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2020年4月20日月曜日

秘密の妹の棘


図られたか!……身体の痛みの名残りのこの薄明かりの中で、
傷つき、さらに己を知られてしまったと思ふ……

Ô ruse !... À la lueur de la douleur laissée
Je me sentis connue encor plus que blessée...

魂のもっともきはどい急所に鋭い棘が生れた。
その毒はわが毒、私を照らし、己を知る毒、

Au plus traître de l’âme, une pointe me naît ;
Le poison, mon poison, m’éclaire et se connaît :

われとわが身を掻き抱く乙女は毒によって差らひの色を帯び、
嫉妬する……だが誰に脅え、誰に嫉妬するのか?

Il colore une vierge à soi-même enlacée,
Jalouse... Mais de qui, jalouse et menacée ?

私の唯一の持ち主に雄弁に語りかけるこの沈黙は?

Et quel silence parle à mon seul possesseur ?

何と!深い痛手の奥に秘密の妹が身を灼く。
妹は言ふ一一意識の極みの姉よりも私の方がずっと良いと。

Dieux ! Dans ma lourde plaie une secrète soeur
Brûle, qui se préfère à l’extrême attentive.

ーーポール・ヴァレリー「若きパルク La Jeune Parque」より(中井久夫訳)


妹の棘は夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる 
君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体 Leibと、その肉体のもつ大いなる理 grosse Vernunft なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである die sagt nicht Ich, aber thut Ich。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」1883年)
いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)
身を灼く妹の棘は書かれることを止めない
「記憶に残るものは灼きつけられたものである。傷つけることを止めないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。»Man brennt etwas ein, damit es im Gedächtnis bleibt: nur was nicht aufhört, wehzutun, bleibt im Gedächtnis« - das ist ein Hauptsatz aus der allerältesten (leider auch allerlängsten) Psychologie auf Erden.(ニーチェ『道徳の系譜』第2論文第3節、1887年)
人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (S 25, 10 Janvier 1978)
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

ああ、太陽……魂に何たる亀の影、
大股のアキレスが金縛り!

Ah! le soleil. . . Quelle ombre de tortue
Pour l’âme, Achille immobile à grands pas!

違ふ……立て!

Non, non!. . . Debout!
……
乙女の布裂く叫び

Les cris aigus des filles
……
絶対の水蛇のおのが青い身体に酔ひ、
燦めく尾を噛み続けてゐる、
沈黙に似たざわめきで、

Hydre absolue, ivre de ta chair bleue,
Qui te remords l’étincelante queue
Dans un tumulte au silence pareil,

ーーヴァレリー  「海辺の墓地 Le cimetière marin」より(中井久夫訳)

亀の影の個性刻印は永遠回帰する
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
症状は現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン『三人目の女 La Troisième』1974)
症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel,(Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 1974.11.30)
「病因的トラウマ ätiologische Traumen」は…自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚Sinneswahrnehmungen である。…これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約され、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3」1938年)
同一の体験の反復の中に現れる不変の個性刻印 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれは(ニーチェの)「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。…この運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなもの(反復強迫Wiederholungszwang)については、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

われわれは亀の影に生かされてる
ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我Ichと呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」»gelebt» werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächtenと。…

(この力を)グロデックに用語に従ってエスEsと名付けることを提案する。

グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがいつも使われている。(フロイト『自我とエス』1923年)
亀の影の意志
自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)
力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である。Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: …

すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...

「力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?ist "Wille zur Macht" eine Art "Wille" oder identisch mit dem Begriff "Wille"? ……

――私の命題はこうである。これまでの心理学における「意志」は、是認しがたい普遍化であるということ。そのような意志はまったく存在しないこと。 mein Satz ist: daß Wille der bisherigen Psychologie, eine ungerechtfertigte Verallgemeinerung ist, daß es diesen Willen gar nicht giebt, (ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)
エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。

… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

くらい鏡の割目からもりあがってくる水(〈水のもりあがり〉  )
女はもろもろの疑似割れ目を表現し(〈崑崙〉)
恥らう楕円のなかの裂け目で(〈神秘的な時代の詩〉 )
その真紅のデテールから(〈フォーサイド家の猫〉 )
亀裂の肉体を顕示せよ(〈使者〉 )

ーー吉岡実

亀裂の肉体の固着
フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(J.-A. MILLER, Le Partenaire Symptôme - 19/11/97)
われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwang の作用、その自動反復 automatisme de répétition (Automatismus) の記述がある。

そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求はリアルな何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un,  - 2/2/2011)
欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして固着する契機 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、リアルな無意識 eigentliche Unbewußteとしてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)





