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2016年6月20日月曜日

隠れた人生(デカルト)と神=女(ラカン)

以下、「他者に愛されたいという欲望(承認欲望)」から引き続く。

…………

《自分は決して媚びないと知らせることは、すでに一種の媚びである》(ラ・ロシュフーコー)

ーー自分には決して承認欲望はないと知らせることは、すでに一種の承認欲望である。

…………

私は、自分から進んでものを書いたことがほとんどない。私は探求ほどには執筆に魅力を感じない。学術論文も含めて、私の書いた散文はほとんどすべて依頼原稿から成り立っている。詩の翻訳の一部だけが例外といえば例外である。しかし、現代ギリシャ詩の訳も最初は私家版で出したものであった。私に書き下しを求めた編集者は少ないとはいえないが、今日まで私はほんとうの書き下しを一冊も書いていない。 (中井久夫「編集から始めた私」『時のしずく』所収)
私は高校二年の時、「隠れた人生が最高の人生である」というデカルトの言葉にたいへん共感した。私を共鳴させたものは何であったろうか。私は権力欲や支配欲を、自分の精神を危険に導く誘惑者だとみなしていた。ある時、友人が私を「無欲な人か途方もない大欲の人だ」と評したことが記憶に残っている。私はひっそりした片隅の生活を求めながら、私の知識欲がそれを破壊するだろうという予感を持っていた。その予感には不吉なものがあった。私は自分の頭が私をひきずる力を感じながら、それに抵抗した。それにはかねての私の自己嫌悪が役立った。 (同上)

 「隠れた人生が最高の人生である」という言葉に共感する中井久夫が、なぜ「無欲な人か途方もない大欲の人だ」と評されたのだろうか。

「隠れた人生」とは、他者と極力交わらず、我が道を独り歩むということだろう。前回、ラカンの「人間の欲望は他者の欲望」、あるいはヘーゲルの「他者に承認されたい欲望」に触れたが、「隠れた人生」願望は、そこから逃れようとすることだろう。それは「無欲」につながる、とまずはいえる。

だがそんなことはありうるのだろうか。友人が「途方もない大欲の人」だと言ったのは、そんなことはありえそうもないよ、という感慨からの言葉なのではないか。

ここでは、中井久夫が「隠れた人生が最高の人生だ」と友人に漏らしたという前提で話をすすめる(実際のことろは上の文章からは不明だが)。そしていささか飛躍がありはしないかということを恐れるが、それは「承認欲望」の拒絶宣言とわたくしはとる。

ヴァレリーはまずはーーあるいはすくなくともある時期はーー、デカルトの人であっただろうし(『方法序説』の美しい序文を書いている)、中井久夫はヴァレリーの人である。

彼が独占的にヴァレリーであったことは一度もないのだ。彼はヴァレリー‐マラルメであったし、ヴァレリー‐ダヴィンチであったし、ヴァレリー‐ワグナーであったし、ヴァレリー‐デカルトであった。彼はヴァレリー‐テストでさえあった。彼はこれらの人物たちのいずれかの権威の下に自分の身を位置付けてきた。時に応じ必要に応じて、同一化するならばこちらの人物よりもあちらの人物にした方が多少は適当であるという判断に応じて、彼はそうしてきたのである。(Denis Bertholet, Paul Valéry 1871-1945, 1995)
フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、私の人生の中でいちばん付き合いの長い人である。もちろん、一八七一年生まれの彼は一九四五年七月二十日に胃癌で世を去っており、一八七五年生まれの祖父の命日は一九四五年七月二十二日で、二日の違いである。私にとって、ヴァレリーは時々、祖父のような人になり、祖父に尋ねるように「ヴァレリー先生、あなたならここはどう考えますか」と私の中のヴァレリーに問うことがあった。 (中井久夫「ヴァレリーと私」(書き下ろし)『日時計の影』2008)

ーーヴァレリー先生、あなたならどう考えますか、隠れた人生について。

《われわれは自分の考えをあまりに他人の考えのかたちに照らし合せて評価しすぎるということだ!》

公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽―――になぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』)

だが中井久夫はこうも指摘している、《大沈黙をあえてしたヴァレリーにして「あなたはなぜ書くのか」というアンケートに「弱さから」と答えている(彼は終生金銭に恵まれなかった)≫ (中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」)

