2016年4月21日木曜日

神経症と精神病、正常と異常の区別の曖昧化(中井久夫)

現在一般に神経症と精神病、正常と異常の区別の曖昧化の傾向がある。実際には、どれだけ自他の生活を邪魔するかで実用的に区別されているのではないか。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収P.91)

中井久夫は、すでに2000年の時点で、こう言っている。ラカン派内のミレール派によって「ふつうの精神病」概念(ミレール)が提出されたのは、1998年だ。その後、メルマン派が2007年に「普通の倒錯」と言い出した(参照)。

ーーというわけで、何やらいってくるひとがいるが、わたくしが精神病的であるのか、倒錯的であるのかは(すくなくとも専門家でないわたくしにとっては)どちらでもよろしい(参照)。場合によってはやや神経症的でもありうる(そもそも人は、言語を使えば、神経症的に分割される)。

ラカン派内での基本は次ぎの通りだと、(わたくしの少ない情報では)見なしている。

この10年のあいだに、ラカンの精神病概念理論化をめぐる二つの重要な発展があった。ポール・ヴェルハーゲの「現実神経症」とジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」である。(Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis Jonathan D. Redmond、2013(PDF))


◆ミレール

「父の名」の鍵となる機能は、…ラカンの教えのなかで、価値引き下げがなされた。父の名は、最後にはサントーム以外の何ものでもなくなる。すなわち、穴の詰め物である。(ジャック=アラン・ミレール 2012 The real in the 21st century by Jacques-Alain Millerーー「神経症と精神病区分の終焉?」)

ーー穴とは、一般的には「性関係はない」Ⱥ の穴のこと。

……臨床において、「父の名」の名の価値下落は、前代未聞の視野に導いてゆく。ラカンの「皆狂っている、妄想的だ」という表現、これは冗句ではない。それは話す主体である人間すべてに対して、狂気のカテゴリーの拡張と翻訳しうる。誰もがセクシャリティについてど うしたらいいのかの知について同じ欠如を患っている。このフレーズ、この箴言は、いわゆ る臨床的構造、すなわち神経症、精神病、倒錯のそれぞれに共通であることを示している。 そしてもちろん、神経症と精神病の相違を揺るがし掘り崩す。その構造とは、今まで精神分裂病の鑑別のベースになっていたものであり、教育において無尽蔵のテーマであったのだが。(同上、ミレール、 2012)


◆ヴェルハーゲ

精神神経症と現実神経症は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現実神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」(フロイト『自己を語る』1925)。これは、現実神経症的病理が単独での研究領域であることを正当化してくれる。さらにもっとそうでありうるのは、フロイトは、現実神経症を精神神経症の最初の段階の臍と見なしているからだ。(“ACTUAL NEUROSIS AS THE UNDERLYING PSYCHIC STRUCTURE OF PANIC DISORDER, SOMATIZATION, AND SOMATOFORM DISORDER:” BY PAUL VERHAEGHE, STIJN VANHEULE, AND ANN DE RICK、2007

ミレールは「ふつうの精神病」を、ヴェルハーゲ=フロイトは「現実神経症」をデフォルトとしており、そこからのヴァリエーションで、倒錯があったり、〔精神)神経症があったりするという観点だ。

ミレール派のThomas Svolosは2009年に次ぎのように記している(参照)。

父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。

これは、特別安定した「父の名」があるのなら、神経症であり、あまり安定していないサントームなら、ふつうの精神病だ、ということを言っている。

人の精神構造は、社会構造によって変化する、というのはフロイトの教えだ。象徴的権威の斜陽の時代には、しっかりした「父の名」などない。すなわち現在は、みなさん、ふうつの精神病か現実神経症的だということが、ラカン派内では(ようやく)言われている、ということだ。

※参照:忘れ去られたフロイトの現実神経症(現勢神経症)概念