主体sujetとは……欲動の藪のなかで燃え穿たれた穴 rond brûlé dans la brousse des pulsionsにすぎない。(ラカン、E666, 1960)
享楽のなかの場は空虚化vidéeされている。享楽の藪la brousse de la jouissanceのなかの場は、シニフィアンの主体le sujet du signifiant が刻印されうる。(J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008)



果実が溶けて快楽(けらく)となるように、
形の息絶える口の中で
その不在を甘さに変へるやうに、
私はここにわが未来の煙を吸ひ
空は燃え尽きた魂に歌ひかける、
岸辺の変るざわめきを。

Comme le fruit se fond en jouissance,
Comme en délice il change son absence
Dans une bouche où sa forme se meurt,
Je hume ici ma future fumée,
Et le ciel chante à l’âme consumée
Le changement des rives en rumeur.
――ポール・ヴァレリー「海辺の墓地 Le Cimetière marin」第五節 中井久夫訳


ニーチェは永遠の愚行に堕ちこんだ。本能を弁護するという愚行、自然を弁護するという愚行に。(ヴァレリー『ニーチェに関する手稿』)
自然的本性を熊手で無理やり追いだしても、それはかならずや戻ってやってくるだろう。Naturam expellas furca, tamen usque recurret  (ホラティウス Horatius, Epistles)
世には、自分の内部から悪魔を追い出そうとして、かえって自分が豚のむれのなかへ走りこんだという人間が少なくない。nicht Wenige, die ihren Teufel austreiben wollten, fuhren dabei selber in die Säue.  (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「純潔」)




水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く(吉岡実)
をりふしにおとがひあげて 鶴さはに鳴く(蚊居肢)
死にますの 声に末期の 水をのみ (誹風末摘花)






紫草のにほへる妹を憎くあらば人嬬ゆゑにあれ恋ひめやも(天武天皇)

どの男も、母に支配された内部の女性的領域に隠れ場をもっている。男はそこから完全には決して自由になれない。(カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年)
母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への隷属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)




恋ひ死なば恋ひも死ねとや我妹子が吾家の門を過ぎて行くらむ(柿本人麿)






2019年10月13日日曜日

けやきの木の小路をよこぎる女のひと

小津の遺作『秋刀魚の味』ってのは、最近はじめ観たのだけど、21歳の岩下志麻ってのはとってもいいね。





原節子でもいいけどさ。けなすと小津ファンに怒られるからそう言っておくけど、ちょっとボクの趣味からするとオモイんだよな。




でもこうやって何度も観ていると、鼻の奥がキュンとなるね、ああ、オッカサン!

ま、いわゆる同じ構図のなかの女たち、その小津効果だけどさ。でもボクには幼少期、ほとんど同じ光景が毎日あったんだ。オッカサンはときにオバアチャンだったけど。


けやきの木の小路を
よこぎる女のひとの
またのはこびの
青白い
終りを

(⋯⋯)
路ばたにマンダラゲが咲く

ーー西脇順三郎『禮記』


蚊居肢散人はあれらを「行ったり来たりする神効果」と呼んでいる。

母の行ったり来たり allées et venues de la mère⋯⋯行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ? (ラカン、S5、15 Janvier 1958)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)





荷風のいう「路地の向こう効果」でもいいけど。

路地を通り抜ける時試に立止つて向うを見れば、此方は差迫る両側の建物に日を遮られて湿つぽく薄暗くなつてゐる間から、彼方遥に表通の一部分だけが路地の幅だけにくつきり限られて、いかにも明るさうに賑かさうに見えるであらう。殊に表通りの向側に日の光が照渡つてゐる時などは風になびく柳の枝や広告の旗の間に、往来の人の形が影の如く現れては消えて行く有様、丁度灯火に照された演劇の舞台を見るやうな思ひがする。夜になつて此方は真暗な路地裏から表通の灯火を見るが如きは云はずとも又別様の興趣がある。川添ひの町の路地は折々忍返しをつけた其の出口から遥に河岸通のみならず、併せて橋の欄干や過行く荷船の帆の一部分を望み得させる事がある。此の如き光景は蓋し逸品中の逸品である。(永井荷風『路地』)


2019年5月9日木曜日

時間の無駄

まだ言ってるんだな、時間の無駄だよ

結局のところ、人が愛するのは自分の欲望であって、欲望の対象ではない。Man liebt zuletzt seine Begierde, und nicht das Begehrte.(ニーチェ『善悪の彼岸』第175番、1886年)
愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第2版1970年)
愛自体は見せかけに宛てられる L'amour lui-même s'adresse du semblant。…イマジネールな見せかけとは、欲望の原因としての対象a[ (a) cause du désir」を包み隠す envelopper 自己イマージュの覆い habillement de l'image de soiの基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)
想像界 imaginaireから来る対象、自己のイマージュimage de soi によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。(ミレール 、Première séance du Cours 2011)


