2016年4月28日木曜日

原エロス対象の植民地化としてのフェラチオ

まず、フロイトがロンドンの死の床で、枕元に草稿がおいてあったとされる『精神分析概説』-ーフロイトの概説のたぐいは精神分析入門者に向けて書かれているものが二つあるが、この草稿は専門家に向けて書こうと試みたものとされるーーから、最初のエロス対象=母の乳房をめぐる記述を抜き出す。

子どもの最初のエロス対象は、彼(女)を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子どもは乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子どもはたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、子どもの母という人影のなかへ統合される。その母は、子どもを滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は、子どもにとっての最初の「誘惑者」になる。この二者関係には、母の重要性の根が横たわっている。ユニークで、比べもののなく、変わりようもなく確立された母の重要性。全人生のあいだ、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説』草稿 ――死後出版1940)


次に中井久夫の文をかかげる。ここでは当面、《乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚》に注目して読もう。


成人世界に持ち込まれる幼児体験は視覚映像が多く、稀にステロタイプで無害な聴覚映像がまじる。嗅覚、味覚、触覚、運動覚、振動感覚などはほとんどすべて消去されるのであろうか。いやむしろ、漠然とした綜合感覚、特に母親に抱かれた抱擁感に乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚、抱っこにおける運動感覚、振動感覚などが加わって、バリントのいう調和的渾然体 harmonious mix-up の感覚的基礎となって、個々の感覚性を失い、たいていは「快」に属する一つの共通感覚となって、生きる感覚(エロス)となり、思春期を準備するのではなかろうか。

これに対して、外傷性体験の記憶は「成人世界の幼児型記憶」とはインパクトの点で大きく異なる。外傷性記憶においては視覚の優位重要性はそれほど大きくない。外傷性記憶は状況次第であるが、一般に視覚、聴覚、味覚、触覚、運動覚が入り交じる混沌である。視覚的映像も、しばしば、混乱したものである。すなわち「共通感覚的」であり「原始感覚的」でもある。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』P57~58)


次にポール・ヴェルハーゲの論(2009)から抜き出す。

フロイトは症状形成を真珠貝の比喩を使って説明している。砂粒が欲動の根であり、刺激から逃れるためにその周りに真珠を造りだす。分析作業はイマジナリーなシニフィアンのレイヤー(真珠)を脱構築することに成功するかもしれない。けれども患者は元々の欲動(砂粒)を取り除くことを意味しない。逆に欲動のリアルとの遭遇はふつうは〈他者〉の欠如との遭遇をも齎す。(new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex PAUL VERHAEGHE 2009)

われわれの症状は、このように二重化されている。仮に原初のエロス対象が、《乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚》であって、それが原症状であろうとも、象徴界に生きているわれわれは、その原初のエロス対象を別のものに置き換えて、症状を形成する。

より詳述化されている同じヴェルハーゲの論2002では、次の通り。

フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”(〔流動する〕身体somaの支配)と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)ということになる。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」(『あるヒステリー患者の分析の断片』)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq,2002)


現実界が象徴界によって植民地化(砂粒の真珠化)されるということは、常にありうる。たとえば、象徴界の諸シニフィアンの連鎖が、ドラの口唇享楽を変形した。つまり、欲動の現実界は、神経性の咳 tussis nervosa と嗄れ声 hoarseness の症状を通して、記号化された。

フロイトの臨床により、ドラの神経性の咳と嗄れ声の上部症状が取り除かれても、口唇欲動は治癒不可能な原症状である。

この原症状を語る文脈のなかで、ヴェルハーゲは次ぎのように記している(対象aは種々の意味があるが(参照)、ここでの対象aは、そのもっとも純粋な意味での対象aである)。

対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは純化された症状の問題である。すなわち、象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外立するEx-sistenzもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動である。(J. Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975, pp. 106-107.摘要)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。「症状は、こう定義するしかない。それは、各人が無意識を享楽する様態である – 無意識がそう定めるがままに 。」

ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel という彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, ,Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way、2002)


ここで少し前に戻って、誰にでもその多寡はあれ残存していると思われる原初の口唇欲動は、一般にどのように変形されるのだろうか。つまりドラの咳や嗄れ声(失語症)のように生活に支障がきたすところまでいっていない症状も含めて考えてみよう。

