このブログを検索

2016年6月21日火曜日

結婚の真理

今、家族の結合力は弱いように見える。しかし、困難な時代に頼れるのは家族が一番である。いざとなれば、それは増大するだろう。石器時代も、中世もそうだった。家族は親密性をもとにするが、それは狭い意味の性ではなくて、広い意味のエロスでよい。同性でも、母子でも、他人でもよい。過去にけっこうあったことで、試験済である。「言うことなし」の親密性と家計の共通性と安全性とがあればよい。家族が経済単位なのを心理学的家族論は忘れがちである。二一世紀の家族のあり方は、何よりもまず二一世紀がどれだけどのように困難な時代かによる。それは、どの国、どの階級に属するかによって違うが、ある程度以上混乱した社会では、個人の家あるいは小地区を要塞にしてプライヴェート・ポリスを雇って自己責任で防衛しなければならない。それは、すでにアメリカにもイタリアにもある。

困難な時代には家族の老若男女は協力する。そうでなければ生き残れない。では、家族だけ残って広い社会は消滅するか。そういうことはなかろう。社会と家族の依存と摩擦は、過去と変わらないだろう。ただ、困難な時代には、こいつは信用できるかどうかという人間の鑑別能力が鋭くないと生きてゆけないだろう。これも、すでに方々では実現していることである。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」2000年初出『時のしずく』所収ーー「二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障」)

≪家族が経済単位なのを心理学的家族論は忘れがち≫とある。結婚したカップルも経済単位である。困難な時代にはなおさらである。日本は困難な時代に入りつつあるのではないか。

ところで、ニーチェは間違っていたのではないだろうか、≪結婚の基礎は「恋愛」にあるのではなく、 ――その基礎は、性欲に、所有欲に(所有者としての妻や子供)、支配欲にある≫などとは。

カントによる結婚の定義も同じく。結婚とは≪性の異なる二人の成人が互いの性器の使用に関して取り交わす契約≫。

彼ら二人とも独身で生涯すごすことによって、結婚に極端な偏見と怨恨(とひょっとして過剰な憧憬)をもっていたに相違ない・・・

時代や階級的背景があるにしても、まだ日本の論者の指摘のほうがすくなくとも大衆社会における結婚の真理に近い。すなわち、《「結婚」とは、もてない男を孤独から救う制度である。逆に言えば、自分で多くの友人や恋人を獲得する能力がある「もてる男」ならば、「結婚」などする必要がない》(小谷野敦(『もてない男』)とか、タガメ女論、結婚とは《男性を”搾取”するシステム》等々。

もちろんここで上野千鶴子女史のマルクス起源だと思われるもする言葉を引用してもよい、 《結婚は合法的売春である》と。だが、これもどこかピントがはずれている。

結婚が経済単位であるのは思慮外におき、なおかつ性に焦点を絞れば、ラカン派的観点が結婚の真実である。

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から「彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの」、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,私訳)

ニーチェさん、あなたにも穴があるのだ。

私はときどき考えているのだが、ニーチェの長患い(頭痛やら眼のトラブル)は、若く才能のあるインテリたちの間で観察してきた病気と同じケースじゃないか、と。私はこれらの若者たちが朽ち果てていくのを見てきた。そしてただひたすら痛々しく悟ったのは、この症状はマスターベーションの結果だということだ。(ワーグナー、 April 4, 1878ーー「オナニスト」ニーチェ

ーー私は少しばかり窓を開けたい。空気を! もっと空気を!(ニーチェ『ヴァーグナーの場合』)

次の文は窓を開けないまま書いたに違いない。それともアリアドネにふられた恨みが残りつづけていたのだろうか・・・≪賢くあれ、アリアドネ!……そなたは小さき耳をもつ、そなたはわが耳をもつ。≫(ニーチェ『ディオニュソスーディテュランボス』)。

賢くあれ、ニーチェ! あなたは「内耳」(Labyrinth)=「迷路」(Labyrinth)を彷徨ったのだ・・・

…… 今日のために生き、きわめて迅速に生き、 ――きわめて無責任に生きるということ、このことこを「自由」と名づけられているものにほかならない。制度を制度たらしめるものは、軽蔑され、憎悪され、拒絶される。すなわち、人は、「権威」という言葉が聞こえるだけでも、おのれが新しい奴隷状態の危険のうちにあると信じるのである。

それほどまでにデカタンスは、私たちの政治家の、私たちの政党の価値本能のうちで進行している。だから、解体させるものを、終末を早めるものを、彼らはよしとして本能的に選びとる・・・その証拠は近代的結婚。近代的結婚のうちからは明白にあらゆる理性が失われてしまっている。しかしこれは結婚に対して異論をとなえるものではなく、近代性に対してである。

結婚の理性 ――それは男性だけが法律的責任を負うことにあった。このことで結婚は重力をもっていたのに、今日では結婚は両脚でびっこをひいている。結婚の理性 ――それは原理的に離縁できないことにあった。このことで結婚は、感情、激情、瞬間の偶然に対して、心に聞くことを心得ている一つのアクセントをえていた。同じくそれは配偶者の選択に対して家族が責任を負うことにあった。

人はますます寛大となって、恋愛結婚に有利なように、まさしく結婚の基礎を、結婚をしてはじめて一つの制度たらしめるものを除去してしまった。人は制度というものを或る特異体質のうえに建てることは絶対にない。

すでに言ったごとく、結婚の基礎は「恋愛」にあるのではなく、 ――その基礎は、性欲に、所有欲に(所有者としての妻や子供)、支配欲にあるのであって、この支配欲が、家族という最小の支配形態をたえず組織化し、権力、感化、富の達成された量を生理学的にも固持するために、長い課題を、何百年かのあいだの本能の連帯性を準備するために、子供と後継者とを必要とするのである。

制度としての結婚は、最大の、最も持続性のある組織形式の肯定をすでにそれ自身のうちにふくんでいる。だから、社会自身が全体として最も遠い世代の先までおのれを保証することができないなら、結婚は総じて意味をもたない。―― 近代的結婚はその意味を喪失した、 ――したがってそれは廃止されるのである。 ――(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」三十九 )


いや、わたくしはあなたを敬愛し続けている。ただし女と性欲は、あなたでさえ誤りへと誘惑する相当なものなのだ・・・

私の誤りは、(……)少なくとも不名誉にはなっていない! そうした見当ちがいをするということは、相当のことであり、ほかならぬ私をこのように誤りへと誘惑するということも、やはり相当のことである。(ニーチェ「「ヴァーグナーの場合」のための最初の覚え書き」)

それもやむえない、なぜなら、女は、見せかけに関して、とても偉大な自由をもっている![la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant !] [ Rires ](ラカン、セミネール18)ーーから。

あなたも言っているではないか。

真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』序文)

女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口をやってしまったのではないだろうか・・・


もちろんここでの記述は、 [ Rires(笑) ]をベースにしていることを断っておかないと、ネットというのは厄介なことになりかねないーー。