きみのディスクールはすべて二次ナルシシズムで成り立ってるのは瞭然としてるんだけどな。

自我のナルシシズムNarzißmus des Ichs は二次的なもの sekundärer(二次ナルシシズムsekundärer Narzißmus )である。(フロイト『自我とエス』第4章、1923年)
われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)





ーーいやあすばらしいな、欲望の対象としてではなく欲望の原因として。






ラカン曰く、《愛を語ること自体が享楽である Parler d'amour est en soi une jouissance》(S20, 13 Mars 1973 )。しかし、愛の言葉 la parole d'amour はけっして真理の言葉ではない。パートナーについて語っているという思い込みは、実は、主体が己れの享楽との関係に満足を与えているにすぎない。ラカンはあれやこれやと言う…。結論。《愛は不可能である L'amour est impossible》。 いくつものセリエが重なってゆく。自己愛的、嘘吐き、錯誤的、喜劇的、不可能。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)

ま、これががお好きなら死ぬまで続けたらいいんだけど。勝手にね。ナルシストドツボの女を愛しつづける男もいるらしいからな。とくに神経症トツボの男のなかにはね。

でも神経症者の不幸ってのはあるんだ。

ラカンはセミネール10「不安」にて、初めて「対象-原因 objet-cause」を語った。…彼はフェティシスト的倒錯のフェティッシュとして、この「欲望の原因としての対象 objet comme cause du désir」を語っている。フェティッシュは欲望されるものではない le fétiche n'est pas désiré。そうではなくフェティッシュのお陰で欲望があるのである。…これがフェティッシュとしての対象a[objet petit a]である。

ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。…

倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表している。…

不安セミネールでは、対象の両義性がある。「原因しての対象 objet-cause 」と「目標としての対象 objet-visée」である。前者が「正当な対象 objet authentique」であり、「常に知られざる対象 toujours l'objet inconnu」である。後者は「偽の対象a[faux objet petit a]」「アガルマagalma」である。…

前者の(倒錯者の)対象a(「欲望の原因」)は主体の側にある。…

後者の(神経症における)対象a(「欲望の対象」)は、大他者の側にある。神経症者は自らの幻想に忙しいのである。神経症者は幻想を意識している。…彼らは夢見る。…神経症者の対象aは、偽のfalsifié、大他者への囮 appât である。…神経症者は「まがいの対象a[petit a postiche]」にて、「欲望の原因」としての対象aを隠蔽するのである。(ジャック=アラン・ミレールJacques-Alain Miller、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 、2004年、摘要訳)


すこしは倒錯者をみならって(?)、サントームに近づくべきだと思うけど、ま、ご自由に。

倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム sinthome(原症状)概念が見出される。(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。(ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)




(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)


そもそも高所恐怖症なんだよ、ボクは。

自我がひるむような満足を欲する欲動要求 Triebanspruch は、自分自身にむけられた破壊欲動 Destruktionstriebとしてマゾヒスム的でありうる。おそらくこの付加物によって、不安反応 Angstreaktion が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺する場合が説明される。高所恐怖症 Höhenphobien(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近似している ihre geheime feminine Bedeutung steht dem Masochismus nahe。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)




2019年2月2日土曜日

おまえは女に惚れたことないだろ

の前ひとりでやけ酒飲んでいましたよ
もういただいていいんでしょうか

「おまえは女に惚れたことないだろ」
と五年先輩に言われたことがある。
同じ大学の同じ学部出の男で二人で酒を飲んでいた。
彼は少女のような同僚の女にひどい恋におちいっていた。

内心こう呟いた、
一世一代の恋を十四才でしてしまったからな
あとはどの女ともアソビだよ
ないね、あれ以降は。





2018年12月30日日曜日

撞玉のエロス

◆ゴダールの探偵 Détective (1985年)



◆百年恋歌(最好的時光、侯孝賢(2005年)




2018年12月11日火曜日

美の起源はトラウマである

我々の全言説は現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel である。(ジャック=アラン・ミレール、 Clinique ironique 、 1993)
美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ジャック=アラン・ミレール、L'inconscient et le corps parlant、2014)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

ーートラウマ=穴、《「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」》(S21、19 Février 1974)


したがって(ラカン派においては)美は穴に対する最後の防衛である。





美には傷 blessure 以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)


2018年12月9日日曜日

マザコンとナルコンの対決

ああ、男はみなマザコンだよ、その強度の差はあれね。

で、女ってのはなんなんだい? 「正常」ってわけかい? 女ってのはナルコンだよ、ナルシシズムコンプレクス(観念複合)だよ、ほとんどの場合ね。

マザコンとナルコンの対決なだけさ。

ラカンがセミネール10で示しているトーラス円図が何種類もあるけれど、そのなかの男女関係にかかわるものを抜き出せば次の図がある。




最後の右側の円の大他者とは、もともとは母。

全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母 mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.(ラカン、S17、11 Février 1970)

