このブログを検索

2018年4月18日水曜日

渥美線・飯田線・嵐山線



高校時代、路面電車(いわゆる市電)に乗って、二キロ先の渥美線始発駅まで行き、そこから十キロ強先の学校まで通った。寝坊すれば十二キロ先の学校まで自転車で行く。すると場合によっては渥美線を使う連中よりも先に着いた。

学校から南二キロ先には伊古部の海があった。自転車の日には、ときに帰宅とは反対方向の海に寄り道した。




半島は、伊古部海岸から、西端の伊良湖岬に向って延びていく。その途中に、このあたり唯一の赤羽根漁港がある。その「赤羽根」の鳩たちが、あの静かな屋根の上を歩んでいた晩夏の午後は強烈な印象が残っている、《一筋の思ひの後のこの報ひ、/神々の静けさへの長い眺め》(ヴァレリー)

とはいえ、神々の眺めの経験は後年にもしばしばあったと言ってもいい。だが途中のアスファルトの道に投げ出されていた干し草の香と、同時に出会った逃げ水の幻との遭遇は稀有の出来事だ。そして、ああ、あの《波紋のように空に散る笑いの泡立ち》(大岡信)・・・この笑いの泡立ちの記憶は、あの時固有のものだ。

⋯⋯⋯⋯

路面電車は、渥美線と同じように、現在は新型の車両に変ってしまっている。懐かしく思う旧型の映像はみつからないな、--と思っていたのだが、さきほど見出した。わたくしと同じように懐かしく思う人がいるのだろう、イベントPRで旧型がときに走るようだ。




ーーああ、あああ、あああああ、ナツカシクテ死ニソウニナル・・・この「前畑」とある電停の一つ前の電停をボクは使ったのである・・・歩道橋の右手にはボクの通った小学校があるのである・・・(この町は人口自体は減少していないのだが、中心部は過疎化が激しく、ボクの通った小学校は、かつて一学年、40人強のクラスが四クラスあり、つまり一学年170人から180人の生徒がいたのだが、いまでは20人前後の一クラスしかない)。

⋯⋯⋯⋯

夏休みには山の方に向かう飯田線をしばしば利用した。





当時は開閉の扉が手動の車両があった。たしか四両編成の、その後尾車両に乗ってしまうと、小さな駅ではプラットホームからはみ出て、線路に飛び降りるなどということがあった。

この三つの電車のなかでいろんな出来事が起こった。だから似たような映像に出会うと、レミニサンスに襲わてしまうことがままある。

童年往事・戀戀風塵・悲情城市」でも掲げたが、侯孝賢の作品のいくつかのシーンは似たような映像どころではない。




23才から30代半ばまでは京都に住んだ。11階建ての6階にあったマンションの部屋から阪急嵐山線の車両が桂川の向こうに通り過ぎるのを眺めた。低く雲がたれ込んだ雨の日には、電車が通り過ぎる音が、川面をはって低くきこえてくるようで、最初はとても珍しく、耳をすましてその響きに聴きいった。




この電車も鄙びていてとても美しく、通勤には一時的に使ったのみだが、土日にはしばしば利用した。