2016年4月22日金曜日

女性嫌悪のメカニズム

以下、資料を並べる。とくに目新しい箇所ないが、備忘のためのいくらかのまとめ。

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母親への愛着はそれが最初のものでありあまりに強すぎるからこそ、破滅しなければならないということなのであって、これに似たことは最初の、しかも非常に強い恋愛によってむすばれた若い婦人の結婚の場合にしばしばみることができる。(フロイト『女性の性愛について』1931)

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…もう一つ書きたいと思ったのは、男にとって女とは何かです。母親ではあるんですよ。“一切の女人、これ、母親なり”という、仏典か何かにあるんだそうですね。例えば戦争中に戦地へ送り込まれた兵隊の間で、母親信仰というのが強かったと聞きます。

僕も母親と姉とに引かれて走っているわけですよ。逃げている周りに、やっぱり女性は多かった。これはもういかんというときに、女たちに包まれる。その感覚は成人しても濃厚に残っている。

だから、男女のこと、いわゆるエロティシズムのことだけじゃなくて、男が女に生命を守られるという境。それからもう一つ、女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号)

母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。》((Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE,1998)


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構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。(Paul Verhaeghe,NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL1995ーー子どもを誘惑する母(フロイト)

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《女-母なんてのは、交尾のあと雄を貪り喰っちまうカマキリみたいなもんだよ》(Lacan, Le seminaire, livre X: L' angoisse[1962-63])

母親への依存性のなかに…パラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、母親に殺されてしまう(食われてしまう?)というのはたぶん、驚くべきではあるが、きまっておそわれる不安であるように思われるからである。このような不安は、小児の心に躾や身体の始末のことでいろいろと制約をうけることから、母親に対して生まれてくる敵意に対応すること、また、投影 projektion のメカニズムが早期の心的な体制によって助長されるということは、容易に仮定できる。(フロイト『女性の性愛について』)
容易に観察されるのは、性愛の領域ばかりではなく、心的体験の領域においてはすべて、受動的にうけとられた印象が小児には能動的な反応を起こす傾向を生みだす、ということである。以前に自分がされたりさせられたりしたことを自分でやってみようとするのである。それは、小児に課された外界を征服しようとする仕事の一部であって、苦痛な内容をもっているために小児がそれを避けるきっかけをもつこともできたであろうような印象を反復しようと努める、というところまでも導いてゆくかもしれないものである。小児たちの遊戯もまた、受動的な体験を能動的な行為によって補い、いわばそれをこのような仕方で解消しようとする意図に役立つようになっている。医者がいやがる子供の口をあけて咽喉をみたとすると、家に帰ってから子供は医者の役割を演じ、自分が医者に対してそうだったように自分に無力な幼い兄弟をつかまえて、暴力的な処置をくりかえすのである。受動的なことに反抗し能動的な役割を好むということが、この場合は明白である。(フロイト『女性の性愛について』)

ここに女性嫌悪の機制のひとつが記されている。全能の母=女に受動的な状態におかれた幼児期の男女とも、〈女〉への能動性=攻撃性に転じる。

以下、フロイトの『精神分析概説』から挿入する。ーー1940年出版であり、死後出版。 『モーセという男と一神教』後、書き始められ、癌の手術を受けるために中断され、死の枕元に未完草稿があったとされる。

子どもの最初のエロス対象は、乳幼児を哺乳する母の乳房である。愛の起源は、栄養欲求が満たされることへの愛着にある。乳幼児は最初は疑いもなく、乳房と自らの身体とのあいだの区別をしていない。乳房が身体から離れ「外部」に移行されなければならないときーー子どもはたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼は対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給の一部と見なす。

のちに乳房という最初の対象は、子どもの母という人物のなかへと統合される。その母は、子どもに哺乳するだけではなく世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は子どもにとっての最初の「誘惑者」となる。この二者関係に、母の重要性の根源がある。

人の全人生にとって、独自で、比べもののなく、変わりようもなく確立されている母の重要性。それは男女どちらの性にとっても、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母である。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse 、1938)よりーー英訳よりの粗訳)

《他の性 l'Autre sexe は、男たちにとっても女たちにとっても〈女〉La Femme である》(Jacques-Alain Miller,The Axiom of the Fantasm)とラカン派でいわれる理由のひとつもこのフロイトの説明のなかにある(ただし、ラカン派ではそれだけではない→S(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme)。