この大他者の場に女が入るのが第一番目の図。標準的な女は「母との同一化」をするからな。

母との同一化とは、母の場に自らを置き、①母が彼女を愛したように自らを愛する。②母が父から愛されたように父から愛される、ということ。③のちに父は男に変換される(場合が多い)。

女性の母との同一化 Mutteridentifizierung は二つの相に区別されうる。つまり、①前エディプス期 präödipale の相、すなわち母への愛着 zärtlichen Bindung an die Mutterと母をモデルとすること。そして、②エディプスコンプレックス Ödipuskomplex から来る後の相、すなわち、母から逃れ去ろうとして、母の場に父を置こうと試みること。(フロイト『続・精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」、1933年)
女児の人形遊び Spieles mit Puppen、これは女性性 Weiblichkeit の表現ではない。人形遊びとは、母との同一化 Mutteridentifizierung によって受動性を能動性に代替する Ersetzung der Passivität durch Aktivität 意図を持っている。女児は母を演じているのである spielte die Mutter。そして人形は彼女自身である Puppe war sie selbst。(フロイト『続・精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」1933年)

母との同一化は、原初の母子関係に必ずあるマザコンから逃れる方法なのさ。

母との同一化は、母との結びつきの代替となりうる。Die Mutteridentifizierung kann nun die Mutterbindung ablösen(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

で、おめでとう、マザコンさらば! ということになる。

二個の者が same space ヲ occupy スル訳には行かぬ。甲が乙を追い払うか、乙が甲をはき除ける二法あるのみぢや。甲でも乙でも構はぬ強い方が勝つのぢや。理も非も入らぬ。えらい方が勝つのぢや。上品も下品も入らぬ図々敷方が勝つのぢや。賢も不肖も入らぬ。人を馬鹿にする方が勝つのぢや。礼も無礼も入らぬ。鉄面皮なのが勝つのじや。人情も冷酷もない動かぬのが勝つのぢや。(夏目漱石「断片」 明治38−39年)

男には基本的にはこれはおこらない。だからマザコンのままなのさ、その多寡はあれ。

男性の場合、栄養の供給や身体の世話などの影響によって、母が最初の愛の対象 ersten Liebesobjekt となり、これは、母に本質的に似ているものとか、彼女に由来するものなどによって置き換えられるようになるまでは、この状態がつづく。

女性の場合にも、母は最初の対象 erste Objekt であるにちがいない。対象選択 Objektwahl の根本条件は、すべての小児にとって同一なのである。しかし、発達の終りごろには、男性である父が愛の対象となるべきであって、というのは、女性の性の変換には、その対象の性の変換が対応しなくてはならないのである。(フロイト『女性の性愛』1931年)

もっともかつては父が機能していたから、いくらかマザコン度はすくなかったさ。でもフェミニストたちの家父長制打倒!というスローガンのもと、父は蒸発しちゃったからな。いっそうマザコン男が跳梁跋扈するようになったのさ、21世紀は。

父の隠喩は、母を女に移行する La métaphore paternelle transforme la mère en femme。(LES TROIS PERES ou la fonction paternelle
エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)


フロイト的に言えばこうだ。

父との同一化、つまり自らを父の場に置くこと。Identifizierung mit dem Vater, an dessen Stelle er sich dabei setzte. (フロイト『モーセと一神教』1939年)

で現在、父と同一化しようがなくなっちまったのさ。

単純な場合、男児では次のように形成されてゆく。非常に幼い時期に、母にたいする対象備給 Mutter eine Objektbesetzung がはじまり、対象備給は哺乳を出発点とし、依存型 Anlehnungstypus の対象選択の原型を示す一方、男児は同一化 Identifizierung によって父をわがものとする。この二つの関係はしばらく並存するが、のちに母への性的願望 sexuellen Wünsche がつよくなって、父がこの願望の妨害者であることをみとめるにおよんで、エディプス・コンプレクスを生ずる。ここで父との同一化 Vateridentifizierung は、敵意の調子をおびるようになる、母にたいする父の位置を占めるために、父を除外したいという願望にかわる。そののち、父との関係はアンビヴァレントになる。最初から同一化の中にふくまれるアンビヴァレントは顕著になったようにみえる。この父にたいするアンビヴァレントな態度と母を単なる愛情の対象として得ようとする努力が、男児のもつ単純で積極的なエディプス・コンプレクスの内容になるのである。

エディプス・コンプレクスが崩壊するときには、母の対象備給 Objektbesetzung der Mutter が放棄(止揚 aufgegeben)されなければならない。そしてそうなるためには二通りの道がありうる。すなわち、母との同一化 Identifizierung mit der Mutter か父との同一化の強化 Verstärkung der Vateridentifizierung のいずれかである。後者の結末を、われわれはふつう正常なものとみなしている。これは、母にたいする愛情の関係をある程度までたもつことをゆるす。(フロイト『自我とエス』1923年)