この「弱さ」とは何か。まず職業としての詩人・作家に誘惑されてしまった(生活のために)という含意があるはずだ。

ところで、ヴァレリーは後年つぎのようにも言っている。

人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。

かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。

自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。

(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳、「現代詩手帖」九、一九七九年)

ーーこの文への中井久夫のコメントは、≪訳者によれば、この手段は「言語」であるそうだが、ヴァレリーがそう考えていたにせよ、それは言語に限ったことではないと考えてもよさそうである。私は、このアフォリズムを広く解して「私が自分と折り合いをつけられる尺度は私が他者と折り合いをつけられる、その程度である」というふうにした。≫(「ヴァレリーのカイエと中井久夫」)とある。

「言語」も、そしてここで中井久夫がいう「他者」も、「欲望は他者の欲望」(ヘーゲル=ラカン)の他者であるとしてよいだろう。

このように、人は「他者」が必要なのである。それがどんな他者かは、各人違いはあるだろうが。

欲望とは、常に-既に「欲望の欲望/欲望への欲望」である。すなわち「大他者の欲望」のすべてのヴァリエーションは次の通り。

・私は私の他者が欲望するものを欲望する。
・私は私の他者によって欲望されたい。
・私の欲望は、大他者ーー私が組み込まれた象徴領野ーーによって構造化されている。
・私の欲望は、リアルな他の物 autre chose の深淵によって支えられている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、私訳)

デカルトの他者はまずは「神」であっただろう。

われわれがきわめて明晰に判明に理解するところのものはすべて真であるということすらも、神があり現存するということ、神が完全な存在者であること、および、われわれのうちにあるすべては神に由来しているということ、のゆえにのみ、確実なのである。(デカルト『方法序説』)

デカルトの時代には、神という他者があった。

(グールドは)演奏家、作曲家、聴衆が分れていない黄金時代を夢みた。

グレゴリア聖歌を唱う者にとって、聴衆のための演奏など思いもよらぬことであった。彼らが唱うとき、彼らを通して神の声が唱う。あるいはそれは天使の声であるかもしれない。しかしそこに集う者たちは聴くためだけではなく秘儀をとりおこなうために来ているのだ。音楽は信徒に語りかけるのではない。彼らに代わって唱われるのであり、しかも聖歌は誰もそれを聴く人間がいなかったとしてもまったく変わることはないはずだ。それは物理的な顕現でしかない。仮りに音楽が聴く者に外部から触れるとしても、そのほんとうの源は聴く者の内部にある。聖歌は音響に姿を変えた祈りとなるのだ。(ミシェル・シュネデール、グールド『孤独のアリア』)

とすれば、「神」がないわれわれの、まずは第一に頼るべき他者はなんだろうか。

「大他者の(ひとつの)大他者はある」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。(ラカン、セミネールⅩⅩⅢ、 サントーム)

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».

とはいえ、〈女〉とは実際のところは何か? 信頼に値する異性の友人だろうか。

創作の全過程は精神分裂病(統合失調症)の発病過程にも、神秘家の完成過程にも、恋愛過程にも似ている。これらにおいても権力欲あるいはキリスト教に言う傲慢(ヒュプリス)は最大の陥穽である。逆に、ある種の無私な友情は保護的である。作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない。(中井久夫「創造と癒し序説」——創作の生理学に向けて)

それともアノ女だろうか。

外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩といして結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収)


さて、ここではラカンも「女狂い」だったという噂話にはしらんぷりして(「じいさん」の覗き趣味)ーーだが、神のいない現在、われわれは、実のところ、ラカンや荷風やらのように覗き見によって「漂流(出現ー消滅)する女たち」を神のかわりにすべきではないだろうか・・・





ーーいやいや、「正統的」?ラカン派観点からいえば、神とはS1(主人のシニフィアン)であり、女は対象aである。

不可能の「女」は、象徴的フィクションではなく、幻影的幽霊 fantasmatic specter であり、それは S1 ではなく対象 a である。((ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012ーー難解版:「〈他者〉の〈他者〉は外-存在する」(ジジェク=ラカン))

ラカンには、《女は男のサントームである [Une femme est pour tout homme un sinthome]》(S.23)という言明もあるが、このサントームも結局対象aにかかわる(参照:原抑圧・原固着・原刻印・サントーム)。