ラカンは子どもの乳離れについて、(標準的には気づきにくい)鋭い指摘をしている。《子どもが乳離れさせられるというのは本質的には真実ではない。彼は自ら乳離れする、乳房から距離 をおく。彼は遊戯する、…乳房から距離を置いたり、ふたたび取りついたりと。》(セミネールⅩ「不安」ーー「譲渡できる対象objet cessibleとしての対象a」)


すこし前に戻れば、受動性から能動性へのメカニズムはトラウマ患者にもあるとされる(参照:トラウマ患者の「暴力」性)。

治療における患者の特性であるが、統合失調症患者を診なれてきた私は、統合失調症患者に比べて、外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」であると感じる。この侵入性はヒントの一つである。それは深夜の電話のこともあり、多数の手紙(一日数回に及ぶ!)のこともあり、私生活への関心、当惑させるような打ち明け話であることもある。たいていは無邪気な範囲のことであるが、意図的妨害と受け取られる程度になることもある。彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。世話になった友人に対してストーキング的な電話をかけつづける例もあった。(中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収 P.106)

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フロイトはくり返し言っているが、人は内的な脅威から逃れうるのは、唯一外部の世界にそれを投影することだ、と。問題は享楽の事態に関して、外部の世界はほとんど女と同義だということだ…

三つの宗教の書、初めにすべての悪の源としてイヴ、次にカトリックの性と女の不安と憎悪、最後にムスリムのベールなどへの強制。女は男を誘惑し破滅させるので、寄せつけないようにしなければならない。これは次のように読むべきだ。我々自身の享楽、我々の身体から生じる欲動は、享楽的であるだけではなく、我々が統御する必要のある、明らかに脅迫的な何かだ。統御するための最も簡単な方法は、その享楽を他者に帰してもし必要なら、この他者を破壊することだ。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)
注) 我々の現代的西欧社会では、最初の世話役は父でありうるし、ジェンダーの平等が多かれ少なかれ成就している。その社会では、男たちに向かっての女たちからの同じ反応を漸次、観察できるようになった。すなわち、男たちのエロティックな魅力の見せびらかしを非難しつつ、同時に、自らの欲動と享楽を見て見ぬふりをする女たちである。(ヴェルハーゲ、2009)

《彼女は反ユダヤ主義者ではない、ちがうさ、いやはや、でもやっぱり聖書によって踏みつぶされたのが何かを見出すべきだろう …別のこと… 背後にある …もうひとつの真実を…

「それなら、母性崇拝よ」、デボラが言う、「明らかだわ! 聖書がずっと戦っているのはまさにこれよ …

「そうよ、それに何という野蛮さなの!」、エドウィージュが言う。「とにかくそういったことをすべて明るみに出さなくちゃならないわ …」》(ソレルス『女たち』)

ーーデボラは、ソレルスのパートナー、クリステヴァがモデルとされている。

モーセはヤハウェを設置し、キリストも同じくヤハウェを聖なる父として設置した。ムハンマドはアラーである。この三つの宗教の書は同時に典型的な男-女の関係性を導入する。そこでは、女は統御されなければならない人格である。なぜなら想定された原初の悪と欲望への性向のためだ。

フロイトもラカンもともに、この論拠の少なくとも一部に従っている。それ自体としては、奇妙ではない。患者たちはこの種の宗教的ディスクールのもとで成長しており、結果として、彼らの神経症はそれによって決定づけられていたのだから。

奇妙なのは、二人ともこのディスクールを、ある範囲で、実情の正しい描写と見なしていることだ。他方、それは現実界の脅迫的な部分ーーすなわち欲動(フロイト)、あるいは享楽(ラカン)--の想像的な加工 elaboration、かつその現実界に対する防衛として読み得るのに。

ラカンだけがこの陥穽から逃れた。とはいえ、それは漸く晩年のセミネールになってからである。私の観点からは、このように女性性を定義するやり方は、男自身の欲動の投影以外の何ものでもない。それは、女性を犠牲にして、欲動に対する防衛システムが統合されたものである。(ヴェルハーゲ、New Studies of Old Villains: A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、2009、PDF

《ラカンだけがこの陥穽から逃れた》とあるが、いかに逃れたのかの詳細説明は、「エディプス理論? ありゃ《まったく使いものにならないよ! 」を見よ。

なお、言うまでもないことかもしれないが、これらは主にフロイト・ラカン派による「解釈」であり、かならずしも正しいというわけではない。