ーーいやあ、この文、オレ嫌いだけど、ま、しょうがないや、父との同一化を示すためには。

さっき掲げたラカンのセミネール10の三つのトーラス円図を組み合せれば、こうだ。





(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)

で、-φ の上の φ とは、《フェティッシュとしての見せかけ [semblant comme le fétiche]》(ミレール 、la Logique de la cure 、1993)

フェティッシュとしての見せかけφとは、ラカン派で基本的に使用されるマテームであるなら、見せかけとしてのa。

つまりこういうこと。



さきほど引用したフロイトの男女の発達段階的相をこのマテームを使ってトーラス円図で示せば、次のようになる。




ああ、存在自体がフェティシスト(a = 見せかけ φ ーーの女!

女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)

これが男性の愛の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女性の愛の《被愛マニア形式 la forme érotomaniaque》(ラカン、E733、1960年)ってことだよ。で被愛マニアの実践として、女性の仮装性がある。

女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装性 mascarade féminine と呼ぶことのできるものの彼方 au-delà に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958)

「女性は関係性を大切にする」という表層的で雑なラカン注釈がフェミニストたちに好まれて巷間に流通しているが、その真の意味は、女性は自ら想像的ファルスとなって関係性を求めるということで、女は存在自体がフェティシストってことだよ(参照)。

これが被愛マニアや女性の仮装性の第一の意味。

女の最大の技巧は仮装 Luege であり、女の最大の関心事は見せかけ Schein と美しさ Schoenheit である。(ニーチェ『善悪の彼岸』232番、1886年)

ーーいやあ、これでぜんぜん悪くはないさ。

女は仮面であるからこそ、男の欲望 Verlangen des Mannes を最も強く刺激するのである。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』第1部405番、1878年)
男を女へと結びつける魅力について想像してみると、「擬装した人 travesti」として現れる方が好ましいのは広く認められている。仮面 masques の介入をとおしてこそ、男と女はもっとも激しく、もっとも燃え上がって la plus aiguë, la plus brûlante 出会うことができる。(ラカンS11、11 mars 1964)

ーーああ、愛すべき女たち!

女のほうが完全に勝っているのを認めるのに吝かではないさ。おまんこの吸引力があるからな、抵抗しようがないさ。





でも大切なのは、男たちのマザコンをバカにするんじゃなくて、自らのナルコンぶりをまず自覚することだよ、わかるかい?

他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)


ーーああおバカなこと書いちまったな、ま、いいか。日曜日だからな。

でもどうみたって男は勝ち目がないや、こういうことされたら。





※補足→ 人はみなナルシシストである



2018年12月7日金曜日

俺の中のうその真珠




ここで、咳 Husten や嗄れ声 Heiserkeit の発作に対して見出したさまざまな決定因を総括してみたい。最下層には「器官的な誘引としてのリアルな咳の条件 realer, organisch bedingter Hustenreiz」 があることが推定され、それは「真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 」のようなものである。

この刺激は固着しうる Reiz ist fixierbar が、それはその刺激がある身体領域と関係するからであり、ドラの場合、その身体領域 Körperregionが性感帯 erogenen Zone としての意味をもっているからなのである。したがってこの領域は興奮したリビドー erregten Libidoを表現するのに適しており、(このカタル Katarrhs)はおそらく、最初の心的変装 psychische Umkleidungである。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片 Bruchstück einer Hysterie-Analyse(症例ドラ)』1905年)



現勢神経症は(…)精神神経症に、必要不可欠な「身体側からの反応 somatische Entgegenkommen」を提供する。現勢神経症は刺激性の(興奮を与える)素材を提供する。そしてその素材は「心的に選択され、心的外被 psychisch ausgewählt und umkleidet」を与えられる。従って一般的に言えば、精神神経症の症状の核ーー真珠の核にある砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perleーーは身体-性的な発露から成り立っている。(フロイト『自慰論』Zur Onanie-Diskussion、1912年)



現勢神経症 Aktualneurosenの三つの純粋な形式 drei reine Formenは、神経衰弱Neurasthenie,、不安神経症 Angstneurose、心気症 Hypochondrie である。…

現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核Kernであり、先駆け Vorstufe である。この種の関係は、神経衰弱 neurasthenia と「転換ヒステリー Konversionshysterie」として知られる転移神経症 Übertragungsneurose、不安神経症 Angstneurose と不安ヒステリー Angsthysterie とのあいだで最も明瞭に観察される。しかしまた、心気症 Hypochondrie とパラフレニア Paraphrenie (早期性痴呆 dementia praecox と パラノイア paranoia) の名の下の障害形式のあいだにもある。