ここではもうひとつの原初の症状といわれる肛門欲動の議論はしないでおく。ただ中井久夫の次の文を抜き出しておく。

口唇的な人は、結構、ナマコ、クサヤ、ふなずし、ブタの耳のサシミ(琉球料理)、カエル(台湾、広東、フランス料理)などの味も一度知れば楽しむ可能性のある人が多い。私は、喫煙をやめるという人には、やめたからには何かいいこともなくては、と言い、まず、ものの味がわかるようになり、朝、革手袋の裏をなめているような口内の感じがなくなりますよと言い、せっかくだからおいしいものを食べ歩いてはどうですか、それとも家でつくられますか、と言う。配偶者によって(時には子供によって)家族のメニューが決まるから、そのことをにらみあわせて答えを考える。配偶者と食べ歩き計画を立てるのもよい。そのうちに味をぬすんで家庭料理に取り入れる可能性も生まれてくる。喫煙者は皆が皆口唇的な人ではないが、私の観察では、強迫的(肛門的)な人は、タバコの本数は多いかもしれないが、どうも深く吸い込まない人が多い印象がある。けがれたものを体内に入れることに抵抗があるからだろうか。そして強迫的な人は、結構趣味のある人が多い(室内装飾からプラモデル作りまで)。禁煙を機に今まで買いたくて買えなかったものを自分に買うのを許すことが報酬になる。金銭的禁欲とそのゆるめは共に、精神分析のことばを敢えて使えば肛門的な水準の事柄である。(中井久夫「禁煙の方法について」『「伝える」ことと「伝わる」こと』所収)  

ここには、肛門欲動とは別に、口唇欲動、すなわち、《乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚》が、食事の趣味、あるいは喫煙に変形される、ということが示唆されている。すなわち、現実界の口唇欲動が、口唇や喉頭にどろどろした感覚を与えてくれる食べ物やタバコを咥えることによって、象徴化されているということだ。くり返せば、現実界の象徴界による植民地化(砂粒の真珠化)である。

ブルース・フィンクならこう言う。

たぶん映画におけるステレオタイプのセックス後の煙草は、それにもかかわらず、ある享楽の欠如を示している。なにかがもっと欲望されている、口唇の快楽が満たされていないのだ。(Bruce Fink 「Knowledge and Jouissance 『READING SEMINAR XX Lacan's Major Work on Love,Knowledge, and Feminine Sexuality』所収、2002)

ところで、口唇や喉頭にどろどろした感覚を与えてくれる象徴的振る舞いの究極のひとつは、フェラチオであり、口のなかに精子を射精されることだろう(わたくしの叔父は、なまこを咽喉奥あるいは胃まで垂らし込んで上下させるという技をもっていたが、あれもなかなかの効果があるかもしれない)。

ここで、いささかくどくなるかもしれないが、フロイトの「症例ドラ」の記述を掲げておこう。

いわゆる性倒錯のなかで、比較的厭わしくない者は、著述家をのぞき世人が皆知っているように、我が国民中に広く存在している。というよりも、むしろ著者たちもそのことを知っている、というべきかもしれない。ただ彼らは、それについて書こうと筆をとる瞬間に、そのことを忘れようと努めるだけなのである。それゆえ、このような性交(性器の吸啜)が存在することを耳にしていたわれわれのやがて十九歳になるヒステリー嬢が、無意識で、このような空想(ファンタジー)を展開させ、頸部の刺激感覚と咳によって表現したことは、驚くにはあたらない。そして私が他の女性患者について確定しえたと同じように、彼女が外から教えられなくて、このようなファンタジーに到達できたとしても、これまた驚くにはあたらない。というのは、彼女の例では、倒錯の実際行為とやがて重なりあるこのようなファンタジーを、独力でつくりかげるための身体的前提条件が、注目すべき事実であたえられたのである。

彼女は自分が子供のころ、「指啜りっ子」であったことをよく憶えていた。父もまた、彼女にその習慣をやめさせるのに、四歳か五歳になるまでかかったことを思いだした。ドラ自身も、彼女が左の親指をしゃぶりながら、片隅の床に坐り、右手で、そこに静かに座っている兄の耳たぶをむしっていた幼年時代の光景をはっきり記憶している。これこそ指しゃぶりによる自慰の完全な例であって、それについては他の患者もーー後には感覚麻痺の患者やヒステリーの患者もーー報告してくれたのである。私はそのなかのひとりから、この特異な習慣の由来を明らかにする報告をうることができた。この少女は、指しゃぶりの悪習をどうしてもやめられなかったのであったが、子供のころを回想したさいーー彼女のいうところでは、二歳の前半のことーー乳母の乳房を吸いつつ、乳母の耳たぶをリズミカルにひっぱっている自分の姿を思いだした。唇と口腔粘膜が一次的な性感帯と見なしうることには、誰も異論を差しはさまぬだろう。なぜなら、この意味の一部分は、正常なものとされている接吻にも温存されているのであるから。

