「異郷の女」に引き続き、フロイト版「異郷 fremd」。
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。……
欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。
それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者 fremd のようなものに思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さ Triebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
通常、抑圧された欲動興奮 verdrängende Triebregung は分離 isoliert されたままでいる。これは、抑圧作用は自我の強さを示すものであるとともに、自我の無力さOhnmachtの証明であり、エスの欲動興奮 Triebregung des Es は影響を受けないことを証明するものである。…この欲動興奮は、いわば治外法権 Exterritorialität にある。……
われわれがずっと以前から信じている比喩では、症状をある異物 Fremdkörper とみなして、この異物としての症状 Symptom als einen Fremdkörper は、埋没した組織の中で、たえず刺激現象や反応現象を起こしつづけていると考えた。もっとも症状形成 Symptombildung によって、好ましからぬ欲動興奮 Triebregung にたいする防衛の闘い Abwehrkampf は終結してしまうこともある。われわれの見るかぎりでは、それはヒステリー的転換でいちばん可能なことだが、一般には異なった経過をとる。つまり、最初の抑圧作用 Akt der Verdrängung についで、ながながと終りのない余波がつづき、欲動興奮にたいする闘いは、症状にたいする闘いとなってつづくのである。
この二次的な防衛闘争 sekundäre Abwehrkampf においては、…自我は、症状の異郷性 Fremdheitと孤立性 Isolierung を取り除こうとするものと考えられる。daß das Ich auch versucht, die Fremdheit und Isolierung des Symptoms aufzuheben
…症状によって代理されるのは、内界にある自我の異郷 ichfremde 部分である。…ichfremde Stück der Innenwelt statt, das durch das Symptom repräsentiert wird (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
今、「異者 fremd」 「異物 Fremdkörper」 「症状の異郷性 Fremdheit」「内界にある自我の異郷 ichfremde 部分」と訳したこれらの概念は、ラカンの「外密 extimité」のことである。
私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン、S7、03 Février 1960)
ーー《対象a とは外密的である。l'objet(a) est extime》(ラカン、S16、26 Mars 1969)
外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」である。(ジャック=アラン・ミレール 、Jacques-Alain Miller、Extimité、13 novembre 1985)
後年のラカンは《異者としての身体 un corps qui nous est étranger 》(S23, 11 Mai 1976)ともいうが、これはそのままフロイトの「異物 Fremdkörper」のことである。
トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
そして次の表現も同様。
穴(トラウマ)を作るものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
女流ラカン派による標準的な注釈ならこうである。
ラカンは、女性性について問い彷徨うなか、症状としてのひとりの女 une femme comme symptôme を語った。ひとりの女は、他の性 l'Autre sexe がその支えを見出す症状のなかにある。ラカンの最後の教えにおいて、私たちは、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin を読み取りうる。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin)
ここで上に引用したフロイト1915に「暗闇に蔓延るはびこる異者 fremd」という表現があったことを思い出そう。異者としての身体とは「暗闇に蔓延る異者としての女」のことでもある。前回、ふたつの例をしめしたが、カフカの多くの女たちは、(カフカにとって)ここにある。その代表的な女が、異郷の女フリーダであり、あるいは現実の女ミレナでありうる。
手紙は…幽霊との交わり Verkehr mit Gespenstern でありしかも受取人の幽霊だけではなく、自分自身の幽霊との交わりでもあります。…
手紙を書くとは…むさぼり尽くそうと待っている幽霊たちの前で裸になることです Briefe schreiben aber heißt, sich vor den Gespenstern entblößen, worauf, sie gierig warten.。書かれた接吻は到着せず、幽霊たちによって途中で飲み干されてしまいます。(カフカ、1922年 3 月末 ミレナ宛)
⋯⋯⋯⋯
【原抑圧】
以下、原抑圧にかかわる文献の列挙。
症状は、抑圧によって侵害された欲動興奮から生ずる。Das Symptom entsteht aus der durch die Verdrängung beeinträchtigten Triebregung. ⋯⋯⋯
欲動興奮は、抑圧されてもなんらかの代償を見いだすが、この代償はひどく削減され、置換され、制止されたものである。daß die Triebregung zwar trotz der Verdrängung einen Ersatz gefunden hat, aber einen stark verkümmerten, verschobenen, gehemmten.…
自我の力は、一面では欲動代理 Triebrepräsentanzにあり、他面では欲動興奮 Triebregungそのものに認められる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)
忘却されたもの Vergessene は消滅 ausgelöscht されず、ただ「抑圧 verdrängt」されるだけである。その記憶痕跡 Erinnerungsspuren は、全き新鮮さのままで現存するが、対抗リビドー(対抗備給 Gegenbesetzungen)により分離されているのである。…それは無意識的であり、意識にはアクセス不能である。抑圧されたものの或る部分は、対抗過程をすり抜け、記憶にアクセス可能なものもある。だがそうであっても、異物 Fremdkörper のように分離 isoliert されいる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
ーーニーチェの名高い《能動的忘却 aktiven Vergeßlichkeit》(『道徳の系譜』)とは、フロイト・ラカン派にとっては「抑圧」のことである。
最も注意しなくてはならないのは、フロイトは1910年代のある時期から「抑圧」という語を、「原抑圧」(≒固着)という語の意味で使っていることが多いことである。《フロイトは固着ーーリビドーの固着、欲動の固着ーーを抑圧の根として位置づけている。Freud situait la fixation, la fixation de libido, la fixation de la pulsion comme racine du refoulement. 》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un、30/03/2011 )