ヒステリー 的頭痛あるいは腰痛を例にとろう。分析が示すのは、これは、圧縮Verdichtungと置換 Verschiebung を通しての、一連の全リビドー 的幻想 libidinösen Phantasien あるいは記憶 Erinnerungen にとっての代理満足 Befriedigungsersatz だということである。

しかしこの苦痛はかつてはリアルなものだった Schmerz war auch einmal real。当時、この苦痛は直接の性的中毒症状 sexualtoxisches Symptom だった。すべてのヒステリー症状は、このような核 Kern をもっていると主張するどんな手段もわれわれは持たないが、これはきわめてしばしば起こっており、リビドー 興奮 libidinöse Erregung による身体の上への影響 Beeinflussungen des Körpers の全標準的あるいは病因的なものは、ヒステリー症状形成 Symptombildung der Hysterie の殆どの支柱である。

したがってリビドー興奮は、「母なる真珠の実体 Perlmuttersubstanz の層もった真珠貝を包む砂粒 Sandkorns, welches das Muscheltier mit den Schichten von Perlmuttersubstanz 」の役割を果たす。同様に、性行為 Geschlechtsakt をともなう性的興奮 sexuellen Erregung の一時的徴 vorübergehenden Zeichenは、精神神経症によって、症状形成にとっての最も便利で適当な素材としてつかわれる。(フロイト『精神分析入門』第24章、1917年)



われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。……

原抑圧 Verdrängungen (=リビドーの固着)は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現れ、抑圧Verdrängungenは精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。(……)

現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。(……)

外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)



⋯⋯⋯⋯

※付記

フロイトのよく知られた隠喩、《真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet》。この砂粒とは現実界の審級にあり、砂粒に対して防衛されなければならない。真珠は砂粒への防衛反応であり、封筒あるいは容器、すなわち症状の可視的な外部である。内側には、元来のリアルな出発点が「異物」として影響をもったまま置き残されている。

フロイトはヒステリーの事例にて、「身体からの反応 Somatisches Entgegenkommen)」ーー身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前しているという事実ーーについて語っている。フロイト理論のより一般的用語では、この「Somatisches Entgegenkommen」とは、いわゆる「欲動の根 Triebwurzel」、あるいは「固着 Fixierung」点である。ラカンに従って、我々はこの固着点のなかに、対象a を位置づけることができる。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics,、2004)

この直後、「症状の線形展開図」にて示した次の図があらわれる。



ーーこの図にて境界表象S1とあるのが、欲動の固着のことだ。


そしてもう一文、ラカンのサントームに特化した論文から。

フロイトによる無意識の発見以来、病理過程は「防衛」を基礎に説明されている。そこでは「抑圧(追放・放逐)」が際立った場を占めている。フロイト以後、多かれ少なかれ、忘れられてしまっているのは、病理力動性内部における抑圧自体は既に二次的なものであるということである。実際は、抑圧とは欲動に対する防衛過程の加工 elaboration に過ぎない。

フロイトはその理論の最初から、症状には二重の構造があることを識別していた。一方には「欲動」、他方には「プシュケ(心的なもの)」である。ラカン用語なら、現実界と象徴界である。

これはフロイトの最初の事例研究「症例ドラ」に明瞭に現れている。この事例において、フロイトは防衛理論については何も言い添えていない。防衛の「精神神経症」については、既に先行する二論文(1894, 1896)にて詳述されている。逆に「症例ドラ」の核心は、症状の二重構造だと言い得る。フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動に関する要素である。彼はその要素を「身体側からの対応 Somatisches Entgegenkommen」という用語で示している。この語は、後の論文『性欲論三篇』にて、「欲動の固着 Fixierung der Libido、fixierten Trieben」と呼ばれるようになったものである。

この観点からは、ドラの転換症状は、二つの視野から研究することができる。一つは、象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは抑圧された心因性の代理表象(咳や嗄れ声等)。もう一つは、現実界的なもの、すなわち欲動に関するもの、ドラの事例では口唇欲動である。

フロイトは後の全ての事例研究でも、この症状の異種混合を立証している。少年ハンスの恐怖症は、口唇欲動・肛門欲動・覗見欲動の「上に/対して」構築されている。鼠男の強迫症は、覗見欲動・肛門欲動の上の構築物。狼男の恐怖症と転換症状も、同様に覗見欲動・肛門欲動の上のそれである。

この二重構造の光の下では、どの症状も二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換症状は《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66)に帰着する。つまり欲動の現実界へ象徴的形式を与えるものである。したがって症状とは、享楽の現実界的核のまわりに設置された構築物である。フロイトの表現なら、《真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 》(『あるヒステリー患者の分析の断片(症例ドラ)』1905)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way by Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq、2002)




