2016年6月23日木曜日

あなたは物の数にはいる何人かの作家を指摘できるか

真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。(ジジェク『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)

真に偉大な哲学者でなくてもよい。真に偉大だとあなたが考える作家がいるとする。彼は、現在の世界をどう見るのか。世界でなくてもよい。現在の日本をどう見るのか。

こう問うたとき、そんな偉大な作家は、〈私〉にはいないと困惑する場合もあるだろう。このわたくしも実は途惑ってしまう。ニーチェの顔を思い浮かべはする。だが他に誰かいるだろうか、と。ようするにまともに書物を読んでこなかったせいである。

この問いに応じる作家としては、プルーストもロラン・バルトも物足りない。フロイトもだめだし、詩人たちにも無理だ。わたくしには、ニーチェしかいない。マルクスがいないのは残念だ。

ジジェクにとっては、ヘーゲルであり、マルクスであり、ラカンなのだろう。

ところで、〈あなた〉には誰かこの偉大な作家がいるか? もしいないなら、できるだけ若いうちに探し求めるべきではないだろうか。

君たちはたった一人だけでもヨーロッパにとって物の数にはいる精神を指摘することができるか? 君たちのゲーテ、君たちのヘーゲル、君たちのハインリヒ・ハイネ、君たちのショーペンハウアーが物の数にはいったように? ーーただ一人のドイツの哲学者ももはやいないということ、これは、いくら驚いてもきりのないことである。ーー(ニーチェ「ドイツ人に欠けているもの」)

こう問われて、〈あなた〉は物の数にはいる作家を何人か指摘できたら幸せである。もちろんそれは日本の作家でもいい。

もっともこの問いに次のように応じる方法もある。

そしてもし私が、ヘーゲルも、『クレーヴの奥方』も、レヴィ=ストロースの『猫』論も、『アンチ・オイディプス』も読んでいなかったとしたら?―――私が読まなかった本、しかも私がそれを読む時間を見つける以前にしばしば《私に向かって語られていた》本(それこそ、おそらくは私がそれを読まない理由なのだ)、そういう本もまた、読まれた本と同じ資格において存在している。それなりの知的理解可能性、それなりの記憶可能性、それなりの活動様式をそなえている。私たちに、あるテクストを《いっさい文字の外で》受信するだけの自由がないと言えるのか。

(抑制。ヘーゲルを読まなかったとなれば、それは途方もない失点だろう、哲学の教授資格をもつ人やマルクス主義の知識人やバタイユを専攻している人にとっては。しかし私だったら? わたしの必読義務はどこから始まるのか?)

エクリチュールの実践に身を置く人は、あまり嫌がらずに、自分の思考の感度や管轄を縮小したり逸脱させたりすることを受け容れる(次のようなせりふを言う際によくもちいられる口調を辞すべきではないというわけだ、たとえば《それが私にとって何だというのです?》とか、《私が肝心な点を押さえていないとでもいうのですか?》とか)。エクリチュールの中には、ある種の惰性、ある種の精神的《安易さ》のもたらす快楽があるのかもしれない、私はしゃべるときよりも書くときのほうが自分の愚かしさに対していっそう平気でいられる、とでもいった感じなのだ(教師たちは作家たちより何倍も知的らしくはないか)。 (『彼自身によるロラン・バルト』)

この「エクリチュールの実践に身を置く人」が、真の作家である、ということはありえる。だが真の作家には依拠する作家がなくてよいと言えるのか?ーーまさか!

誰かがしゃべっているのを私は聴いて
その人が上手にしゃべれば、──私は書く。
時折私は彼を繰り返ししゃべらせたり、遮ったりする……
しかしここには誰もいないのだ──
とすると存在している者(というのは〈彼〉はしゃべっているのだから)
と、非‐存在者(というのは私には聴き手しか見えてないのだから)とのこの結び付き、
それは〈私〉ということになる。(ヴァレリー『カイエ』1924 年)

蓮實重彦が《私は小説作品として(「探究」シリーズを)読んでいる。彼(柄谷行人)は『探究Ⅱ』を、デカルトとスピノザと3人で書いている。しかも、ワープロを使って》と言ったのはヴァレリーのパクリである。

いやブランショ経由のヴァレリーかもしれない。

書くこと、それは語り止むことのできないもののこだまに、己を化することであり、──そして、そのために、書くことがこだまとなるためには、私は何らかの方法でこの語り止まないものに沈黙を課さねばならない。私はこの絶え間ない発話に私固有の沈黙が持つ決定権、権能を据え付ける。自らの沈黙の媒介を通じて、私はこの途切れることのない発言、この巨大なるつぶやきを感知可能なものにする…(モーリス・ブランショ『文学空間』)

ヴァレリーの誰かは、ダ・ヴィンチであったり、デカルトであったり、マラルメであったりした。ニーチェでもあった。《私はニーチェが言っていることを気にかけない。ニーチェが考えねばならぬことに関心がある》(ヴァレリー『ニーチェ手稿』)

だがここでの問いは、「われわれのいる現状がその作家の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか」である。この問いは政治的・社会的な臭いがする。その問いに応じる作家がいなくてもよいものだろうか。

私は政治を好まない。しかし戦争とともに政治の方が、いわば土足で私の世界のなかに踏みこんできた。(加藤周一「現代の政治的意味」あとがき 1979)
けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう。(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987)