「抑圧」は三つの段階に分けられる。
①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)
②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後期抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )
③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、 抑圧の失敗 Mißlingens der Verdrängung・侵入 Durchbruch・「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてリビドー的展開 Libidoentwicklung の固着点への退行 Regression を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 摘要訳)
抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。その後に新しい抑圧が生ずることはないが、なお以前の抑圧は保たれていて、自我はその後も欲動制御 Triebbeherrschung のためにそれを利用しようとする。
新しい葛藤は、われわれの言い表し方をもってすれば「後期抑圧 Nachverdrängung」によって解決される。…分析は、一定の成熟に達して強化されている自我に、かつて未成熟で弱い自我が行った古い抑圧 alten Verdrängungen の訂正 Revision を試みさせる。…幼児期に成立した根源的抑圧過程 ursprünglichen Verdrängungsvorganges を成人後に訂正し、欲動強度 Triebsteigerung という量的要素がもつ巨大な力の脅威に終止符を打つという仕事が、分析療法の本来の作業であるといえよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)
⋯⋯⋯⋯
【欲動の固着(リビドーの固着)】
・リビドーは、固着Fixierung によって、退行 Regression の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残る zurückgelassen)のである。
・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917年)
・どの固有の欲動志向(性的志向 Sexualstrebung)においても、その或る部分は発達の、よ り初期の段階に置き残される(居残るzurückgeblieben)。他の部分が目的地に到達することがあってさえ。
・より初期の段階のある部分傾向 Partialstrebung の置き残し(滞留 Verbleiben)が、固着 Fixierung、欲動の固着 Fixierung (des Triebes nämlich)と呼ばれるものである。(フロイト『精神分析入門』第22 講)
・生において重要なリビドーの特徴は、その可動性である。すなわち、ひとつの対象から別の対象へと容易に移動する。これは、特定の対象へのリビドーの固着 Fixierung der Libido an bestimmte Objekteと対照的である。リビドーの固着は生涯を通して、しつこく持続する。
・母へのエロス的固着の残余は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への従属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
以下の文に現れるリビドーの固着の「残存現象 Resterscheinungen」あるいは「残存物Reste」は、直接的にラカンの対象aを示している。
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…
いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste が保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
【トラウマへの固着】
ーートラウマへの固着とは、リビドー(欲動)のトラウマへの固着のことである。
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。
これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式の発作 hysteriforme Anfälle がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事をわれわれは見出す。
それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…
この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。
我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年)
われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…
(1) (a) このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。…
(b) 問題となる経験は、おおむね完全に忘却されている。記憶としてはアクセス不能で、幼児性健忘期 Periode der infantilen Amnesie の範囲内にある。その経験は、隠蔽記憶 Deckerinnerungenとして知られる、いくつかの分離した記憶残滓 Erinnerungsresteへと通常は解体されている durchbrochen。
(c) 問題となる経験は、性的性質と攻撃的性質 sexueller und aggressiver Natur の印象に関係する。そしてまた疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…
この三つの点ーー、五歳までに起こった最初期の出来事 frühzeitliches Vorkommen 、忘却された性的・攻撃的内容ーーは密接に相互関連している。トラウマは 自身の身体への経験Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungenである。…
(2) …トラウマの影響は二種類ある。ポジ面とネガ面である。
ポジ面は、トラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すなわち忘却された経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erleben ことである。さらに忘却された経験が、初期の情動的結びつきAffektbeziehung であるなら、誰かほかの人との類似的関係においてその情動的結びつきを復活させることである。
これらの尽力は「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。
これらは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。…
したがって幼児期に「現在は忘却されている過剰な母との結びつき übermäßiger, heute vergessener Mutterbindung 」を送った男は、生涯を通じて、彼を依存 abhängig させてくれ、世話をし支えてくれる nähren und erhalten 妻を求め続ける。初期幼児期に「性的誘惑の対象 Objekt einer sexuellen Verführung」にされた少女は、同様な攻撃を何度も繰り返して引き起こす後の性生活 Sexualleben へと導く。……
ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。我々はこれを「防衛反応 Abwehrreaktionen」として要約できる。その基本的現れは、「回避 Vermeidungen」と呼ばれるもので、「制止 Hemmungen」と「恐怖症 Phobien」に収斂しうる。これらのネガ反応もまた、「個性刻印 Prägung des Charakters」に強く貢献している。
