2016年6月22日水曜日

娼婦と「もらい湯」

……私にとっては、或る人間について重要に思われることは彼の生涯における偶発的な諸事件ではなく、彼の生れとか、彼の恋愛事件とか、種々の不幸とか、その他、彼について実地に観察することができる事実の殆どすべては、私には何の役にも立たない。すなわちそれらの事実は、或る人間にその真価を与え、彼と彼以外のあらゆる人間との、また彼と私との決定的な相違を生ぜしめている事柄について、私に何事をも教えてはくれない。

そして私としてもしばしば、この種類の、我々の認識を実質的には少しも深めはしない生活上の消息について、相当な好奇心を抱くことがあるのだが、私の興味を惹く事柄が必ずしも私にとって重要なものであるとは限らないのであって、これは私だけでなく、だれの場合にしても同じことが言える。要するに、我々は、我々を面白がらせることに対して常に警戒していなければならない。(ヴァレリー『ドガ・ダンス・デッサン』 吉田健一訳)

…………

隠れた人生(デカルト)と神=女(ラカン)」にて、ジャコメッティの写真を貼り付けたこともあり、「アルベルト・ジャコメッティの視線(3) 外部性」という文を読んでみた。

いやあ、いい話だな。
ジャコメッティの「真価」についてはリンク元を読んでもらうことにして、
ここでは、≪我々の認識を実質的には少しも深めはしない
生活上の消息について、相当な好奇心を抱≫いてみよう。

ジャコメッティは食事はカフェでとり、入浴は知り合いの娼婦のところで「もらい湯」をするという非生活者として生きた。



ああ、なんという男前だろう

彼はほほえむ。すると、彼の顔の皺くちゃの皮膚の全体が笑い始める。妙な具合に。もちろん眼が笑うのだが、額も笑うのである(彼の容姿の全体が、彼のアトリエの灰色をしている)。おそらく共感によってだろう、彼は埃の色になったのだ。彼の歯が笑う――並びの悪い、これもやはり灰色の歯――その間を、風が通り抜ける。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』)




わたくしは、少年時代、加藤周一 → 森有正 → 矢内原伊作という流れで、ジャコメッティを知ったのだが、そして東京で学生生活を送るなか、八重洲のブリジストン美術館の彼の作品をなんとか「盗む」方法はないかと思案したのだが・・・、まあそれはこの際どうでもよろしい。

私はこんな奇妙な印象を受ける、つまり彼がそこにいると、それに触れなくとも、すでに完成された古い彫像たちは、変質し変貌する、なぜなら彼は彫像たちの姉妹のひとりにいま取りかかっているからだ。しかも一階にあるこのアトリエはいまにも崩れ落ちようとしている。アトリエは虫食いだらけの木で、灰色の埃でできており、彫像は石膏製で、綱、麻屑、あるいは針金の切れ端が見えている、画布は灰色に塗られ、それが画材屋にあった頃にもっていたあの落ち着きをとっくの昔に失ってしまった、すべては染みだらけで、廃品同然だ、すべては不安定で、いまにも崩れ落ちそうだ、すべては分解に向かっていて、浮遊している。ところで、そんなすべてのものが、ある絶対的実在性のなかでつかみ取られたかのようなのだ。私がアトリエを後にして、表の通りに出ると、私を取り巻くものはもはやなにひとつ真実ではない。こう言うべきだろうか。このアトリエで、ひとりの男がゆっくりと死んでゆき、燃え尽きる、そしてわれわれの眼前で、幾人かの女神たちに姿を変えるのだ。(ジャン・ジュネ)





ああ、史上最高の色男!

私はモリエール女子高等中学校で教えていた。……私たちはキャフェ・ドームを根城にしていた。(……)

サルトルやオルガとしゃべっている時には、私は出たり入ったりする人を眺めるのが大好きだった。(……)とりわけ私たちの興味をそそり、何者だろうと思った男がいた。ごつごつした美しい顔に、髪はぼさぼさ、貪るようなまなざしの男で、彼は毎夜、ひとりきり、または非常に美しいひとりの女性と連れだって、通りを徘徊していた。彼は岩のように強固な、同時に妖精よりも自由な様子をしていた。あんまりすばらし過ぎる。私たちは外見に騙されてはならないことを知っていたし、彼の風貌はあまりにも魅力に溢れていて、見かけ倒しではないかと思いたくなるほどだったのである。彼はスイス人で彫刻家、その名はジャコメッティといった。(ボーヴォワール『女ざかり』ーー「ジャコメッティとジャン・ジュネ(ボーヴォワール自伝より)」)




やはり世紀の色男は娼婦が最高だとおっしゃっているようだ・・・

ところで、「すべての女は娼婦である」と吉行淳之介が言っていたが、こちらの娼婦はやや異なった意味である。

ラカン=ジョン・リヴィエールJoan Rivièreの「仮装としての女性性Womanliness as a Masquerade」とは、「女はすべて娼婦である」こと以外の何ものでもない。ラカンの言葉自体は、「ひとりの女のうちにある不誠実は、けっして深くとがめられることではない」を見ていただくことにして、ここではその簡潔な要約のみをエリザベス・ライトから引用しておこう。