現在の日本が致命的なのは、10年後、20年後に今より良くなっているとはほとんど誰もが想像しえないことではないか。引き返せない長い下り坂が1995年前後から続き、さらに今後も長い下り坂を転げ落ちてゆくのが避けられないと観念しているせいではないか。なにやらが土足で踏み込んでくる足音がきこえくる。途中には財政破綻などの崖もありそうで、自分だけはなんとかその崖から落ちないようにと念じている・・・

もっともあなたがたの多くは、ひどく「文化的」であり、その下り坂や崖に気づかないふりをし、起きていることがあたかも起きていないように行動し続けているのだろう・・・

ところで、ロラン・バルトのなかにニーチェが最もたくさんいるのは、『テクストの快楽』と 『彼自身によるロラン・バルト』 だろうが(最晩年、母の死後にプルーストに変わった)、わたくしは、たとえば下のように書くジジェクのなかに、ラカンだけでなくニーチェがいるとの錯覚に閉じこもっている。

……いくつかの公文書や回想録によると、1970年代半ば、チトー(ユーゴスラヴィアの大統領)は、チトーの側近たちはユーゴスラヴィアの経済が壊滅的であることを知っていた。しかし、チトーに死期が迫っていたため、側近たちはかたらって危険の勃発をチトーの死後まで先延ばしにすることに決めた。その結果、チトーの晩年には外国からの借款が休息に膨れ上がり、ユーゴスラヴィアは、ヒッチコックの『サイコ』に出てくる裕福な銀行家の言葉を借りれば、金の力で不幸を遠ざけていた。1980年にチトーが死ぬと、ついに破滅的な経済危機が勃発し、生活水準は40パーセントも下落し、民族間の緊張が高まり、そして民族間紛争がとうとう国を滅ぼした。適切に危機に対処すべきタイミングを逃したせいだ。ユーゴスラヴィアにとって命取りとなったのは、指導者に何も知らせず、幸せなまま死なせようという側近たちの決断だったといってもいい。

これこそが究極の「文化」ではなかろうか。文化の基本的規則のひとつは、いつ、いかにして、知らない(気づかない)ふりをし、起きたことがあたかも起きなかったかのように行動し続けるべきかを知ることである。私のそばにいる人がたまたま不愉快な騒音を立てたとき、私がとるべき正しい対応は無視することであって、「わざとやったんじゃないってことはわかっているから、心配しなくていいよ、全然大したことじゃないんだから」などと言って慰めることではない。……(文化が科学に敵対するのはこの理由による。科学は知への容赦ない欲動に支えられているが、文化とは知らない/気づいていないふりをすることである)。

この意味で、見かけに対する極端な感受性をもつ日本人こそが、ラカンのいう〈大文字の他者〉の国民である。日本人は、他のどの国民よりも、仮面のほうが仮面の下の現実よりも多くの真理を含むことをよく知っている。(ジジェク『ラカンはこう読め』「日本語版への序文」)

現在の日本は、「トムとジェリー」の、《猫が、前方に断崖があるのも知らず、必死にネズミを追いかけている。ところが、足元の大地が消え去った後もなお、猫は落下せずにネズミを追いかけ続ける》状況であると、〈あなた〉は疑ったことはないか?

たとえばニュートンの有名なリンゴは重力の法則を知っていたから落ちたのだ、などという言い方は馬鹿げているとしか思われない。しかしながら、仮にそうした言い方がただの無内容な洒落だったとしても、われわれは、そうした発想がどうしてこれほど頻繁にコミックスやアニメの中に登場するのか、という疑問をもたねばならない。

猫が、前方に断崖があるのも知らず、必死にネズミを追いかけている。ところが、足元の大地が消え去った後もなお、猫は落下せずにネズミを追いかけ続ける。猫が下を見て、自分が空中に浮かんでいることを見た瞬間、猫は落ちる。まるで<現実界>が一瞬、どの法則に従うべきかを忘れたかのようだ。猫が下を見た瞬間、<現実界>はその法則を「思い出し」、それにしたがって行動する。

こうした場面が繰り返し作られるのは、それらがある種の初歩的な幻想のシナリオに支えられているからにちがいない。この推量をさらに一歩すすめるならば、フロイトが『夢判断』の中で挙げている、自分が死んだことを知らない父親という有名な夢の例にも、これと同じパラドックスが見出される。アニメの猫が、自分の足の下に大地がないことを知らないがゆえに走り続けるのと同じように、その父親は、自分が死んだことを知らないがゆえに今なお生きているのである。

三つ目の例を挙げよう。それはエルバ島におけるナポレオンだ。歴史的には彼はすでに死んでいた(すなわち彼の出る幕は閉じ、彼の役割は終わっていた)が、自分の死に気づいていないことによって彼はまだ生きていた(まだ歴史の舞台から下りていなかった)。だからこそ彼はワーテルローで再び敗北し、「二度死ぬ」はめになったのである。ある種の国家あるいはイデオロギー装置に関して、われわれはしばしばそれと同じような感じを抱く。すなわち、それらは明らかに時代錯誤的であるのに、そのことを知らないためにしぶとく生き残る。誰かが、この不愉快な事実をそれらに思い出させるという無礼な義務を引き受けなくてはならないのだ。(ジジェク『 斜めから見る』)