※「異物 Fremdkörper 」についての詳細は、「内界にある自我の異郷 ichfremde」を参照。


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母へのエロス的固着の残余は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への従属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


裏返せ裏返してくれ俺を
俺の中のうその真珠はくれてやるから
裏返してくれ裏返してくれ俺を
俺の沈黙だけそっとしといて
行かせてくれ俺を
俺の外へ
あの樹陰へ
あの女の上へ
あの砂の中へ

ーー谷川俊太郎「頼み」より(『あなたに』1960)


幼児期に「現在は忘却されている過剰な母との結びつき übermäßiger, heute vergessener Mutterbindung 」を送った男は、生涯を通じて、彼を依存 abhängig させてくれ、世話をし支えてくれる nähren und erhalten 妻を求め続ける。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


2018年12月4日火曜日

女なんかめじゃねえよお




2018年12月3日月曜日

青い空









2018年7月29日日曜日

愛されぬままに愛している人

愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)
愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』1970)


(Wim Wenders、Alice in den Städten 、1974)


あいしてる   谷川俊太郎 

あいしてるって どういうかんじ?
ならんですわって うっとりみつめ
あくびもくしゃみも すてきにみえて
ぺろっとなめたく なっちゃうかんじ

あいしてるって どういうかんじ?
みせびらかして やりたいけれど
だれにもさわって ほしくなくって
どこかへしまって おきたいかんじ

あいしてるって どういうかんじ?
いちばんだいじな ぷらもをあげて
つぎにだいじな きってもあげて
おまけにまんがも つけたいかんじ


いろいろな恋愛関係を眼にするたびに、わたしはこれを凝視し、自分が当事者だったらどのような場を占めていたかを標定しようとする。類似 analogies ではなく相同 homologies を知覚するのだ。 Xに対するわたしの関係は、 Zに対するY の関係に等しいことを確認するのである。そのとき、わたしとは無縁で未知ですらある人物、 Yについて聞かされることが、すべて、わたしに強い影響を与えることになる。わたしは、いわば鏡に捕らえられている。この鏡はたえず移動しており、二者構造 structure duelle のあるところならどこででもわたしを捕獲する。

さらに悪い状況を考えれば、このわたしが、自分では愛していない人から愛されていることもあるだろう。それは、わたしにとって助けとなる(そこから来るよろこび、あるいは気分転換によって)どころか、むしろ苦痛な状況である。愛されぬままに愛している人l'autre qui aime sans être aiméの内に、自分の姿を見てしまうからだ。わたし自身の身振りを目のあたりにしてしまうのだ。今や、この不幸の能動的代理人 agent actif はわたしである。わたしには自分が犠牲者であって同時に死刑執行人でもあると感じられる。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「同一化 Identifications」1977年)

2018年4月25日水曜日

彼女は私を六秒みつめた

ゴダールの映画に何度か現れる次の写真は、ルック・ドラエ Luc Delahaye, 1992 の作品のようだ。



以下の文に1995年となっているのは、1992年の間違いである(写真のキャプションには1992となっている)。

A picture taken in 1995 in Bosnia shows a pained woman lying on the ground, looking out at the photographer, her white blouse covered in blood. Her dog lies in front of her, also covered in blood and apparently dead. A bomb has just exploded. In the distant background, a man stands frozen. "She looked at me for six seconds," Delahaye said.

"I always tell myself that the risk is my entrance ticket," Delahaye said. "I don't wear a bulletproof vest, or drive around in an armored car. I undertake the same risks as the people I am covering. . . . The majority of photojournalists tell themselves they do this work because it is important, that if people can just see these problems in these parts of the world they will do something about them. I have never believed this. I even think that that is a con. You ask yourself if you have the right to be in such a crisis area. Is it legitimate to bend over someone who is about to die? Is it correct to photograph a dying woman?. . . I restore (the suffering) more effectively if I am able to adopt a certain detachment."(The Real Thing: Photographer Luc Delahaye by Bill Sullivan

ネット上で「Luc Delahaye, Sarajevo、Godard」で検索しても、奇妙にも情報が現われない。

ゴダールの作品には、『(複数の)映画史』と『アワーミュージック Notre musique』に次のような形で現れる。





すくなくとももう一箇所、この写真はゴダールの作品のどれかに現れた記憶があるのだが、気のせいかもしれない。

2分強の短編作品『こんにちはサラエヴォ Je vous salue, Sarajevo』における写真は、ロン・ハヴィヴ(Ron Haviv)によるもののようだ(参照)。



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ゴダールは、道に血まみれになっている女のイマージュを反復する映像作家である。