どんなにポジティブな決定をしてみても、女性というのはひとつの本質だ、女性は「彼女自身だ」と定義してみても、結局のところ、女性が演技しているもの、女性が「他者にとって」どういう役割をもっているかという問題に引き戻されてしまう。なぜなら、≪女性が男性以上の主体となるのは、まさに女性が本来の仮装の特徴を帯びているときだけ、女性の特徴が、すべて人工的に「装われている」ときだけだからである(ジジェク)≫。(エリザベス・ライト『ラカンとポストフェミニズム』)

もし、この言明の消息を「理論的に」知りたければ、 「古い悪党フロイトの女性論」に、フロイト、ラカン、ヴェルハーゲ、ジジェクの見解がまとめてある。 「女性の仮装性」とは構造的な問題であり、それを一部の人間が媚態とか娼婦とか呼んでいるだけであり、なにやら貶めているわけでは微塵もない。

たとえば、次のような文は女性の仮装性の説明のヴァリエーションである。

男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。彼の関心は女の上にあり、彼女を「持ちたい」(所有したい)。同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader,1996)の観察によれば)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(”Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ”Paul Verhaeghe,1998,私訳)

たとえば日本におけるミニスカの氾濫とは、この女性の仮装性の顕現のひとつにすぎない(参照:ミニスカ症候群と集団ヒステリー)。

次のジジェクの文も上のヴェルハーゲの説明の変奏である。

……男と女を即座に対照させるのは、間違っている。あたかも、男は対象を直ちに欲望し、他方、女の欲望は、「欲望することの欲望」、〈他者〉の欲望への欲望とするのは。(…)

真実はこうだ。男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェク,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

より詳しくは、「男は私のなかになにを見ているのかしら?」を見よ。

いずれにせよ、我々は見ることを学ばなければならないーー。

人は見ることを学ばなければならない、人は考えることを学ばなければならない、人は語ることと書くことを学ばなければならない。これら三者のすべてのおける目標は一つの高貴な文化である。――見ることを学ぶとはーー眼に、落ち着きの、忍耐の、対象をしてわが身に近づかしめることの習慣をつけることであり、判断を保留し、個々の場合をあらゆる側面から検討して包括することを学ぶことである。これが精神性への第一の予備訓練である。すなわち、刺激にただちに反応することはなく、阻み、きまりをつける本能を手に入れることである。私が解するような見ることを学ぶとは、ほとんど、非哲学的な言い方で強い意志と名づけられているものにほかならない。その本質的な点は、まさしく、「意欲」しないこと、決断を中止しうることである。すべての非精神性は、すべての凡俗性は、刺激に抵抗することの無能力にもとづく、――だから人は反応せざるをえず、人はあらゆる衝動に従うのである。(ニーチェ「ドイツ人に欠けているもの」『偶像の黄昏』所収)

で、なんの話であったか、ーーああ女たちよ!

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

ジャコメッティはじつは女だったのではなかろうか・・・

性別化とは生物学的な性とは関係がない(……)。ラカンが男性の構造と女性の構造と呼んだものは、人の生物学的器官とは関係がない。むしろ人が獲得しうる享楽の種類と関係がある。(ブルース・フィンク,Lacan to the Letter Reading Ecrits Closely Bruce Fink,2004ーーS(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme)

わたくしの愛する芸術家や詩人たちはすべて女なのではないだろうか




…………

ここで最後になぜかバルテュスのアリスを貼り付けておこう。

ーー人々の妄想の鏡のなかですでにアリスの靴や靴下そして下着まで濡れているんだ(吉岡実「人工花園」 )




「ただ この子の花弁がもうちょっとまくれ上がってたりら いうことはないんだがね」(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』)

ーーいや、わたくしはこの程度で充分すぎるくらいだ・・・

ユジャ・ワン (王羽佳)の↓これではややものたりないが、

◆Yuja Wang plays Chopin op 66 Fantasie impromptu




これなら↓充分すぎるくらい堪能できる・・・

◆Yuja Wang Bizet/Horowitz Carmen Variations (encore from Carnegie Hall)




ああ、現代の稀にみるアリス!

彼女のコンサートは、曲目よりもどんな衣装かを告知したほうがいいんじゃないか

いくらわたくしの好みのガーショインでも↓この衣装では悦びが十分の一程度になってしまう。

◆George Gershwin Piano Concerto in F major Wang Yuja - HD





Marcus Robertsと小澤征爾の名演にはかないっこないんだから、衣装で勝負しなくちゃな、アリスちゃん!

◆Gershwin PIANO CONCERTO in FA Marcus Roberts Trio, Ozawa, Berliner Phil