この性感帯の早期における十分な活動が、後日、唇からはじまる粘膜道の「身体側からの対応 Somatisches Entgegenkommen」の条件となるのである。そして本来の性的対象、つまり陰茎をすでに知っている時期に、温存されていた口腔性感帯の興奮がふたたび高進するような事情が生れると、すべての源である乳首、それからその代理をつとめていた手指のかわりとして、現実の性的対象、すなわちペニスのイメージを自慰のさいに用いることには、創造力をたいして使う必要もない。こうして、このはなはだ厭わしい、ペニスを吸うという倒錯的ファンタジーも、もっとも無邪気な源から発している。それは母または乳母の乳房を吸うという、先史的ともいえるファンタジーの改変されたものなのであり、普通、それは乳をのんでいる子供との交際でふたたび活発化したものなのである。その場合、たいていは乳牛の乳首が、母の乳首とペニスのあいだの中間表象として使用される。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』人文書院旧訳 フロイト著作集5 PP310-311)

さて、いずれにせよ標準的な男たちーーたとえばゲイカップルを除いてーーは、この点、ひどく不利な条件を備えている。いくらクリニングスをしても、その後、ゴックンというわけには(例外を除いて)いかないのだから。





もっとも性交相手の女性が妊娠中やその直後であって、乳がふんだんに出るなら状況はいささか異なるのかもしれないが。





だから、男たちは性交後に(性交でえた快楽のものたりなさを補うために)煙草に手が伸びることが多い。やはりソーセージと蝦蟇口の相違は大きい。

彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢判断』)

女たちも、性交後に、煙草のたぐいに手が伸びるとしたら、なにかが足りなかったせいだ・・・





ブルース・フィンクをくり返せば、《セックス後の煙草は…ある享楽の欠如を示している。なにかがもっと欲望されている、口唇の快楽が満たされていないのだ》。

男たちは解剖学上、始原のエロス欲動に近似した性の享楽から、女たちにくらべ遠く離れている。

詩人たちはそのことにとっくの昔から気づいている。

原始的淋しさは存在という情念から来る。
Tristis post Coitumの類で原始的だ。
孤独、絶望、は根本的なパンセだ。
生命の根本的情念である。
またこれは美の情念でもある。

ーー西脇順三郎『梨の女「詩の幽玄」』より

Tristis post Coitumとは、「性交後の悲しみ」のことである。

だが、せめて男たちは、女たちが「性交後の悲しみ」、たとえば性交後に煙草などを吸わないよう、彼女たちに十分に貢献せねばならぬ・・・





なおかつ、次のような調査もある。

最近の調査が示しているのは、多くの女たちはフェラチオを、彼女たちが権力感として、経験していることだ。それは、もちろん、イニシアティヴをとるという条件において、であるが。言い換えれば、能動的役割をとるという条件において、である。(Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE.1998) 

解剖学的にどうしても受動的立場におかれやすい女たちの能動性発露の行為でもあり、やはり女性のために、よりいっそう賞揚せねばならぬのではないだろうか・・・

フロイトはくり返している、快と不快とのあいだの対立とは、別の対立を隠しているようにみえる、と。それは、はるかに重要な対立である。すなわち、他者に対して能動的であるか、受動的であるかの対立である。

もちろん例外はある。だが原初の口唇欲動までをも否定できるものだろうか。例外とは、多くの場合、なんらかの形式の「防衛」であるだろう。

……症状形成という言葉自体を代理形成の同義語としてもちいなければなるまい。そうすると防衛過程は、逃避と類似のものであることが明らかである。逃避とは、自我が外界のさしせまった危険からまぬかれる手段であるが、防衛過程もまた、衝動の危険からの逃避の試みといえる。(……)

抑圧は、根本的に逃避の試みである。抑圧されたものは、自我という大きな統制から追放され、除外されて、無意識の世界を支配する法則にのみ支配される。(フロイト『制止、症状、不安』1926)

フロイトはこの晩年の論文で、『夢判断』1900以前に使用した語彙「防衛」を復活させようとしている。 《防衛という古い概念をふたたび採用するのに十分な根拠がある。防衛とは、同じ傾向ーー衝動の要求にたいする自我の保護ーーをもつ以上にのべた過程をすべて包含し、抑圧はその特別な場合としてこれにふくまれる》と。

抑圧という語彙が廃れつつある現在、われわれは防衛という語彙を使わなければならない。