをするのだった。私は彼女をひきよせようとし、彼女はしきりに抵抗する。奮闘のために燃えた彼女の頬は、さくらんぼうのように赤くてまるかった。彼女は私がくすぐったかのように笑いつづけ、私は若木をよじのぼろうとするように、彼女を両脚のあいだにしめつけるのであった、そして、自分がやっている体操のさなかに、筋肉の運動と遊戯の熱度とで息ぎれが高まったと思うまもなく、奮闘のために流れおちる汗のしずくのように、私は快楽をもらした、私にはその快楽の味をゆっくり知ろうとするひまもなかった、たちまち私は手紙をうばった。するとジルベルトはきげんよくいった、
「ねえ、よかったら、もうしばらく組みうちをしてもいいのよ。」
おそらく彼女は私の遊戯には私がうちあけた目的以外にべつの目的があるのをおぼろげながら感じたのであろう、しかし私がその目的を達したことには気がつかなかったであろう。そして、その目的を達したのを彼女に気づかれることをおそれた私は(すぐあとで、彼女が侮辱されたはずかしさをこらえて、からだをぐっと縮めるような恰好をしたので、私は自分のおそれがまちがっていなかったのをたしかめることができた)、目的を達したあとの休息を静かに彼女のそばでとりたかったのだが、そんな目的こそほんとうの目的であったととられないために、なおしばらく組うちをつづけることを承諾した。(プルースト『花咲く乙女たちのかげに』)
ジルベルトとは高校は別々になった。当時の故郷の町では、ボクたちの年から学校群制度というものが導入され、四校の公立高校は、二校ずつの二つの学校群となった。同じ学校群を選んでも、別々の高校に入ることになったのである。ジルベルトの父は、ボクがはいりそこねた名門高校の教師をしていた。
高校入学後のジルベルトが、一年上の男と一緒に通学しているのを見たのは、混雑している市電のなかであった。一番後ろに手すりをもって男に寄り添っていた。そのときの軀の震えの感触はいつまでたっても消えない。
(侯孝賢、戀戀風塵) |
高校時代はじつに鬱屈した生を送っていた。バッハをよくきいた。バッハばかりをきいていた。ボクのおおくのレミニサンスは音楽が伴奏にある。今回は高校時代にひどく愛したバッハである。
だが大学に入った十八才の夏休み、坂上電停から右に五十メートルほどいったところにある陸軍墓地にて、ジルベルトと昼下がり、彼女の腰を墓碑台座にのせ無我夢中で初めての性交をした。閑散とした静けさのなか、樟がざわめき、蝉が鳴いていた。そのときようやく三年をへて彼女からの愛をとりもどした、すくなくともそのつもりになった(参照:あのとき、あなたは何を考えていたのですか)。
思えばボクの十代の強烈な出来事は、ほとんどすべて旭町電停から坂上電停までのあいだで起こった・・・、ーーと言えば言い過ぎだが、今はそういいたい。
きょうの私自身は、見すてられた石切場にすぎず、その私自身はこう思いこんでいる、この石切場にころがっているものは、みんな似たりよったりであり、同一調子のものばかりだと。ところが、そこから、一つ一つの回想が、まるでギリシアの彫刻家のように、無数の像を切りだすのだ。私はいおう、――われわれがふたたび見る一つ一つの事物が、無数の像を切りだす、と。
たとえば本は、その点に関しては、事物としてこんなはたらきをする、すなわち、その背の綴目のひらきかたとか、その紙質のきめとかは、それぞれそのなかに、りっぱに一つの回想を保存していたのであって、当時の私がヴェネチアをどんなふうに想像していたか、そこに行きたいという欲望がどんなだったか、といったことのその回想は、本の文章そのものとおなじほど生き生きしている。いや、それ以上に生き生きしているとさえいおう、なぜなら、文章のほうは、ときどき障害を来たすからで、たとえばある人の写真をまえにしてその人を思いだそうとするのは、その人のことを思うだけでがまんしているときよりも、かえってうまく行かないのである。
むろん、私の少年時代の多くの本、そして、ああ、ベルゴット自身のある種の本については、疲れた晩に、それらを手にとることがある、しかしそれは、私が汽車にでも乗って、旅先の異なる風物をながめ、昔の空気を吸って、気を休めたいと思ったのと変わりはなかった。しかも、求めてえられるその種の喚起は、本を長くよみつづけることで、かえってさまたげられることがあるものだ。ベルゴットの一冊にそんなのがある(大公の図書室にあるそれには、極端にへつらった俗悪な献辞がついていた)、それを私は、ジルベルトに合えなかった冬の一日に読んだ、そしていまは、あのように私が愛していた文章を、そこからうまく見つけだすことができない。いくつかの語が、その文章の個所を私に確信させそうだが、だめだ。私がそこに見出した美は一体どこへ行ったのか? しかしその書物自身からは、私がそれを読んだ日にシャン=ゼリゼをつつんでいた雪は、はらいのけられてはいなくて、私にはいつもその雪が目に見える。(プルースト「見出されたとき」)