ネガ反応はポジ反応と同様に「トラウマへの固着 Fixierungen an das Trauma」である。それはただ「反対の傾向との固着Fixierungen mit entgegengesetzter Tendenz」という相違があるだけである。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)
⋯⋯⋯⋯
【抑圧】
次に抑圧をめぐる記述いくらか示すが、これらはすべてみな、実質上、原抑圧(固着)にかかわる。
すべての症状形成は、不安を避けるためのものである alle Symptombildung nur unternommen werden, um der Angst zu entgehen;。(フロイト 『制止、不安、症状』第9章)
症状形成の全ての現象は、「抑圧されたものの回帰」として正当に叙述しうる。Alle Phänomene der Symptombildung können mit gutem Recht als »Wiederkehr des Verdrängten« beschrieben werden. ((フロイト『モーセと一神教』、1939)
翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、1896)
エスの内容の一部分は、エゴに取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、正規の無意識としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』、1938年)
人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
(フロイト『新精神分析入門』1933年) |
「エスがあったところに、自我は到らなければならない Wo Es war, soll Ich werden(フロイト『続精神分析入門』第31章、1933年)
自我は自分の家の主人ではない das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus(フロイト『精神分析入門』1917年)
思想というものは、 〈それ er〉が欲するときにやって来るもので、 〈私 ich〉が欲するときに来るのではない、したがって主語〈私〉Subjekt "ich" が述語〈考える〉Praedikats "denke"の条件であると主張するのは事実の歪曲である、ということだ。要するに、それが考える Es denkt ――、だがしかしこの〈それ es〉を、ただちにあの古くして有名な〈私 Ich〉だとみなすのは、控え目に言っても、一つの仮定、一つの主張にすぎないもので、ましてや〈直(ジカ)の確実性 unmittelbare Gewissheit〉などでは決してない。(ニーチェ 『善悪の彼岸』 17番、1886年)
上の図を、ボロメオの環で示せば次の通り。
象徴界の場に超自我を置いたのは、次の論拠による。
象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
言語は超自我である c'est le langage qui est le surmoi(ジャック=アラン・ミレール、séminaire 96/97)
もっとも今掲げた図において、ラカン派的に補わなければならないのは、ラカンは二種類の超自我を初期から語っていることである。
太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…母なる超自我に属する全ては、母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S5, 02 Juillet 1958)
そしてボロメオの環の現実界と象徴界との重なり部分である原抑圧 Urverdrängung(欲動代理 Triebrepräsentanz、リビドーの固着 Fixierungen der Libido)の機能を果たすものは、「母なるシニフィアンle signifiant maternel」である。
エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel.である。…つまり行ったり来たりする「母」C'est cette mère qui va, qui vientであり…「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiantに過ぎない。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
この母なるシニフィアンに相当するものを初期フロイトは、「境界表象 Grenzvorstellung 」と呼んでいる。
(原)抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化Verstärkungによって起こる。(Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)
したがってラカンのボロメオの環は、この文脈で読む必要がある。
つまりは、JȺが核心なのである。JȺとは穴Ⱥの享楽である。穴Ⱥのシニフィアンは、S(Ⱥ)であり、これが母なる超自我のシニフィアンである(穴についての詳細は「症状の線形展開図」を参照のこと)。
いま核心としたのは、幼児のエスの欲動興奮を飼い馴らすための最初の鞍を置くのは「母」であり、この母なる大他者が原超自我であるという第一の意味がある。最初の鞍とは、すなわち欲動興奮のクッションの綴じ目である。
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Jacques-Alain Miller 、Première séance du Cours 2011)
この母なるシニフィアンS (Ⱥ)が、フロイトにおける欲動の固着(リビドーの固着)のラカン的観点からの決定的読解のひとつであるが、この固着はエスの欲動を十分には飼い馴らせない。したがって、エスには自我の異郷としての異物がある、ということになる。
【現代ラカン派版の「固着」】
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字-固着 lettre-fixion、文字-非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸』2001年)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつき connexion (=サントーム)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯
抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure、2011年)
【補足】
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN 」)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation (ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un 、2 février 2011)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
ーーこの症状とは原症状(サントーム)のこと。
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (Miller, L'Être et l'Un、30 mars 2011)
享楽自体、穴Ⱥ を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。
そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。
フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme. (ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)