医者になりたいとかつて望んだ冒険好きな若い女(ゴダールの母オディール)は、中年になっても相変わらず冒険好きのままだった。当時の若者たちのあいだで、新しいイタリア製スクーター「ヴェスパ」は、大ブームだった。オディール・モノーは、父ジュリアン・モノーにヴェスパを買ってくれないかと頼んだ。1954年4月、午後9時半の夜、オディールのヴェスパはローザンヌの路上から落ちた。彼女は頭蓋骨骨折でほとんど即死だった。

ゴダールはジュネーブから病院に駆けつけた。しかし彼は葬式には参列しなかった。それは異様な堪え難い事態による。ポール・ゴダールは子供たちを伴ってモノー祖父に会いに駅に向かった。だがセシル・モノー Cécile Monod(ゴダールの祖母)にこう告げられた、「Monsieur, on ne veut pas vous voir ici (私たちはここであなた方にお会いしたくありません)」。屍体はアンシイAnthy(レマン湖畔のアンティ=シュル=レマン)に埋められ、墓碑にはオディール・ モノー Odile Monod と刻まれている。(Colin MacCabe、"Godard: A Portrait of the Artist at Seventy" 、2016、私訳)

ーーゴダールが24才のときの、ローザンヌ近郊の事故である。ゴダール自身も41才のとき、モーターバイク事故にあっている。

1971年6月、ゴダールは、彼の編集者 Christine Marsollier が運転するモーターバイクの事故で重傷を負った。…ゴダールは2年半以上ののあいだ病院を出たり入ったりした。そのあいだ、当時の同志であったアンヌ=マリー・ ミエヴィル Anne-Marie Miéville に看護されて回復に向かった。(Wheeler W. Dixon、The Films of Jean-Luc Godard、1997)


2018年4月18日水曜日

渥美線・飯田線・嵐山線



高校時代、路面電車(いわゆる市電)に乗って、二キロ先の渥美線始発駅まで行き、そこから十キロ強先の学校まで通った。寝坊すれば十二キロ先の学校まで自転車で行く。すると場合によっては渥美線を使う連中よりも先に着いた。

学校から南二キロ先には伊古部の海があった。自転車の日には、ときに帰宅とは反対方向の海に寄り道した。




半島は、伊古部海岸から、西端の伊良湖岬に向って延びていく。その途中に、このあたり唯一の赤羽根漁港がある。その「赤羽根」の鳩たちが、あの静かな屋根の上を歩んでいた晩夏の午後は強烈な印象が残っている、《一筋の思ひの後のこの報ひ、/神々の静けさへの長い眺め》(ヴァレリー)

とはいえ、神々の眺めの経験は後年にもしばしばあったと言ってもいい。だが途中のアスファルトの道に投げ出されていた干し草の香と、同時に出会った逃げ水の幻との遭遇は稀有の出来事だ。そして、ああ、あの《波紋のように空に散る笑いの泡立ち》(大岡信)・・・この笑いの泡立ちの記憶は、あの時固有のものだ。

⋯⋯⋯⋯

路面電車は、渥美線と同じように、現在は新型の車両に変ってしまっている。懐かしく思う旧型の映像はみつからないな、--と思っていたのだが、さきほど見出した。わたくしと同じように懐かしく思う人がいるのだろう、イベントPRで旧型がときに走るようだ。




ーーああ、あああ、あああああ、ナツカシクテ死ニソウニナル・・・この「前畑」とある電停の一つ前の電停をボクは使ったのである・・・歩道橋の右手にはボクの通った小学校があるのである・・・(この町は人口自体は減少していないのだが、中心部は過疎化が激しく、ボクの通った小学校は、かつて一学年、40人強のクラスが四クラスあり、つまり一学年170人から180人の生徒がいたのだが、いまでは20人前後の一クラスしかない)。

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夏休みには山の方に向かう飯田線をしばしば利用した。





当時は開閉の扉が手動の車両があった。たしか四両編成の、その後尾車両に乗ってしまうと、小さな駅ではプラットホームからはみ出て、線路に飛び降りるなどということがあった。

この三つの電車のなかでいろんな出来事が起こった。だから似たような映像に出会うと、レミニサンスに襲わてしまうことがままある。

童年往事・戀戀風塵・悲情城市」でも掲げたが、侯孝賢の作品のいくつかのシーンは似たような映像どころではない。




23才から30代半ばまでは京都に住んだ。11階建ての6階にあったマンションの部屋から阪急嵐山線の車両が桂川の向こうに通り過ぎるのを眺めた。低く雲がたれ込んだ雨の日には、電車が通り過ぎる音が、川面をはって低くきこえてくるようで、最初はとても珍しく、耳をすましてその響きに聴きいった。




この電車も鄙びていてとても美しく、通勤には一時的に使ったのみだが、土日にはしばしば利用した。



童年往事・戀戀風塵・悲情城市

◆辛樹芬(シン・シューフェン、1967年生)

侯孝賢、 童年往事、1985

戀戀風塵、1987



(同上)


(悲情城市、1989)