そして、女たちにとっても〈女〉は他者である。《他の性 l'Autre sexe は、男たちにとっても女たちにとっても〈女〉La Femme である》(Jacques-Alain Miller,The Axiom of the Fantasmーー「女性嫌悪のメカニズム」)。

とすれば、女は、究極的には、男のサントームだけではなく、人間のサントームである。サントームとは身体の出来事、母による最初の侵入の徴(原刻印)、享楽の原子等々である。

(格調高く始まったはずのこの記事が、女狂いや覗き趣味の話をかすかに掲げただけで、いささか地に堕ちつつあるので、このあたりで飛躍を厭わず軌道修正しなくてはならぬ・・・)

ここでなぜか、プルーストの「洗濯屋の二人の小娘」の話を挿入することにする。

アンドレを見つめているうちに、これまで何度も想像しようと努力してきてやっとかいま見たと思った、あのアルベルチーヌの快楽、それのあらわれを、こんどはべつのときに、目によってではなく耳によって、とらえたと思ったことがあった。私はアルベルチーヌがよく行ったというある地区の洗濯屋の二人の小娘を、ある売春宿にこさせたのであった。その一人に愛撫されたもう一人の小娘が突然何やら口にしはじめたとき、それがなんのことか、最初私にはよくききわけられなかった、なぜなら、人は自分の経験していない感覚が発する独自な一くせある音声の意味を、けっして正確につかむものではないからである。隣室にいて人が何も見ずにきくとき、麻酔で眠らせられずに手術を受ける患者が放つ苦痛の声を、人はばか笑とまちがえることがある。また、子供がたったいま死んだときかされる母親の口から出てくる声についても、われわれが事情を知らなければ、そこに人間的な解釈を適用することが困難なのは、獣とか竪琴とかからきこえてくる音の場合とおなじである。上に挙げた患者と母親との二つの声があらわしているのは、われわれ自身がそれまでに知ることのできた、しかしこの場合とはちがった感覚との類推によって、われわれが苦しみと呼んでいるものである、ということを理解するには、いささか時間の余裕を必要とするのである。したがって、くだんの小娘の口から出た音声があらわしていたのは、私自身がそれまでに知っていてこの場合とはちがっていた感覚との同様の類推によって、私が快楽と呼んだものである、ということを理解するには、私にとってもやはり時間の余裕を必要としたのであった。しかも、その快楽は、よほど強烈なものであったにちがいなく、それを感じている女を極度にふるえわななかせ、口からは未知の言葉をしきりに吐きださせていた。その未知の言葉は、この小さな女が身をもって演じている快い劇の全局面をはっきりコメントしているように思われるが、その劇を私の目からかくしているのは、当の女以外の者にたいして永久におろされた幕で、その見えない舞台はそれぞれの女の内密の神秘のなかに経過してゆくのである。(プルースト「逃げさる女」井上究一郎訳)

ーー「肝心のとこがもう一つけけん。そやけどよく唸りはる女や」(野坂昭如『エロ事師たち』)


………こうして、コレット・ソレールの言明、「欲望は剰余享楽の換喩である」をめぐって思考することが可能になる。剰余享楽とはもちろん対象aのことであり、上にジジェク文を引用したように、≪私の欲望は、リアルな他の物 autre chose の深淵によって支えられている≫とされるときのautre choseでもある。

ところで、ラカンの名高い「昇華」 la sublimation の定義に、《物の尊厳への対象の昇化[l'objet, ici, est élevé à la dignité de la Chose]》(S.Ⅶ)という定式がある。

だがこの≪〈物〉 la Choseは、本質的に、〈他の物〉Autre choseである≫(S.Ⅶ)、すなわち剰余享楽、あるいは対象aである。

だが対象aとは具体的にいえばいったいなんなのか。

もしロレンツォ・キエーザの次の五種類の定義に依拠するなら、そのどれなのか(参照:対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa))。

①S(Ⱥ)としての象徴的ファルスΦによって生み出された裂け目の想像的表象
②主体から想像的に切り離されるうる部分対象
③シニフィアン化される前の、すなわちS(Ⱥ)以前の Ⱥ
④母なる〈他者〉(m)Otherの得体の知れない欲望
⑤アガルマ、すなわち隠された秘宝、あなたのなかにあってあなた自身以上のもの

