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2018年7月31日火曜日

死のしづけさのにほひ

ふたたび私はそのかおりのなかにいた。かすかに腐敗臭のまじる甘く重たく崩れた香りーー、それと気づけばにわかにきつい匂いである。(中井久夫「世界における索引と徴候」)

ふたたび「ヘンデルの匂い」におそわれて茫然自失している。あの「私を泣かせてくださいLascia ch'io pianga」の花のふさのたわわに垂れるにおいである。

ああ、菌臭の死‐分解への誘いの匂い⋯⋯自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂い⋯⋯母胎の入り口の香りにも通じる匂い⋯⋯エロスとタナトスの混淆の匂い⋯⋯ああ、死のしづけさのにほひ。


須磨の女ともだちからおくられた
さくら漬をさゆに浮かべると
季節はづれのはなびらはうすぎぬの
ネグリジェのやうにさくらいろ
にひらいてにほふをんなのあそこ
のやうにしょっぱい舌さきの感触に
目に染みるあをいあをい空それは
いくさのさなかの死のしづけさのなか

――那河太郎「小品」





蚊居肢子は下層階級の出であり、映画館で映画はけっして見続けられない。たとえば塩田明彦の『月光の囁き』であれば、冒頭から上の映像に囚われ、半時間ほどは閉じた眼の世界に入り込んでしまう、すなわち盲目の蚊居肢はにおひの網に潜り込んでしまうのである。

匂いを嗅ごうとする欲望のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている。対象化することなしに魅せられる匂いを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動について、証しするものである。だからこそ匂いを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり ──両者は実際の行為のうちでは一つになる ──、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人である誰かにとどまっている。しかし嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう。だから文明にとって嗅覚は恥辱であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。 (ホルクハイマー&アドルノ『啓蒙の弁証法』)

すでにジジェクによる指摘があるが、ラカンの対象aの定義の決定的な欠陥は「におい」がないことである。ラカンは文明人だったのである。眼差しや声よりも「におい」はより根源的な対象aなのに。

(対象aの形象化として)、乳首[mamelon]、糞便 [scybale]、ファルス(想像的対象)[phallus (objet imaginaire=想像的ファルス])、小便[尿流 flot urinaire]、ーーこれらに付け加えて、音素[le phonème]、眼差し[le regard]、声[la voix]、そして無[ le rien]がある。(ラカン、E817、1960)

それともあのにおいは「無」かな・・・原対象a、原初に喪われた対象は。ボクはいま羊水のにおいのことを言ってるんだけど、記憶力がわるいほうなので覚えてないや。

たぶん羊水カクテルとか羊水ジュースなんてのを作ったら流行すると思うけどな、なんでないんだろ?

⋯⋯⋯⋯

※付記

たぶん、下層階級と中流階級とのあいだの鍵となる相違は、臭いにかかわる。中流階級の人びとにとって、下層階級は臭う。彼らは規則正しく身体を洗わない。あるいは中流階級のパリジャンのおなじみの応答を引用するならこうだ。彼らは地下鉄の一等車に乗るのを好むのはなぜだ、と問われ、「私は二等車に労働者と一緒に乗るのを気にしないよ、でもただ彼らは臭うんだ」。

これが教えてくれるのは、現在、隣人とは何を意味するかの「定義」のひとつだ。「隣人」は臭う者と定義できる。これが、今日、脱臭剤や石鹸が重要な理由だ。それは隣人を最低限は我慢できるものにする。私は隣人を愛する用意がある…もし彼らがひどく臭わなかったら。(……)

ラカンは、フロイトの部分対象のリスト(乳房、糞便、ペニス)を補った、声と眼差しという二つの対象をつけ加えることによって。我々は、たぶん、このシリーズにもう一つ加えるべきだろう、すなわち臭いを。(Tolerance as an Ideological Category 、Autumn 2007、Slavoj Zizek

→参照:「男は女になんか興味ないよ

享楽の空胞 vacuole de la jouissance…私は、それを中心にある禁止 interdit au centre として示す。…私たちにとって最も近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にあるだ。

ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を作り出す必要がある。Il faudrait faire le mot « extime » pour désigner ce dont il s'agit (⋯⋯)

フロイトは、「モノdas Ding」を、「隣人Nebenmensch」概念を通して導入した。隣人とは、最も近くにありながら、不透明なambigu存在である。というのは、人は彼をどう位置づけたらいいか分からないから。

隣人…この最も近くにあるものは、享楽の堪え難い内在性である。Le prochain, c'est l'imminence intolérable de la jouissance (ラカン、S16、12 Mars 1969)