2016年4月21日木曜日

刺青と真珠

きみたちは、私が何度もくり返したことを聞いたはずだ、精神分析は、新しい倒錯を発明することさえ成功できていない、と。ああ何と悲しいことだ!(ラカン、セミネールⅩⅩⅢ)

Vous m'avez entendu très souvent énoncer ceci : que la psychanalyse n'a même pas été foutue d'inventer une nouvelle perversion. C'est triste !

…………

お父さんのようにはならないで下さいお願いだから」で、「母の法」、「母なる超自我」の生涯の支配がありうることを記したが、母の法とは、欲望が隠喩化(象徴化)される前の母の法の欲望であり、、猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない超自我である。いわば「猥褻かつ苛酷な形象」[ la figure obscène et féroce ] (Lacan ,1955)だ。

たんに禁止についての話の問題ではない。そうではなく、単純に母としての女の支配である。(セミネールⅩⅦ)

[Il ne s'agit pas seulement de parler des interdits, mais simplement d'une dominance de la femme en tant que mère]


わたくしは、幸か不幸か、「父の法」の禁止ではなく、この母の法に支配される少年時代を送ったのではないか、という疑いを持っているのだが、それの正否は別にして、ひどい「倒錯」症状があった。

具体的な「倒錯」のありようは、ここでは記さないでおくが、それは次ぎのようなメカニズムをもっていたーーのかもしれない。

…倒錯者は自らを〈他者〉の享楽の道具に転じるだけではない。彼はまた、この他者を自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせるのだ。

倒錯者の不安は、しばしばエディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安として解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の〈他者〉である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。(Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe  2010、PDFーーあの女さ、率先してヤリたがったのは(倒錯者の「認知のゆがみ」機制)

おなじ倒錯でも人にたいして迷惑をかけない倒錯ーー覗きとか露出とかフェティシズムーーがあるが、わたくしの倒錯はかなり他人に迷惑をかけたのではなかったか・・・

ところで、わたくしの母は50歳で、わたくしが24歳のとき死んだ。それ以降、ひどい倒錯症状はややおさまった。それがなぜなのだろうか、という問いがある。

母の形見の真珠の首飾りがある。やや大ぶりすぎて、その形見をうけとった妹はわたくしに五粒ばかりくれた。

わたくしはそれを鍾愛し、ついにはある箇所に埋め込んだ。

刺青は、身体との関係における「父の名」でありうる。…(場合によって)仕事の喪失は精神病を引き起こす。というのは、仕事は、生活手段以上のものを意味するから。仕事を持つことは「父の名」だ。

ラカンは言っている、現代の父の名は「名付けられる」 êtrenommé-à こと、ある機能を任命されるという事実だと。社会的役割にまで昇格させる事、これが現在の「父の名」である。(ミレール、2009)

埋め込んだ真珠が、勝手気ままな「母の法」を統制する「父の名」として機能した、ということはありうるのではないか、--と最近は「勝手に」思っている。「社会的役割にまで昇格」されたものだがどうかは知るところではないが、女性たちは珍しがってくれ、彼女らとの「社会的関係」には、それなりの効用があったのだから。


最後に、Geneviève Morel の‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law'(2009)から、いくらか私訳引用しておこう。

ラカンはその教えの最後で、父の名と症状とのあいだの観点を徹底的に反転させた。彼の命題は、父の名の「善き」法にもかかわらず症状があるのではなく、父の名自体が、あまたある症状のなかの潜在的症状ーーとくに神経症の症状--以外の何ものでもない、というものだ。ヒステリーの女性たちとともにフロイトによって発明された精神分析は、まずは、父によってつくり出された神経症的な症状に光を当てた。だが、精神分析をこれに限るどんな理由もない。事実、精神病においてーーそれは格別、我々に役立つ--、主体は、母から分離するために、別の種類の症状を置こうと努める

この新しい概念化において、症状は、たとえ主体がそれについて不平を言おうとも、母から分離し、母の享楽の虜にならないための、必要不可欠な支えなのだ。分析は、症状の病理的で過度に制限的な側面を削減する。すなわち、症状を緩和するが、主体の支えとしての必要不可欠な機能を除去はしない。そして時に、主体が以前には支えを仕込んでいない場合、患者が適切な症状を発明するよう手助けさえする。(Geneviève Morel、2009)


この文は、次のサントーム(症状+幻想)臨床の考え方の文脈のなかにある。

精神分析実践の目標は、人を症状から免がれるように手助けすることではない……。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install することだ。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009ーーエディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論