最も根源的な対象aとは、③である。そしてȺ とは原トラウマ、そしてそのȺ のシニフィアンS(Ⱥ)が、≪書かれぬことをやめぬ[ce qui ne cesse de ne pas s'écrire]≫(Lacan, S.XX)ものであり、サントーム、あるいは斜線を引かれた女 Lⱥ Femmeの主要なの意味のひとつである(参照:S(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme)。

上の対象aの定義④≪母なる〈他者〉(m)Otherの得体の知れない欲望≫もS(Ⱥ)と捉えうる(参照:ラカン派の「母の欲望」désir de la mèreをめぐる)。

「母なる超自我」( surmoi mère) ……思慮を欠いた法としての超自我S(Ⱥ) は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望とは、父の名によって隠喩化され、支配さえされする以前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(ジャック=アラン・ミレールーー参照
法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話されている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語のなかで、話すことを学ぶ。この言語へに没入によって形成され、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。(Geneviève Morel、2009,私訳) 

この母なる超自我、あるいは母の法が、われわれの神であり、Lⱥ Femmeである。晩年のラカンの≪〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だ≫はこのように読まなければならない。そしてこれがリアルな「他者」である、≪私の欲望は、リアルな他の物 autre chose の深淵によって支えられている≫(ジジェク、2012)。

このようにみてくると〈他の物〉Autre chose の真の核心は、他の性 Autre sexe なのではないか。

ここで中井久夫に戻れば、氏は遠慮してこう言っているが実のところ分かっているに相違ない、《私にはやはり、ジ・アザー・セックス、ジェンダーは謎のままにして置きたいですね》(「「身体の多重性」をめぐる対談ーー鷲田清一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)

精神分析は入り口に「女性というものを探し求めないものはここに入るべからず」と掲げる必要はありません。というのも、そこに入ったら幾何学者でもそれを探しもとめるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)

もちろんこの女 Lⱥ Femmeは、原トラウマ(のシニフィアン)のことでもあり、すなわち原初の傷・原刻印である。

美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)




原トラウマとは、母によって徴付けられる。

ラカン的観点からは、我々はこう言うことができる、乳幼児を世話するとき、〈他者〉としての母(m)Otherは、子どもの身体に彼女の享楽を徴づけると。言い換えれば、初期の幼児の世話の経験ーーアタッチメント理論や発達研究などであんなにも焦点を当てられいるーーは、ラカン派の用語でも、まさに同じく、〈他者〉の欲望の経験である。

ラカンが適切に言ったように「人間の欲望は〈他者〉の欲望である」。母は「誘惑する女seductress」だというフロイトの仮定は、このレンズを通して眺めると意義深い。

この心理的な他者の表現-能印expressionは、幼児にとって印象-受印impressionとなる。他者の反応を通して、子どもは、身体のリアルにおいて何を経験しているかということに、メンタルな接近を獲得し得る。それと同時に、他者を通して、身体のリアルを取り扱う最初の方法を学ぶのだ。

快あるいは不快の時、親は「どうやって取り扱うか」というメッセージを鏡像化mirroringして伝える。ラカンをパラフレーズするなら、我々はこう言うことができる、〈他者〉の言説なのは無意識だけではない、実に意識も同様なのだ、と。この場なのである、我々のアイデンティティの基礎を見出すのは。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009 私訳ーー享楽の「侵入」

この享楽の徴が、書かれぬことをやめぬもの“ce qui ne cesse de ne pas s'écrire”(Lacan, Séminaire XX Encore)である。そしてそれは上にGeneviève Morelを引用したように≪これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる≫。

まさに享楽の喪失が、その自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生み出す。というのは享楽は、いつも常に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)
享楽はシニフィアン組織への入口である。というのは、一つの特徴 unary trait が刻印されて享楽の徴として反復されるからだ。反復の目標は、それ自体享楽であり(享楽の侵入としての刻印の反復)、かつまたこの享楽に反対するものである(一つの特徴 unary trait とシニフィアンはつねに喪失を意味する)。それゆえ、どの反復も反復しよとする未満のものである。 (Enjoyment and Impossibility, Paul Verhaeghe 2006 私訳ーー二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe))

すなわち、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶としての最初のトラウマである。これが、 身体の出来事=サントーム《un événement de corps = sinthome》 (Lacan,JOYCE LE SYMPTOME,AE.569,1975) の核心の意味である・・・

外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収ーーある臨界線以上の強度のトラウマ

(さて、ここに記された文は、どこまでマジなのだろうか・・・その判断は〈あなた〉にお任せする)