「原エロス対象の植民地化としてのフェラチオ」にて、《いずれにせよ標準的な男たちーーたとえばゲイカップルを除いてーーは、この点、ひどく不利な条件を備えている》と記したが、これは標準的な男のみに限って、ということであり、軀の柔軟さとおちんちんのそれなりの長さがあれば、口唇欲動の満足は、むしろ男たちのほうが有利な条件を備えているとさえ言いうる。
わたくしも中学一年生だったか二年生のとき試みたことがあるのを隠すつもりはない。残念ながら、長さが足りなかったのか、柔軟性が足りなかったのかのせいで、不成功に終ったが。
いま思えば、もっと訓練しておけばよかったと思う。
とはいえ、やはり先天的に長さが足りない。次ぎの程度の長さがあれば、軀の柔かさがなくても比較的容易なのだが、残念ながら生まれつきの不幸を背負って生まれてしまった。
…………
精神病者は自分の「汚れた洗濯物(内輪の恥)」をいとも簡単に露呈させ、精神病者以外では打ち明けることに恥じらいを覚えるような猥褻な感情や行為を、精神病者は公にする。
これに対して、神経症者はそのようなものを見えるところから隠し、他者からも、自分自身からも見えないようにしてしまう。抑圧とは、このような事実と関係している。(フィンク, "A Clinical Introduction To Lacanian Psychoanalysis", 1995)
というわけで、オレは相対的には精神病的だよ、倒錯的かもな。
神経症において、我々はヒステリー的な盲目と声の喪失を取り扱う。すなわち、声あるいは眼差しは、その能力を奪われてしまう。精神病においては逆に、眼差しあるいは声の過剰がある。精神病者は己れが眼差されている経験をする(パラノイア)、あるいは存在しない声を聴く(幻聴)。これらの二つの立場と対照的に、倒錯者は声あるいは眼差しを道具として使う。彼は眼差し・声とともに「物事をなす」のだ。(ジジェク ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012)
とはいえ、倒錯者の「問いの欠如」なんて言われるのはヤダな
で、ここは穏やかに精神病的だといっておくさ、「ふつうの精神病」という意味でのね。
でも、人は言語を使用したら、ヒステリー的なんじゃないか。
フロイトは、強迫神経症はヒステリーの「方言」だといってるわけで、ここでは厳密さを期さずに、強迫神経症をもふくめて「ヒステリー」といっておくが。
だれでもやってるだろ、この「矛盾する同時性」を。すこし着物をまくり上げるほうに好みがあるだけさ、オレは。
ーーってなわけでね。しかも、ラカン自身、晩年はこういってんだから。
なにいってんだろうな、ラカンは一見はパラノイア的(精神病的)じゃないか、と思うんだが。
たぶん言語を使用したら、なんらかの形で、ヒステリー的だということじゃないか。
いくらラカンでも言語にいささか啓蒙されちまった存在なんだよ、だったらやっぱりヒステリー的だろ?
肝腎なのは、精神分析などといわないまでも、神経症的に言語に囚われた自らを、主体を、揺らめかすことだ、《vacille le sujet》((lacan.S.18)
で、相対的には精神病、相対的には倒錯、相対的には神経症だよ、オレは。絶対的に神経症になるのは御免蒙るってだけさ。
倒錯を特徴づけているのは問いの欠如である。倒錯者は、自分の行動は他者の享楽に役立っているという直接的な確信を抱いている。ヒステリーとその「方言」である強迫神経症とでは、主体が自分の存在を正当化するその方法が異なる。ヒステリー症者は自分を<他者>に、その愛の対象として差し出す。強迫神経症者は熱心な活動によって<他者>の要求を満足させようとする。したがって、ヒステリー症者の答えは愛であり、強迫神経症者のそれは労働である。(ジジェク『斜めから見る』1991)
で、ここは穏やかに精神病的だといっておくさ、「ふつうの精神病」という意味でのね。
でも、人は言語を使用したら、ヒステリー的なんじゃないか。
フロイトは、強迫神経症はヒステリーの「方言」だといってるわけで、ここでは厳密さを期さずに、強迫神経症をもふくめて「ヒステリー」といっておくが。
一方の手で着物をまくり上げようとし、他方の手で着物を押さえようとするヒステリー患者の発作もこのことを示している(「矛盾する同時性」)。患者は分析中に一方の性的意味から逆の意味の領域へと「隣りの線路の上へそらせるように」たえずそらせようとする。(フロイト『ヒステリー性空想、ならびに両性性に対するその関係』)
だれでもやってるだろ、この「矛盾する同時性」を。すこし着物をまくり上げるほうに好みがあるだけさ、オレは。
ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である。ヒステリーの言説とは、特別な会話関係というよりは、会話の最も初歩的なモードである。思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものだ。(GÉRARD WAJEMAN 「The hysteric's discourse 」1982)
ーーってなわけでね。しかも、ラカン自身、晩年はこういってんだから。
私は完全なヒステリーだよ、症状のないヒステリーだな…[ je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme](Le séminaire xxiv)
なにいってんだろうな、ラカンは一見はパラノイア的(精神病的)じゃないか、と思うんだが。
たぶん言語を使用したら、なんらかの形で、ヒステリー的だということじゃないか。
私は相対的にはマヌケ débile mental だよ…言わせてもらえば、全世界の連中と同様にマヌケだ。というのは、たぶん私は、いささか啓蒙されている une petite lumière からな(ラカン、S.24,17 Mai 1977)
いくらラカンでも言語にいささか啓蒙されちまった存在なんだよ、だったらやっぱりヒステリー的だろ?
精神分析とは、見せかけを揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。(ミレール)
[la psychanalyse fait vaciller les semblants , le Witz fait vaciller les semblants]
肝腎なのは、精神分析などといわないまでも、神経症的に言語に囚われた自らを、主体を、揺らめかすことだ、《vacille le sujet》((lacan.S.18)
で、相対的には精神病、相対的には倒錯、相対的には神経症だよ、オレは。絶対的に神経症になるのは御免蒙るってだけさ。